第39話 命令はしません
夜明け前の厩舎は、冷えていた。
セラフィーナは長椅子へ座り、膝の上で両手を重ねている。
荷物は足元。
馬にはまだ鞍がない。
俺は扉の横に立った。
屋敷へ戻る道も、王都へ向かう道も塞がない位置だ。
「夜が明けます」
セラフィーナが言った。
「はい」
「約束の時間です」
「わかっています」
彼女は立ち上がる。
荷物へ手を伸ばす。
俺の体も反射的に動きかけた。
止める。
ここで腕をつかめば、簡単だ。
命令すれば、守備隊は彼女を外へ出さない。
保護を理由に閉じ込めることもできる。
でも、それでは彼女を守るのではなく、所有することになる。
「最後に、一つだけ聞いてください」
俺が言うと、セラフィーナは荷物を持たずに待った。
「私の結論を変えるためですか」
「俺の気持ちを伝えるためです」
自分で言って、心臓が強く鳴った。
告白ではない。
そう言い聞かせるには、少し無理がある。
夜明けを告げる鳥の声が、森の方から聞こえた。
屋敷では、厨房の煙が上がり始めている。
いつもの朝なら、俺たちは食卓で今日の予定を話している時間だ。
「昨日、父上へ何と書いたんですか」
俺が尋ねると、セラフィーナの目が手荷物へ向く。
「お世話になったことへのお礼です」
「クレアさんには?」
「何も告げずに出ることへの謝罪を」
「俺には?」
彼女は答えない。
「手紙を読んでいません」
「なぜですか」
「本人がここにいるからです」
セラフィーナの息が止まる。
「手紙で別れを告げられても、俺は納得できません」
「読めば理解できます」
「理解しても、納得はしない」
「違いがあるのですか」
「大きくあります」
俺は足元の荷物を見る。
「理屈を理解することと、その選択を望むことは別です」
「アレンは、私が残ることを望む」
「はい」
「それを言えば、私が苦しむとわかっていても?」
「言わずに送り出したら、俺が何も望んでいなかったと誤解させます」
「誤解では」
「誤解です」
初めて強く遮った。
「俺の望みまで、セラフィーナ一人で決めないでください」
「セラフィーナは、王都へ戻る理由をいくつも話しました」
「はい」
「領民を守るため。父上やクレアさんを守るため。恩を返すため」
「どれも偽りではありません」
「わかっています」
偽りではない。
だから厄介なのだ。
正しい理由を積み上げ、その下へ自分の望みを埋めている。
「でも、残りたい理由は話していません」
「話す必要はありません」
「なぜ?」
「叶えられない望みを言葉にしても、判断が鈍るだけです」
「判断が鈍るんじゃなくて、判断に必要なんじゃないですか」
彼女の目が揺れた。
「セラフィーナは、何を望んでいますか」
「領地の安全です」
「それは責任です」
「同じことです」
「違います」
俺は一歩だけ近づいた。
まだ、手は届かない距離。
「責任を全部外した時、何をしたいんですか」
「そのような考え方は、無責任です」
「一度考えるだけなら、誰も傷つきません」
「私は」
言葉が止まる。
セラフィーナは外へ目を向けた。
東の空が明るくなり、領主館の屋根が見え始めている。
「あの家で、朝食を食べたいです」
声は小さかった。
「はい」
「学校の授業を見たい。裁縫室の売上を確認したい。市場の蕪が、今年は苦くないか確かめたい」
「はい」
「お父様のお薬の記録を、クレアと整理したい」
まだ、俺を見ない。
「アレンと、今日の仕事を相談したいです」
胸が痛いほど鳴った。
「それが、セラフィーナの望みですね」
「ですが、望みを優先すれば」
「もし、私が何の役にも立たなくても?」
「いてほしいです」
「仕事ができなくなっても?」
「いてほしい」
「領地の評判を悪くしても?」
「一緒に直します」
「王家との争いを招いても?」
「その責任は、王家が法を破ったことにもあります。全部をセラフィーナ一人の罪にしない」
彼女は何度も息を吸い直した。
「それでも、私は迷惑をかけます」
「俺もかけています」
「アレンは領主です」
「領主なら迷惑をかけないと思っているんですか。皆に助けられてばかりです」
水車も、洪水も、税制も。
俺一人でできたことはほとんどない。
「ここにいることは、借りを作ることではありません」
俺は言った。
「助けたり、助けられたりすることです」
「残ってほしい」
言葉が先に出た。
彼女がこちらを見る。
もう逃げられない。
「残ってほしい。でも恩返しのためなら、俺は嬉しくありません」
厩舎の中で、馬が静かに息を吐く。
セラフィーナは動かない。
「俺は、借りを返してもらうために一緒にいたいんじゃない」
喉が乾く。
「領地に役立つからでも、父上が喜ぶからでも、クレアさんが安心するからでもありません」
「では、なぜ」
その問いへ、全部を言う勇気はなかった。
好きだから。
そばにいてほしいから。
たぶん、答えはそこにある。
けれど今、それを言えば、彼女の選択を別の義務へ変えてしまうかもしれない。
「俺が、いてほしいと思っているからです」
精いっぱいだった。
「でも、それを命令にはしません」
俺は扉からさらに離れた。
屋敷へ戻る道。
王都へ向かう道。
どちらも見える。
「セラフィーナが残るなら、自分が残りたいから残ってほしい」
「領民へ危険が及びます」
「その危険は皆で考えます」
「私がいなければ、考える必要もありません」
「王家が法を無視したことは残ります。セラフィーナ一人が消えても、問題は消えません」
「それでも、目先の危険は避けられる」
「はい」
否定しなかった。
「戻る方が安全かもしれない。残る方が、もっと大きな争いを招くかもしれない」
「なら」
「それでも、選ぶのはセラフィーナです」
彼女の目に涙が浮かぶ。
「アレンは、ずるいです」
「すみません」
「残ってほしいと言いながら、止めない」
「止めたいです」
「では、止めてください」
その言葉に、足が動きそうになった。
近づいて、荷物を取り上げて、屋敷へ連れ戻したい。
でも、彼女の目は試しているのではない。
選ぶ苦しさから逃げたいのだ。
誰かの命令なら、従っただけだと言える。
自分の望みを認めなくて済む。
「命令はしません」
俺は答えた。
「できません」
「なぜですか」
「セラフィーナが、自分で選べる人だと知っているからです」
涙が頬へ落ちる。
「怖いです」
「俺もです」
「残って、皆が傷ついたら」
「一緒に責任を負います」
「戻って、私が後悔したら」
「帰ってきてください」
「帰れないかもしれません」
「それでも、ここは帰ってきていい場所です」
彼女は唇を噛んだ。
俺はそれ以上言わなかった。
朝日が差し始める。
屋敷の煙突から、朝食の煙が上がった。
王都へ続く道も、はっきり見える。
セラフィーナは二つの道を見比べた。
荷物は、まだ足元にある。
俺は待った。
彼女が初めて、誰かのためではなく、自分がどちらへ行きたいのかを考える時間を。




