第53話 最初の拒絶
「ハルフォード領は、今回の穀物徴発へ応じません」
広場に集まった領民の前で、俺はそう告げた。
言葉にした瞬間、足が震えた。
演台の下からは見えないと思いたい。
見えていたら、領主として少し格好が悪い。
けれど、格好より内容の方が重要だ。
昨日から何度も考えた。
王家へ従う道。
穀物を渡し、配給を減らし、春まで耐える道。
その先にあるのは、子どもと高齢者から飢える冬だった。
「理由を説明します」
俺の隣で、セラフィーナが帳簿を開く。
公の場なので、彼女はローゼンフェルト公爵令嬢として立っている。
「王家が求める量は、領内備蓄の六割です。この量を供出した場合、冬の終わりまでに二千人分の食料が不足します」
広場へざわめきが広がる。
「種籾も含まれます。春の作付けが減れば、来年の秋にも不足が続きます」
「王国軍も腹が減ってるんだろ?」
農夫が声を上げた。
「はい」
セラフィーナは否定しない。
「兵士へ食料が必要なのは事実です」
「じゃあ、渡さないのは俺たちのわがままじゃないのか」
「余剰分を売る提案を出します」
俺が答える。
「代金を受け取り、その金で不足する地域から別の穀物を買う。王国軍へ食料を出すこと自体は拒みません」
「王家が払わなかったら?」
「渡しません」
また、広場が静かになる。
今の言葉は、王命への明確な拒絶だ。
俺自身が一番よくわかっている。
「若旦那様」
年配の女が尋ねた。
「軍が来たらどうするんです」
「避難を優先します」
「戦うんじゃなく?」
「まず、子どもと高齢者を逃がします。守備隊は時間を稼ぐために動きます」
ガレスが演台の下で腕を組んでいる。
「勝てるんですか」
「正面からは難しいです」
嘘はつかない。
「では、なぜ拒むのですか」
怖い問いだった。
皆が同じ疑問を持っている。
王国軍へ勝てないのに、なぜ従わない。
「俺が、皆の冬の食料を差し出すことを正しいと思えないからです」
声が震えないよう、息を吸う。
「領主だから、命令に従えと言うことはできます。配給を減らし、我慢してくれと言うことも」
広場の端に、学校の子どもたちがいる。
パン屋の少年もいる。
「でも、その結果を受けるのは俺ではありません」
俺は言った。
「食卓からパンが消える家。春に種を蒔けない農家。薬を買えなくなる人たちです」
「若旦那様も同じ領地にいるだろ」
「はい。俺も食べられなくなります」
少し笑いが起きる。
緊張が、ほんの少しだけほどけた。
「ただ、それで公平だとは言えません。領主家は最後まで食料を得やすい。だから、自分も我慢するという言葉だけで、皆へ犠牲を求めたくない」
セラフィーナが、俺の横へ半歩近づく。
「拒絶には危険があります」
彼女が続けた。
「王家は交易を止めるかもしれません。兵を送るかもしれません。領主家だけでなく、領民全体が反逆者と呼ばれる可能性もあります」
「それでも、拒むんですか」
「最終的な責任は俺が負います」
俺は答えた。
「ただし、残ることを強制しません」
広場がざわつく。
「王国軍が来る前に、近隣へ避難したい者は避難できます。家財の運搬を手伝います。逃げた者を裏切り者とは呼びません」
ガレスが俺を見る。
昨夜、何度も確認した方針だ。
「兵士も同じです」
俺は守備隊へ向けて言う。
「王国軍と戦いたくない者は、武器を置いてよい。処罰しません」
若い兵士の一人が唇を噛む。
「本当に?」
「本当です」
「俺の兄は王国軍にいます」
彼は言った。
「橋の向こうで会うかもしれない」
「その時、戦えとは命じません」
ガレスが補足する。
「後方で避難誘導へ回れ。武器を持たない仕事もある」
兵士は目を伏せ、うなずいた。
「ありがとうございます」
