第46話 最初の口づけ
療養四日目の夕方、セラフィーナは薬の杯を俺の前へ置いた。
「飲んでください」
「食後では?」
「食後です」
「夕食はまだですが」
「先ほどパンを一切れ召し上がりました」
「あれは間食です」
「薬を飲むには十分です」
逃げ道がない。
苦い薬を飲み干すと、彼女は満足そうに杯を回収した。
「ずいぶん看病に慣れましたね」
「アレンが言うことを聞かないので、必要に迫られました」
「最近は聞いています」
「昨日、机まで歩こうとしました」
「三歩です」
「医師の許可は二歩まででした」
「一歩の差を厳密に数えるんですね」
「当然です」
窓から入る夕日が、彼女の銀色の髪を赤く染めている。
机には必要最低限の書類。
寝台の横には水差しと薬。
クレアがすべて整え、最後に夕食の盆を置いた。
「私は厨房へ戻ります」
「クレア、一緒に食べても」
「確認すべきことがございますので」
「何を?」
「火の状態です」
夕食はもう完成している。
俺がそう言う前に、クレアは扉へ向かった。
「何かございましたら、お呼びください」
部屋を出る。
扉が閉じた。
俺とセラフィーナだけが残る。
今までも二人きりになることはあった。
厩舎でも、執務室でも、雨漏りの夜でも。
なのに、今は妙に落ち着かない。
セラフィーナも、いつもならすぐに書類を開くのに、盆の上のパンを見つめている。
「食べましょうか」
「はい」
同時に手を伸ばし、同じパンへ触れた。
二人とも止まる。
「どうぞ」
「アレンが」
「俺は別のを」
「それが最後です」
「では半分に」
俺が手で割ろうとすると、脇腹が引きつった。
「痛っ」
「動かないでください」
セラフィーナがすぐに身を乗り出す。
「傷が開きましたか」
「大丈夫です」
彼女の目が鋭くなる。
「痛いですが、傷は開いていないと思います」
「確認します」
「包帯を?」
「上からです」
セラフィーナの手が、服越しに脇腹の近くへ伸びる。
触れる直前で止まった。
指が空中でわずかに震えている。
「どうしました」
「触れても、よろしいですか」
「はい」
手のひらが、傷のそばへそっと置かれる。
痛くはない。
むしろ、その温度ばかり意識してしまう。
「ここは?」
「平気です」
「こちらは」
「少し痛いです」
「無理に動かしたからです」
「すみません」
彼女は手を離さなかった。
俺も、離してほしいとは思わなかった。
夕食の匂いがする。
窓の外では、庭師が道具を片づけている音がする。
いつもの夕方なのに、呼吸の仕方を忘れそうだった。
「アレン」
「はい」
「先日のことを、まだきちんとお話ししていません」
「襲撃のこと?」
「その後です」
彼女の手が、傷から少し離れる。
「あなたを失うのが怖いと申し上げました」
「覚えています」
「忘れてくださいとは言えません」
「忘れるつもりはありません」
青い瞳が俺を見る。
「アレンは、責任だけではないと」
「言いました」
「それは、どういう意味ですか」
聞かれると思っていた。
だから、療養中ずっと考えていた。
答えはある。
けれど、今ここで全部を言えば、言葉が足りない気がした。
「まだ、うまく説明できません」
「そうですか」
セラフィーナの指が離れかける。
俺はその手首へ触れた。
強くつかまない。
逃げようと思えば、すぐに離せる程度に。
「でも、離れてほしいわけではありません」
彼女が息を呑む。
「むしろ、近くにいてほしい」
手首の力が抜けた。
彼女は離れなかった。
「私は、近くにいます」
「はい」
「今も」
「はい」
距離が近い。
以前なら、公爵令嬢へ近づきすぎだと慌てたはずだ。
今は、互いの息がわかるほど近くても、どちらも後ろへ下がらない。
セラフィーナの視線が、俺の目から口元へ一瞬落ちた。
すぐに戻る。
俺も同じことをしていたのかもしれない。
「傷が痛むなら」
「今は平気です」
「無理をしていませんか」
「していません」
「本当に?」
「はい」
会話は続いているのに、内容はほとんど頭へ入ってこない。
俺は彼女の手首から指先へ手を移した。
掌を重ねる。
拒まれない。
俺は重ねた手を見た。
