第56話 敵兵にパンを
「捕虜にも、同じパンを配ってください」
俺が言うと、炊き出し場の手が一斉に止まった。
橋の防衛が終わった夕刻。
負傷者の治療と、守備隊への食事が始まっている。
捕らえた王国兵は、学校裏の空き倉庫へ収容していた。
武器は取り上げたが、縄で縛ってはいない。
出入口には守備兵が立っている。
「同じものを?」
パン屋の主人が聞き返す。
「はい」
「こっちの兵より多くは出せませんよ」
「同じ量で十分です」
主人は腕を組んだ。
「うちの若い衆が、あいつらの矢で怪我をした」
「知っています」
「なのに、焼いたパンを?」
怒るのは当然だ。
俺だって、負傷者の血を見た。
敵兵へ食べさせたくないと思う者を責める気はない。
「嫌なら、配る役は別の者へ頼みます」
「命令しないんですか」
「パンを焼いてもらった時点で、十分助けてもらっています」
主人は倉庫の方を見る。
「若旦那様は、あいつらを許すんですか」
「許すかどうかは、傷つけられた人が決めることです」
「じゃあ、なぜ」
「捕虜を飢えさせても、橋は守れないからです」
俺は答えた。
「俺たちが拒んだのは、領民を飢えさせる命令です。捕まえた兵士を飢えさせたら、同じことをします」
主人は黙った。
やがて、大きな溜息をつく。
「俺は配りません」
「わかりました」
「でも、焼いた分は使っていい」
「ありがとうございます」
「礼は怪我した連中に言ってください」
彼はそう言い、次の生地をこね始めた。
炊き出しの女たちが、パンと豆のスープを盆へ載せる。
クレアが配る役をまとめてくれた。
「敵兵へ近づくことへ不安のある方は、無理をなさらないでください」
数人が残った。
中には、橋で負傷者を運んだ農夫もいる。
「怖くないんですか」
俺が尋ねる。
「怖いですよ」
農夫は答えた。
「でも、武器は持ってないんでしょう」
「はい」
「なら、腹を減らした若者です」
倉庫へ入ると、王国兵たちは壁際へ座っていた。
年齢はばらばらだ。
俺と同じくらいの者。
もっと若い者。
家庭を持っていそうな年配の者。
皆、こちらを警戒している。
「食事です」
クレアが盆を置く。
誰もすぐには手を伸ばさない。
「毒が入っていると思っているのか」
ガレスが尋ねる。
捕虜の一人が答えた。
「反逆者が、何をするかわからない」
「反逆者へ降伏したのは誰だ」
「ガレス」
「事実だ」
空気が尖る。
俺はパンを一つ取り、自分でかじった。
「毒はありません」
「領主が先に食うのか」
兵士が驚く。
「夕食がまだなので、ちょうどよかったです」
「ここで食うな」
ガレスに叱られた。
俺はパンを盆へ戻さず、最後まで食べる。
「皆さんも食べてください」
若い兵士が、おそるおそる手を伸ばした。
パンを割り、匂いを嗅ぐ。
一口食べる。
目が少し見開かれた。
隣の兵も続く。
やがて、倉庫の中へパンを噛む音が広がった。
「何日、まともに食べていなかったんです」
セラフィーナが尋ねる。
公の場なので、彼女はローゼンフェルト公爵令嬢として立っている。
「三日」
年配の兵が答えた。
「軍の食料は?」
「将校と騎兵へ先に回った。歩兵は薄い粥だけだ」
「徴発した穀物を食べる予定だった?」
「そう聞いた」
「ハルフォード領が拒否すれば、奪えと?」
兵士はパンを持ったまま、目を伏せる。
「命令だ」
「命令なら、領民が飢えても?」
「俺たちも飢えてる」
別の兵が声を荒らげた。
「王都を出る時、冬営地に食料があると言われた。来てみれば、地方の倉庫を開けろだ」
「皆さんの家族は?」
「南の村だ」
「徴発が南へも出たら」
兵士の手が止まる。
自分の家族が同じ目に遭う可能性を、初めて考えた顔だった。
「俺たちは、王国を守る兵だ」
若い兵が言う。
「なのに、王国の村から食料を取るのか」
誰も答えない。
疑問は俺たちが植えたのではない。
彼らの中に、もうあった。
空腹と命令で押し込められていただけだ。
「皆さんを解放することは、今すぐにはできません」
俺は言った。
「軍へ戻れば、また橋へ来るかもしれない」
「処刑は?」
「しません」
「本当に?」
「降伏した者を殺さないと決めています」
兵士たちが顔を見合わせる。
「働かせるのか」
「負傷者の手当てと、収容所の掃除は手伝ってもらいます。強制労働ではありません」
「断ったら?」
「食事は減らしません」
年配の兵が、信じられないという顔をした。
「甘すぎる」
ガレスが小声で言う。
「警備は厳しくします」
「それは当然だ」
「逃げる者がいたら?」
「橋へ戻るなら止める。家へ帰ると言うなら」
ガレスが俺を見る。
「今決めるな」
「はい」
軍事の判断は、俺一人で善人らしく決めてはいけない。
俺は捕虜たちへ向き直る。
「皆さんの所属、家族、命令された内容を記録します。話したくないことは話さなくていい」
「拷問は?」
「しません」
「王国軍では、捕虜から話を聞く時は」
兵士は途中で黙った。
その沈黙が、王国軍の規律を物語っていた。
セラフィーナは帳面を開く。
「証言は、本人の署名または印で残します。後で内容を変えません」
「なぜそこまで」
「あなた方が、命令を出した者と同じ責任を負わされないためです」
兵士たちは、初めて彼女を敵ではなく法務官として見た。
食事が終わる頃、一人の若い兵がパンの半分を残した。
「足りませんか」
俺が尋ねる。
「違う。弟へ持って帰ろうと思って」
「弟も軍に?」
「別の部隊だ。向こうの野営地にいる」
持って帰れる保証はない。
それでも、彼はパンを布へ包んだ。
「王国軍へ戻りたいですか」
俺が聞くと、彼はしばらく黙った。
「弟を連れて帰りたい」
「家へ?」
「ああ」
反逆でも忠誠でもない。
ただ、家へ帰りたい。
それは、こちらの領民と同じ願いだった。
倉庫を出ると、パン屋の主人が遠くから様子を見ていた。
「食べたか」
「はい」
「文句は?」
「ありませんでした」
「そうか」
主人は新しい籠を差し出す。
「明日の朝の分だ。固くなる前に配れ」
「ありがとうございます」
「許したわけじゃない」
「わかっています」
「でも、腹が減ったままじゃ、何が正しいか考えられん」
その言葉に、俺はうなずいた。
夜、対岸の王国軍から白い布を掲げた使者が来た。
捕虜の扱いを確認したいという。
使者へ、負傷者の名簿と食事の記録を渡す。
彼は紙を見て、何度も読み直した。
「本当に、全員生きているのか」
「はい」
「食事も?」
「同じパンです」
使者は橋の向こうを振り返った。
「こちらでは、ハルフォード領は捕虜を殺し、穀物を独占していると聞かされています」
「見たことを、そのまま伝えてください」
彼は返事をせず、紙を持って戻った。
橋の向こうの軍営で、疑問が一つ増えた。
それは矢より遅く、しかし遠くまで届くかもしれなかった。




