第42話 辺境男爵の古い礼服
近隣貴族の晩餐会へ着く前から、俺の礼服は負けていた。
会場の玄関には、光沢のある新しい生地をまとった貴族たちが並んでいる。
俺の礼服は父のお下がりだ。
肩はクレアの裁縫室で直してもらった。
袖口の擦れも目立たないよう縫われている。
それでも、布そのものが古いことは隠せない。
「堂々となさってください」
馬車を降りる前、セラフィーナが言った。
「堂々とすると、古さが目立ちませんか」
「猫背の方が目立ちます」
「厳しい」
「事実です」
彼女は深い青のドレスを着ていた。
派手な宝石はない。
けれど、立ち姿だけで周囲の視線を集めている。
「それに、その礼服はよく似合っています」
「父上の体型に合わせた服ですよ」
「今はアレンに合わせて直されています」
「裁縫室の皆のおかげです」
「ですから、誇ってください」
玄関の鏡へ映った自分を見る。
袖口には、裁縫室の女性が入れた細かな補強の縫い目がある。
目立たないようにと言ったのに、一か所だけ青い糸が使われていた。
「これは?」
「学校の子どもが選んだ糸だそうです」
セラフィーナが答える。
「なぜ子どもが?」
「若旦那様の服なら、領地の色を入れたいと」
「うちに正式な領地色はありません」
「だから、その子が好きな色です」
青い糸は、よく見なければわからない。
けれど、誰かが俺のために選んだ色だった。
「これなら、古くても悪くないですね」
「最初から、悪くありません」
会場へ入る。
最初のうちは、天候や街道の話で済んだ。
問題が起きたのは、晩餐前の歓談だった。
「ハルフォード卿」
近隣の貴族が、俺の袖口へ目を向ける。
「それは、先代がお若い頃の礼服ではありませんか」
「父から譲られました」
「物を大切になさる。さすが、王国で一番幸せな領地ですな」
笑いが起きる。
褒めているようで、褒めていない。
「幸せなら、新しい礼服を仕立てる余裕もありそうなものですが」
「領地の橋を先に直しました」
「橋と礼服を比べるとは」
「どちらも穴があれば困ります」
何人かが吹き出した。
相手は面白くなさそうに杯を傾ける。
「しかし、貴族が身なりを整えることも領民の誇りでしょう。主がみすぼらしければ、領地まで貧しく見える」
「見えるだけなら、実際に飢えるよりましです」
「なるほど。辺境では作法より腹が重要と」
「腹が減ると作法も続きませんから」
俺は受け流したつもりだった。
だが、相手はさらに続ける。
「新聞も大げさですな。水車を一つ直し、貧民へパンを配れば幸せな領地。王都の者は田舎の美談が好きだ」
胸の奥が冷えた。
俺の服を笑うだけならいい。
だが、水車を直した職人も、パンを焼いた者も、学校へ通う子どもも、皆をまとめて見下す言葉は聞き流せない。
「パンは配っていません」
俺は答えた。
「水車を直し、粉を挽く費用を下げました。皆が働いて、自分で買えるようにした」
「細かな違いです」
「食べる側には大きな違いです」
「貧民の自尊心を論じるのですか」
「人の話です」
周囲の空気が変わる。
俺は社交の言葉を知らない。
相手の皮肉を上品に返す技術もない。
「ハルフォード卿は、ずいぶん領民へ近い」
「近くないと、困っていることが見えません」
「領民へ近すぎる主は、権威を失いますぞ」
「見上げられるために離れるより、声が聞こえる方がいい」
正直に言った。
何人かは黙った。
だが、相手は笑う。
別の貴族が、面白がるように口を挟んだ。
「しかし、橋へ金を使った結果、領主が侮られ、交渉で不利になれば元も子もないでしょう」
「その点は認めます」
俺は答えた。
「身なりも交渉の道具です。次は予算を作ります」
周囲が少し意外そうに黙る。
「では、新調なさる?」
「領地の裁縫室へ頼みます」
「王都の仕立屋ではなく?」
「うちの人たちが直した服で侮られたなら、次は侮れない服を作ってもらいます」
「辺境の女たちに礼服を?」
「仕事ですから」
笑う者もいた。
けれど、何人かの商人は興味を示した。
「品質がよければ、注文を出しても?」
「まず俺の服で試してください」
侮辱された場で、裁縫室の新しい仕事が一つ生まれかけていた。
貧しさを恥じるだけでは何も増えない。
足りないなら、次の仕事にすればいい。
「公爵令嬢まで、その素朴な思想へ感化されたのでしょうか」
視線がセラフィーナへ向く。
「王太子妃となるはずだった方が、古い礼服の辺境男爵家に身を寄せる。運命とは皮肉なものですな」
「私の選択を、運命のせいになさらないでください」
セラフィーナの声は静かだった。
広間の空気が止まる。
「私は自分の意思で、ハルフォード領へ残りました」
「それは失礼。ですが、あまりに釣り合いが」
「何と何を比べているのですか」
「家格です」
「それだけなら、答えは明らかでしょう」
相手が満足そうに笑う。
俺は彼女へ小声で言った。
「無理に助けなくても大丈夫です」
「助けるのではありません」
「では?」
「訂正します」
セラフィーナは、相手から視線を外さない。
「誤った評価を、そのまま記録させるつもりはありません」
王宮で鍛えた礼法は、笑顔で耐えるためだけのものではないらしい。
言葉を選び、場の規則を守ったまま、相手へ逃げ道のない事実を示す。
俺にはできない戦い方だった。
俺の礼服を笑った男は、袖の金糸を見せるように杯を持ち直した。
「貴族の装いには、職人を養う役割もあります。質素を美徳にすれば、王都の仕立屋は困るでしょう」
「その通りです」
セラフィーナは意外にも同意した。
「ですから、アレンも次は新しい礼服を注文します」
「セラフィーナ?」
「ただし、ハルフォード領の裁縫室へ」
周囲がざわめく。
「礼装を作った経験はあるのですか」
「ありません。だから最初の仕事になります」
「失敗すれば?」
「直します」
セラフィーナは平然としている。
「技術は、最初から完成しているものではありません。注文する者がいなければ、育つ機会もない」
俺の古い礼服は、貧しさの証拠として笑われた。
だが彼女は、その場で次の仕事へ変えてしまった。
「完成したら、この会合で披露します」
俺へ確認もなく約束した。
「俺が試作品ですね」
「領主代理としての務めです」
逃げ道はなかった。
セラフィーナは続けた。
「だからこそ、家格以外をご覧になるべきです」
彼女は一歩、俺の隣へ並んだ。
「この礼服は、先代から受け継いだものです。領内の裁縫室で直されました。新しい服へ使える資金は、洪水で傷んだ橋と学校へ回されています」
「美談に聞こえますな」
「事実です」
「貴族の体面を犠牲にして?」
「体面のために領民の安全を犠牲にするより、正しい判断です」
周囲の視線が集まる。
セラフィーナは、まだ全部を言わなかった。
それは次に続く言葉のため、息を整えているように見えた。