拒絶は、皆へ勇気を強いることではない。
怖がる自由も、逃げる自由も残す。
それができなければ、王家の命令と変わらない。
「その前に、俺からもう一つ話があります」
俺は王家へ送る提案書を掲げた。
「軍へ出せる余剰分は、倉庫全体の一割です。これなら冬と春を守りながら協力できます」
「一割だけで、王国軍は足りるのか」
「足りません」
俺は答えた。
「だから周辺領から無理なく出せる量を集め、王都の備蓄と合わせるべきです。軍需商人が出し渋る在庫も、適正価格で買い上げるよう求めます」
「王家へ指図するのか?」
「提案します。拒まれたら、その記録も残します」
セラフィーナが文書の写しを領民へ見せる。
「私たちは国家への協力を拒んでいるのではありません。人が生きられない方法を拒んでいます」
拒絶だけでは、怒りに見える。
代案を示し、それでも奪うのなら、王家自身が選んだことになる。
「反対する者はいますか」
俺が尋ねた。
すぐには誰も手を上げなかった。
だから、待った。
沈黙を賛成として扱えば、公開協議の意味がない。
やがて、商人の男が手を上げる。
「俺は反対です」
広場に緊張が走る。
「理由を聞かせてください」
「軍が来れば商売どころじゃない。王家へ頭を下げ、三割まで減らしてもらう方が現実的だ」
「その案も検討しました」
セラフィーナが答える。
「交渉の余地はあります。ただし、命令は十日後の強制徴発です。交渉中も軍は進みます」
「なら、拒絶と同時に交渉を?」
「はい」
「完全に敵へ回るわけじゃないんだな」
「王国軍への販売提案と、各領の被害資料を送ります」
男は腕を組み、しばらく考えた。
「それなら、賛成はしないが、邪魔もしない」
「ありがとうございます」
賛成だけが協議ではない。
反対を口にできることも、大切だ。
次に、子どもを抱いた母親が手を上げた。
「私は避難します」
「手配します」
「でも、夫は残ると言っています」
「家族で話してください。どちらを選んでも、領地へ戻れます」
母親は泣きそうな顔でうなずいた。
協議は昼を過ぎても続いた。
避難先。
穀物の分散。
傷病者の移送。
守備隊の配置。
王都へ送る拒絶書。
最後に、俺は完成した文書へ署名した。
『ハルフォード領は、領民の生存を脅かす無償徴発へ応じない』
羽根ペンを置く。
手が震えていた。
「怖いですか」
セラフィーナが小声で聞く。
公の場なので、愛称では呼ばない。
「怖いです」
「私もです」
「それでも、署名しました」
「はい」
彼女が拒絶書へ、法務補佐として署名する。
ガレスが守備隊長として。
領民の代表者たちも、賛成、反対、条件付き賛成をそれぞれ記録した。
俺一人の英雄的な決断ではない。
皆が危険を知り、それぞれの立場で選んだ文書になった。
署名を終えた後、母親の一人が俺のところへ来た。
「若旦那様。私は明日、子どもを連れて北へ避難します」
「はい」
「でも、拒んでくれて、ありがとうございます」
「避難しなければならなくなったのは、俺の判断でもあります」
「違います」
彼女は首を振った。
「子どもの冬のパンを、最初からないものにしなかった。その上で逃げる道も残してくれた」
礼を受け取っていいのかわからなかった。
ただ、頭を下げる。
「必ず戻ってきてください」
「戻れるようにしてください」
「はい」
その約束まで含めて、拒絶の責任だった。
伝令が馬へ乗る。
門が開く。
王都へ向け、最初の拒絶が走り出した。
その背を見送りながら、俺は自分の優しさだけでは足りないと知った。
守りたいと思うなら、拒絶の結果まで引き受けなければならない。
夕刻、見張り台から鐘が鳴った。
西の街道に、王家の斥候が現れたという知らせだった。




