第55話 橋を守れ
「正面から押し返そうとするな。橋へ入れ、途中で止める」
夜明け前、ガレスが河岸の地図を指した。
「橋へ入れるのか?」
俺が尋ねる。
「全部は入れん。先頭だけだ」
領境を流れる川には、古い石橋が一本ある。
王国軍が大軍のまま渡れる場所は、そこだけだ。
橋を壊せば進軍は止まる。
だが、近隣との交易も、避難者の帰路も失う。
だから壊さず、使わせない。
「河岸の西側は昨日の水路でぬかるませた」
ガレスが続ける。
「東は崖。橋の出口へ荷車を三列。先頭が詰まれば、後ろは動けん」
「弓は?」
「威嚇を優先。馬を狙うな。暴走すれば敵味方まとめて踏まれる」
敵を倒すより、進ませない。
農具と荷車と、水路工事で得た地形の知識を使う。
「俺の仕事は?」
「橋の後方で、撤退の判断」
「前ではなく?」
「お前が倒れたら、誰が全体を止める」
前の襲撃以来、ガレスは容赦がない。
「領主は目立つ場所に」
「旗だけ立てておけ」
ひどい。
ただ、正しい。
空が明るくなると、王国軍の隊列が見えた。
槍兵。
盾兵。
荷車。
冬営用の大きな袋。
徴発へ来たことが、装備からもわかる。
先頭の将校が橋の向こうで馬を止めた。
「ハルフォード領主へ告ぐ!」
声が川へ響く。
「王命に従い、穀物倉庫を開け! 抵抗すれば反逆とみなす!」
俺は橋のこちら側へ出た。
「無償徴発には応じません! 余剰分の売却と、冬営地の提供は提案済みです!」
「王命に条件をつけるな!」
「領民が飢える命令へは従えません!」
将校の顔は遠くて見えない。
だが、声には怒りだけでなく焦りも混じっていた。
彼も、期限を与えられているのだろう。
「最後の警告だ!」
「こちらも同じです! 橋を越えないでください!」
返事の代わりに、太鼓が鳴った。
盾兵が橋へ進む。
橋の後方では、領民たちが決められた役割へ散った。
鐘を鳴らす者。
矢を運ぶ者。
負傷者を受け取る者。
戦いに慣れた者はほとんどいない。
それでも、昨日まで水車を直していた手が綱を握り、畑を耕していた足が土嚢の間を走る。
「怖ければ、後ろへ下がれ!」
ガレスが叫ぶ。
「持ち場を変えるだけだ。逃亡とは呼ばん!」
一人の少年が綱から手を離した。
息が速い。
隣の農夫が何も言わず場所を代わる。
少年は後方へ走り、今度は水桶を運び始めた。
戦える形は一つではない。
「第一列、待て!」
ガレスが叫ぶ。
こちらの弓兵は構えるが、まだ放たない。
王国軍の先頭が橋の中央を越える。
「荷車!」
合図で、農民たちが綱を引いた。
橋の出口へ置いた空の荷車が横倒しになる。
その後ろへ、石を積んだ二列目が押し出される。
道が塞がる。
王国兵の先頭が止まり、後ろが詰まった。
「盾を上げろ!」
敵の将校が命じる。
こちらから矢が飛ぶと思ったのだろう。
だが、ガレスは弓を下げさせたまま。
「石を投げろ!」
投げたのは、人を傷つける大石ではない。
足元を滑らせる丸い小石と、油を塗った木片だ。
橋の上で盾兵の足が止まる。
「前へ進め!」
王国軍の後列が押す。
前列は動けない。
橋の上で隊列が崩れた。
「右岸へ回れ!」
一部の兵が浅瀬を探し、川岸へ向かう。
だが、西岸は昨夜から水を引き、泥になっている。
重い鎧の兵が膝まで沈む。
「今だ、綱を切れ!」
ガレスの命令で、河岸に積んだ丸太が転がる。
人へ当てるのではなく、浅瀬へ落として道を塞ぐ。
敵兵が慌てて後退した。
「左から弓!」
見張りが叫ぶ。
王国軍も愚かではない。
橋の混乱を隠すため、対岸から弓兵が射撃を始めた。
