第43話 私の誇る領主です
「体面のために領民の安全を犠牲にするより、正しい判断です」
セラフィーナの声が、広間へ響いた。
近隣貴族たちは黙っている。
俺の隣に立つ彼女は、王宮で見た時と同じほど美しかった。
けれど、今の言葉は誰かに求められた礼辞ではない。
彼女自身の怒りから出たものだった。
晩餐会の主催者が、場を収めようと杯を上げかけた。
セラフィーナはその前に、許可を求める礼をした。
「皆様の貴重なお時間をいただくことは承知しております。ですが、今の発言は一人の服装ではなく、領民の仕事と暮らしを評価するものでした」
主催者は断れず、うなずく。
彼女は公の手順を踏んだ。
感情で割り込んだのではない。
発言する資格と場を、自分で整えてから前へ出た。
「正しい判断かどうかは、結果が示すでしょう」
俺を侮辱した貴族が杯を揺らす。
「ハルフォード領はいまだ貧しい。橋も学校も、王国全体から見れば小さな話です」
「小さな話です」
セラフィーナは否定しなかった。
「一人の子どもが、一枚多くパンを食べられること。洪水の夜に、家族全員が避難所へ着けること。冬を越す種籾が奪われないこと」
言葉を一つずつ置く。
「王国全体の数字では、小さいでしょう」
彼女は相手を見る。
「ですが、その人にとっては生活のすべてです」
「感情論ですな」
「政治は、暮らしを守るためのものです。暮らしを除いた数字こそ、空虚でしょう」
法務官らしい男が口を挟む。
「しかし、ハルフォード卿一人の功績ではない」
「もちろんです」
セラフィーナはうなずく。
「水車を直したのは職人です。粉を運んだのは商人。パンを焼いたのはパン屋。洪水では領民全員が動きました」
俺は少し安心した。
過剰に持ち上げられるのは居心地が悪い。
「では、領主の役割は?」
「人の話を聞き、必要な者をつなぎ、自分が間違えた時に認めることです」
セラフィーナが俺を見る。
「改革案を領民に拒まれた時、アレンは百軒へ説明に行きました。制度が正しいと押しつけず、不安の理由を聞きました」
次に、広間の全員へ向き直る。
「洪水では自ら救助へ出ました。無茶をしたことは褒めません」
「そこは公の場でも言うんですね」
思わず口を挟むと、数人が笑った。
セラフィーナの表情も少し柔らぐ。
「はい。欠点まで隠せば、正しい評価ではありませんから」
「厳しい評価です」
「ですが、戻った後、怖かったと認めました。次は一人で背負わないと約束した」
広間が静かになる。
「誤らない指導者ではありません。誤りを認め、次の選択を変えられる人です」
彼女は俺の古い袖口へ目を落とした。
「この礼服が古いことは事実です」
「そこは否定してほしかったです」
「事実ですので」
また小さな笑いが起こる。
でも、セラフィーナは笑わなかった。
「けれど、服の新しさで領主の価値が決まるなら、誰も暮らしを守る必要はありません」
青い瞳が、まっすぐ俺を見る。
「アレン・ハルフォードは、私の誇る領主です」
呼吸を忘れた。
広間の音が遠くなる。
俺は褒められ慣れていない。
領民から礼を言われることはある。
父に認められることも、ガレスに殴られながら評価されることもある。
けれど、公の場で。
セラフィーナが。
俺を誇ると言った。
「私が保護されているから申し上げるのではありません」
彼女は続ける。
「私は彼の判断へ反対することもあります。叱ることもあります」
「多いですね」
「必要な回数です」
今度は広間全体に笑いが起きた。
「それでも、領民の声を聞くこと、誰かを物として扱わないこと、自分の権力を相手の選択へ使わないこと。その姿勢を、私は尊敬しています」
侮辱した貴族は、もう笑っていなかった。
「公爵令嬢が辺境の領主をそこまで評価なさるとは」
「家格ではなく、行動を評価した結果です」
セラフィーナは礼をした。
完璧な角度。
それ以上の反論を、礼法そのもので封じるような一礼だった。
広間の端で、年配の法務官が静かに拍手した。
「領主の価値を、服地だけで量るのは確かに軽率でしたな」
続いて、別の貴族が杯を置く。
「洪水時の避難札については、我が領でも詳しく聞きたい」
全員が納得したわけではない。
侮辱した男の周囲には、まだ不満そうな顔もある。
けれど、場の空気は変わった。
俺の礼服を笑うことは、橋を直した職人や、服を繕った女性たちを笑うことだと、皆が理解した。
会話はそこで終わった。
晩餐の席へ移る頃には、誰も俺の礼服を笑わない。
代わりに、橋の修理方法や洪水時の避難札について質問する者が現れた。
俺は答えられる範囲で話した。
全部が味方になったわけではない。
興味本位の者もいる。
それでも、領地の仕事が「田舎の美談」ではなく、具体的な実務として聞かれた。
会合が終わり、馬車へ向かう廊下で、俺はようやくセラフィーナへ言った。
「ありがとうございました」
「私は事実を述べただけです」
「それでも」
「アレンは、ご自分への侮辱を受け流しすぎます」
「言い返すと、会合が長くなるので」
「領民を侮辱された時は、すぐに反論しましたね」
「それは別です」
「私には、同じです」
彼女が足を止める。
「アレンを侮辱されることと、領地を侮辱されることは」
胸が熱くなる。
「それ、かなり特別な意味に聞こえます」
「特別です」
即答だった。
セラフィーナ自身が遅れて気づき、頬を赤くする。
「領主代理として、です」
「今、付け足しましたね」
「帰ります」
彼女は先に歩き出す。
俺は笑いながら追いかけた。
玄関で外套を受け取る時、俺は袖口の青い糸を見た。
「この糸まで誇ってもらったような気がします」
「実際、そのつもりです」
「俺だけではなく?」
「アレンが誇る領地ごと、です」
「では、俺も言っていいですか」
「何を?」
「セラフィーナは、俺の誇る――」
彼女が素早くこちらを向く。
続ければ、何かが決定的に変わりそうだった。
俺は言葉を飲み込んだ。
「法務補佐です」
「今、別のことを言おうとしましたね」
「気のせいです」
「目を見てください」
「馬車が来ました」
逃げた。
セラフィーナは不満そうだったが、少し笑っていた。
外は暗い。
馬車の近くで、ガレスが周囲を警戒している。
「遅いぞ」
「会話が長くなりました」
「浮かれた顔をするのは屋敷へ戻ってからにしろ」
「そんな顔してるか?」
「してる」
セラフィーナが視線をそらした。
俺たちは馬車へ乗る。
出発すると、会場の灯りが遠ざかっていった。
街道脇の森は静かすぎた。
しばらくして、ガレスが御者台から低く言う。
「止まれ」
馬車が急に速度を落とす。
前方の道へ、倒木が横たわっていた。




