第51話 お父様
夕刻、父の容体が急に悪くなった。
使用人が執務室へ駆け込んできた時、俺とセラは穀物の在庫表を見ていた。
「男爵様が、お二人を」
それだけ聞いて、椅子を蹴るように立ち上がった。
父の寝室には、クレアがいた。
医師は寝台の脇で首を振る。
説明は短かった。
今夜を越えるのは難しい。
俺は意味を理解したくなくて、父の顔を見た。
数日前、肖像画で笑っていた人が、今は浅い呼吸を繰り返している。
「父上」
呼ぶと、まぶたが開いた。
「アレンか」
「はい」
「セラフィーナさんも?」
「ここにおります」
セラが寝台の反対側へ座る。
父の手を取った。
「二人とも、そんな顔をしなくていい」
「どんな顔ですか」
「私が心配になる顔だ」
いつもの冗談へ返事ができなかった。
寝台の脇には、父が今朝まで使っていた眼鏡が置かれていた。
開いた新聞には、学校の子どもたちの記事へ印がついている。
「続きを、読んでいませんね」
俺が言う。
「内容は想像できるよ」
父はかすかに笑った。
「子どもたちが、また大人より正しいことを言っている」
「後で読みましょう」
口にしてから、胸が詰まる。
父は否定しなかった。
「そうだね」
その優しさが、かえってつらかった。
「領地のことを」
俺が言うと、父は首をわずかに振った。
「今は、仕事の話はしない」
「ですが」
「書類は明日でも読める」
父の手が、俺の手の上へ重なる。
力は弱い。
「アレン。立派な領主になれとは言わない」
「父上」
「立派であろうとして、一人になるな」
息を整えるため、言葉が途切れる。
「皆に聞け。間違えたら認めろ。帰ってきた者へ、席を空けておけ」
「はい」
「できない時は、助けてもらいなさい」
「はい」
声が震えた。
父は、次にセラを見る。
「セラフィーナさん」
「はい」
「君は、もうこの家の娘だ」
セラの指が強く父の手を握る。
「婚約がなくても、そう言うつもりだった」
「ありがとうございます」
「だから、強くあろうとしなくていい」
父は息を吸う。
「悲しい時は、悲しみなさい。アレンを支えなければと、自分の涙を後回しにしなくていい」
セラの頬へ涙が落ちた。
「私は、家族として生きてもよいのでしょうか」
「もう、生きているよ」
父は微笑んだ。
「食卓の皿を見ればわかる」
セラは唇を震わせる。
今まで、父を男爵様、あるいは閣下と呼んできた。
婚約後も、呼び方を変えるには時間が必要だと、誰も急かさなかった。
彼女は父の手を両手で包み、身を寄せた。
「お父様」
一度だけの呼びかけだった。
父の目が、ゆっくり細められる。
「うん」
小さな返事。
「そう呼んでもらえて、うれしい」
それ以上、長い言葉はなかった。
父は俺たちの手を重ねるように動かした。
俺の手。
セラの手。
その上に、父の手。
「クレアにも、礼を伝えてくれ」
父が言う。
「自分で伝えてください」
「さっき、伝えたよ」
扉の近くで、クレアが顔を伏せる。
「ガレスにも。アニエスにも。マリアンヌ殿下にも」
「皆、また来ます」
「うん」
父は、言い争わなかった。
「私は、よい領主ではなかったかもしれない」
「そんなことは」
「病気で、アレンへ任せすぎた」
俺は父の手を強く握る。
「任せてもらったから、できました」
「なら、少しは父親らしいことをしたかな」
「十分です」
今度は、すぐに答えられた。
「二人で」
息が細くなる。
「帰る家を、守りなさい」
「はい」
俺とセラが同時に答えた。
父は安心したように息を吐いた。
次の息を待つ。
来ない。
「父上?」
呼ぶ。
返事はない。
もう一度呼ぶ。
肩へ触れる。
温かい。
なのに、動かない。
「父上」
声が崩れた。
領主代理として何をすべきか、頭のどこかではわかっていた。
医師へ確認する。
使用人へ知らせる。
葬送の準備を始める。
でも、息子としての俺には、何もできなかった。
寝台へ額をつける。
「まだ、聞いていないことが」
言葉が続かない。
「領地のことも。母上のことも。俺が間違えた時、どうすればいいかも」
涙が落ちる。
父の手を握ったまま、子どものように泣いた。
セラは俺を支えるために涙を止めなかった。