「伏せろ!」
矢が荷車へ刺さる。
こちらの兵が一人、腕を射られた。
「救護!」
農民二人が盾代わりの板を持ち、負傷者を引きずる。
兵士は歯を食いしばっていた。
「戻れますか」
「腕だけだ。まだ」
「戻れ!」
ガレスが怒鳴る。
「その腕で槍を持てるか!」
兵士は悔しそうにうなずき、後方へ運ばれた。
こちらも無傷では済まない。
橋の向こうで、敵の将校が隊列を組み直している。
次は盾を前へ出し、荷車を押しのけるつもりだ。
「二列目、杭を抜け!」
ガレスの命令で、こちらの兵が荷車の下へ打っていた留め杭を外す。
「何をする?」
俺が聞く。
「橋の中央まで引かせる」
綱を緩めると、王国兵は障害物を押し始めた。
少しずつ荷車が動く。
進めると思った敵の先頭が、橋の中央へ集まる。
「今だ!」
別の綱が引かれた。
橋のこちら側に隠していた木柵が立ち上がる。
先頭部隊だけが、橋の中央で前後を塞がれた。
「降伏を勧告しろ!」
俺は叫ぶ。
「武器を置けば攻撃しない!」
王国兵たちは顔を見合わせる。
後方の将校は進めと命じている。
だが、橋の上では身動きが取れない。
一人の兵が槍を落とした。
次に盾。
隣の兵も続く。
「撃つな!」
ガレスの声が飛ぶ。
こちらの弓兵は弦を引いたまま、放たない。
橋の中央の兵たちが、ゆっくり両手を上げた。
後方から矢が飛んだ。
降伏した自軍兵を押し戻すためか、こちらを狙ったものかはわからない。
一本が橋の欄干へ当たる。
王国兵たちの顔に、恐怖と怒りが浮かんだ。
「柵を開けろ! 降伏者をこちらへ!」
俺の命令で、狭い通路を作る。
武器を捨てた兵たちが、一人ずつ走って渡る。
こちらの守備隊は彼らを殴らず、後方へ誘導した。
王国軍の将校は、これ以上の前進を止めた。
太鼓が変わる。
撤退の合図だ。
撤退する王国兵の中に、足を痛めて取り残された者がいた。
橋の中央で倒れ、仲間は戻れない。
「罠かもしれん」
守備兵が言う。
「盾を二枚。救護者だけ出す」
ガレスが即座に決めた。
こちらの兵二人が盾を重ね、救護者が王国兵を引きずる。
対岸から矢は飛ばなかった。
王国軍の兵も、固唾を呑んで見ている。
運ばれた兵は、こちらの地面へ着くと何度も謝った。
「敵なのに」
「今は負傷者だ」
ガレスは短く答えた。
その一言を、橋の両側の兵が聞いていた。
昼前、対岸の軍は橋から距離を取った。
勝った、とは言えない。
軍はまだ向こうにいる。
こちらにも負傷者が出た。
それでも、橋は残っている。
王国軍を一歩も領内へ入れなかった。
「ガレス」
「何だ」
「すごいな」
「お前が今さら気づいたのか」
「前から知ってた」
「なら、手を動かせ。負傷者を運ぶぞ」
兵士も農民も、一緒になって板を担ぐ。
勝利の歓声より先に、怪我人の名前が呼ばれる。
橋の端には、武器を捨てた王国兵が十数人座っていた。
皆、泥と汗にまみれ、空腹そうだった。
セラフィーナが後方から来る。
「アレン」
公の場なので、彼女は愛称では呼ばれない。
「橋は?」
「守りました」
「死者は?」
「こちらにはいません。重傷者が二人。王国兵も、確認できる範囲では死者なしです」
彼女は大きく息を吐いた。
「よかった」
その一言に、張りつめていた全員の肩が少し下がる。
ガレスは橋を見た。
「今夜、また来るかもしれん」
「準備します」
俺は捕虜たちへ目を向けた。
「まず、食事を」
近くの兵が驚く。
「敵兵に?」
「空腹のままでは、話もできません」
倉庫から、焼いたパンが運ばれてきた。