襲撃の夜、彼女の手は血で赤くなっていた。
今は、薬草の匂いが少し残っているだけだ。
「昨夜まで、触れると傷つける気がしていました」
「私が、ですか」
「俺がです」
「なぜ」
「あなたは公爵令嬢で、俺は辺境男爵家の息子で。保護する立場を利用していると思われるのが怖かった」
「私は、自分の意思でここにいます」
「はい」
「今、手を置いているのも、自分の意思です」
指先が、俺の掌へわずかに力を返す。
「嫌なら離します」
「嫌ではありません」
短い答えだった。
でも、それで十分だった。
「セラフィーナ」
「はい」
「もう少し、近づいても?」
彼女はすぐに答えなかった。
目を伏せ、呼吸を整える。
それから、ほんのわずかにうなずいた。
俺は急がなかった。
体を起こすと傷が痛むので、彼女の方が少し身をかがめる。
その動きが止まる。
まだ距離がある。
俺も、ほんの少し近づく。
どちらか一方が奪うのではなく、二人の間に残った距離を、半分ずつ埋める。
唇が触れた。
短い。
驚くほど静かな口づけだった。
けれど、離れた後も、額が触れそうな距離にいる。
セラフィーナの頬が赤い。
俺も同じだろう。
「……痛みませんでしたか」
最初の言葉がそれだった。
「傷は平気です」
「傷以外は?」
「わかりません」
「私もです」
二人とも、少し笑った。
手はまだ重なっている。
「もう一度は」
俺が言いかけると、セラフィーナが目を見開いた。
「いえ、今すぐという意味では」
「嫌だとは申し上げておりません」
今度は俺が固まる。
「ですが、アレンは療養中です」
「口づけに医師の許可が必要ですか」
「傷へ負担がかかる可能性があります」
「今のは大丈夫でした」
「一度では判断できません」
「では、確認のために」
「アレン」
「すみません」
調子に乗った。
セラフィーナは困ったように眉を寄せ、それでも笑っている。
「次は、傷が治ってからです」
「次があるんですね」
「……今の言葉は忘れてください」
「それは無理です」
「今のは、どういう意味でしょう」
セラフィーナが尋ねる。
「どういう?」
「看病の感謝ではありませんね」
「感謝で口づける習慣は、ハルフォード領にはありません」
「王都にもありません」
「では、同じ意味だと思います」
「同じ意味を、まだ言葉にしていません」
「はい」
俺は彼女の手を握ったままうなずいた。
「言葉にします。傷が治ったからではなく、逃げずに考えてから」
「私も考えます」
「嫌だったかどうかを?」
「違います」
セラフィーナは頬を赤くする。
「どの言葉なら、今の気持ちを間違えずに伝えられるかを、です」
扉の取っ手が動いた。
クレアが盆を追加で持って入ろうとしている。
扉が指一本分ほど開く。
俺たちは手を重ねたまま、近い距離で固まった。
隙間の向こうで、クレアの目が一度だけ細くなる。
扉は音もなく閉じた。
足音が遠ざかる。
「見られましたね」
「はい」
「何も言いませんでした」
「それが一番恥ずかしいです」
セラフィーナが両手で顔を覆う。
俺は笑い、脇腹が痛んだ。
「痛っ」
「だから安静にしてください!」
「笑っただけです」
「笑うことも禁止します」
「それは厳しい」
彼女は顔を上げた。
赤い頬のまま、俺の枕を直す。
「夕食を食べて、薬を飲んで、休んでください」
「薬は飲みました」
「では食事を」
半分に割られたパンが、皿へ置かれる。
セラフィーナが一方を俺へ渡し、もう一方を自分で取った。
同じパンを分けて食べる。
口づけの後なのに、することはいつも通りだった。
それがうれしい。
「セラフィーナ」
「何でしょう」
「さっきのことを、後悔していますか」
彼女はパンを置いた。
少しだけ考え、首を振る。
「いいえ」
「俺もです」
「ですが、言葉にもする必要がありますね」
胸の奥を見透かされたようだった。
「はい」
「急がなくて構いません」
「逃げません」
「私も」
夕日が沈み、部屋の中が薄暗くなる。
セラフィーナが灯りをつける。
最初の口づけは短かった。
それでも、二人の間にあった曖昧さを、もう以前の形へ戻せないほど変えていた。