彼女も父の手へ頬を寄せ、声を殺さず泣いている。
俺は空いた腕を伸ばし、彼女の肩を抱いた。
セラも俺へ寄りかかる。
どちらが支える側でもない。
二人とも、同じ人を失った。
同じ悲しみへ倒れないよう、互いに体重を預けた。
クレアが静かに部屋を出た。
使用人たちへ知らせるためだろう。
医師も一礼し、俺たちだけを残した。
窓の外では日が沈んでいく。
父の寝室へ、肖像画を描いた日の夕日とよく似た光が差していた。
けれど、今は笑えない。
笑う必要もなかった。
「セラ」
「はい」
「父上が、いなくなりました」
「はい」
「わかっているのに、信じられません」
「私もです」
彼女の声は涙で掠れている。
「さきほど呼んだばかりなのに」
「聞いてくれました」
「はい」
「父上は、聞いていました」
セラがうなずく。
夜になるまで、俺たちは父のそばにいた。
やがてクレアが戻り、白い布と湯を用意した。
「お二人とも、少しお休みください」
「俺たちも手伝います」
「ですが」
「息子です」
セラが続ける。
「娘です」
クレアは目を伏せ、一礼した。
廊下には、知らせを聞いた使用人たちが静かに並んでいた。
誰も大声では泣かない。
けれど、料理人は前掛けで目を押さえ、庭師は帽子を胸へ抱いている。
「男爵様は、冬になると厨房へ余った薪を持ってきてくださいました」
料理人が言う。
「自分の部屋の分を減らして」
「父上らしい」
俺は笑おうとして、声が震えた。
庭師は小さな花束を差し出した。
「立派な花ではありませんが」
「父は、庭の花をよく見ていました」
セラが受け取り、寝台の脇へ置く。
家族だけの悲しみではなかった。
この屋敷で働く者たちも、それぞれの父を失ったような顔をしていた。
三人で父の身なりを整える。
髪を梳き、顔を拭き、父が好んだ落ち着いた色の服へ着替えさせる。
俺の手は何度も止まった。
そのたび、セラの指がそっと触れた。
セラの呼吸が乱れた時は、俺が布を受け取った。
父の机を整理すると、引き出しから小さな紙束が見つかった。
正式な遺言ではない。
薬の時間、庭の木の剪定、厨房へ新しい鍋を買うこと。
その中に、俺の字ではない短い記録があった。
『セラフィーナさんの皿を、家族用に替えること』
誕生日より前の日付だった。
「父上は、あの時から」
セラは紙へ触れた。
「私が家族になる前から、席を作ってくださっていたのですね」
「たぶん、俺たちより早く決めていたんです」
涙がまた落ちる。
俺たちは、その紙を遺言書と一緒には置かなかった。
家族の食器をしまう棚へ、大切に収めた。
深夜、葬送前の屋敷は静かだった。
食堂の席が一つ空いている。
誰も座れない。
俺とセラは、向かいではなく隣へ座った。
クレアが温かいスープを置く。
「食べられる分だけで構いません」
匙を持っても、味がしない。
それでも父なら、食べなさいと言うだろう。
俺は一口飲む。
セラも同じように飲んだ。
「明日から、手続きが始まります」
俺が言う。
男爵家の継承。
葬送。
領民への知らせ。
王家への届け。
考えるだけで息が詰まる。
「一緒にします」
セラが答えた。
「無理をしないでください」
「アレンも」
「二人とも、ですね」
「はい」
「明日の朝、領民へ知らせます」
「私も隣にいます」
「泣いてしまうかもしれません」
「私も泣きます」
「領主が、皆の前で?」
「父を亡くした息子としてです」
セラは俺の手を握る。
「強さを要求しないと、言ってくださいました」
「はい」
「だから、悲しいままで務めを果たしましょう」
「できますか」
「一人では難しいです」
「俺もです」
「では、二人で」
父の言葉を、今度は俺たちが繰り返した。
机の端には、夕方まで見ていた穀物在庫表が置かれている。
その上へ、王家の印が押された新しい書状が届いていた。
まだ封は開いていない。
今夜は読まない。
父が言った通り、書類は明日でも読める。
俺たちは隣に座り、空いた席を見た。
失った悲しみは消えない。
それでも、この家を二人で守る。
父から託された責任を、強がらず、助けを求めながら引き受けていく。
セラの手が、卓の下で俺の手へ重なった。
俺も握り返した。




