第54話 王国軍が来る
「王国軍、約千五百。明日の朝には領境へ到達する」
ガレスの報告で、集会広場が静まり返った。
夕日が低い。
荷車には毛布と穀物袋が積まれ、子どもたちは母親の手を握っている。
避難の準備は進めていた。
それでも、「来る」と言葉にされると現実の重さが違う。
「全員、聞いてください」
俺は広場の中央へ立った。
「王国軍が来ます。徴発令へ従わせるためです」
領民たちの顔がこわばる。
「もう一度言います。逃げることを恥じる必要はありません」
近隣領へ続く北の道は、まだ開いている。
アニエスの商隊が避難者を乗せるため、荷車を出してくれた。
「今夜出れば、軍が着く前に境界を越えられます。家財は領地側で保管します。戻ってきた時、家と土地の権利は失いません」
「逃げたら、反逆者じゃないのか」
男が尋ねる。
「王家から見れば、領内に残っても逃げても同じかもしれません」
ごまかさない。
「でも、ハルフォード領では違います。逃げた者を責めません」
クレアが避難者名簿を持ち、広場の端へ机を出す。
「出発を希望される方はこちらへ。行き先と家族数を記録いたします」
最初は誰も動かなかった。
皆が周囲の顔をうかがっている。
やがて、子どもを二人連れた母親が机へ向かった。
「夫は残ります。私は子どもを連れて行きます」
「承知しました」
クレアは淡々と記録する。
責める視線が生まれないよう、いつもの仕事のように。
次に、高齢の夫婦。
怪我をしている職人。
妊娠中の女性。
一人が動くと、続く者が現れた。
「若旦那様、すみません」
老人が頭を下げる。
「謝らないでください」
「皆が残るのに」
「皆ではありません」
俺は広場を見渡す。
「それぞれに守るものがあります」
「若旦那様は残る?」
「はい」
「怖くない?」
「怖いです」
老人は少し笑った。
「なら、同じだな」
避難者の列は、広場の三分の一ほどになった。
多い。
でも、もっと多くてもよかった。
命を守るために準備した道だ。
「残る者も、全員が戦う必要はありません」
ガレスが前へ出る。
「橋へ出るのは守備隊と志願者だけ。農民は土嚢と柵。職人は荷車と修理。子どもは学校の地下倉庫へ」
「俺も橋へ行く」
若い農夫が言う。
「剣は使えるか」
「鎌なら」
「鎌は畑で使え。橋では荷車を動かせ」
「それで役に立つ?」
「兵站が止まれば軍は動けん」
ガレスの答えに、農夫はうなずいた。
戦場で役立つのは剣だけではない。
「王国軍の中にも、徴発を望まない兵士がいるはずです」
セラフィーナが言う。
「彼らを敵として憎むのではなく、命令を実行させないことが目的です」
「殺すなってことか」
「こちらが殺されそうな時まで、手を止めろとは言いません」
彼女は現実から逃げない。
「ただし、降伏した者、負傷した者、武器を捨てた者を傷つけてはなりません」
守備隊の兵たちが顔を見合わせる。
「王国兵に仲間を殺されたら?」
一人が聞いた。
セラフィーナはすぐには答えなかった。
「怒るでしょう」
「それでも?」
「怒りと、何をしてよいかは別です」
ガレスが続ける。
「捕虜へ手を出した者は、こちらの規律で処罰する。覚えておけ」
命令は簡潔だった。
広場の空気が少し引き締まる。
日が沈む頃、避難の荷車が出発した。
残る家族と離れる者もいる。
泣く子ども。
抱き合う夫婦。
父親の手から離れない少女。
「帰ってきていいんだよね」
少女が俺へ尋ねた。
「もちろん」
「家、ある?」
「守ります」
言い切るのが怖かった。
戦になれば、壊れる家もあるかもしれない。
それでも、戻る場所を残すために俺たちは立つ。
「壊れても、直します」
俺は言い直した。
「皆で?」
「皆で」
少女はようやく父の手を離し、荷車へ乗った。
広場の隅では、残る者と避難する者が互いの家の鍵を預け合っていた。
「鶏の餌を頼む」
「帰るまで納屋も見ておく」
「もし燃えたら?」
「一緒に建て直す」
短いやり取りが、あちこちで交わされる。
逃げる者と残る者の間に優劣はない。
役割が違うだけだ。
アニエスは荷車の列を確認し、行き先ごとに色布を結んでいた。
「北の宿場は青。西の村は黄。途中で道が塞がれたら、赤い布の荷車について行って」
「商隊まで巻き込んでいいのか」
俺が聞くと、彼女は帳簿から顔を上げる。
「巻き込まれたんじゃないわ。商人が道を守らなくて、誰が荷物を運ぶの」
笑っているが、指は急いで動いていた。
夜になると、残った領民たちは防衛準備へ動いた。
橋へ向かう道へ荷車を並べる。
河岸のぬかるみへ水を引く。
倉庫の穀物を小分けにし、各村へ隠す。
学校では、子どもたちが包帯を畳んでいた。
「怖くないのか」
俺が少年へ聞く。
「怖いよ」
「なら、休んでも」
「これが終わったら、パン屋に帰るんだ」
彼は手を止めない。
「帰る場所を守るって、こういうことだろ?」
大人より、よくわかっている。
深夜、防衛線へ向かう前に、俺は領主館の裏庭へ出た。
セラが待っていた。
二人きりなので、愛称で呼ぶ。
「セラ」
「はい」
「避難してもいいんですよ」
「その言葉を、私だけへ言うのですか」
「婚約者なので」
「なら、私にも言わせてください。アレンも、後方へ残ってよいのですよ」
「領主なので」
「ずるい答えですね」
「お互いに」
彼女は俺の外套の留め具を直す。
「戻ってください」
「はい」
「勝つことだけではなく」
「生きて?」
「皆と一緒に」
俺はうなずいた。
「セラも」
「はい」
手を握る時間は短かった。
遠くで犬が吠え、すぐに静かになった。
領民たちは手を止めず、それでも皆が同じ方向を見た。
恐怖は消えていない。
ただ、誰も一人で抱えてはいなかった。
鐘が鳴る。
斥候からの合図だ。
領境の丘に、王国軍のかがり火が見えた。
千を超える灯り。
こちらの数より、はるかに多い。
それでも、背後の村にも灯りがある。
逃げる自由を示した上で、それでも残った人々の灯りだった。
出発前、クレアが守備隊へ小さな布袋を配った。
「包帯と乾燥した果物です」
「全員分あるのか」
ガレスが尋ねる。
「裁縫室と学校の皆様が用意しました」
袋の一つには、子どもの字で『かえってきて』と書かれていた。
受け取った兵士が、文字を指でなぞる。
「これは効くな」
「薬ではありません」
クレアが答える。
「ですが、忘れてはならない用件でございます」
兵士たちは袋を胸元へしまった。
守るという言葉が、橋の地図だけでなく、待っている人の顔へ変わる。
「行くぞ」
ガレスが言う。
俺たちは橋へ向かった。




