第38話 私が戻れば済むことです
夜中、廊下を歩く音で目が覚めた。
領主館は古い。
誰かが静かに歩けば、かえって床板が丁寧に鳴る。
俺は寝台から起き上がり、扉を開けた。
廊下の先で、灯りが一つ動いている。
「誰です?」
返事はない。
灯りは角を曲がった。
追いかけると、セラフィーナの部屋の扉が開いていた。
中に人はいない。
机の上には、抗議文の草稿。
その隣に、封をした手紙が三通。
父へ。
クレアへ。
俺へ。
背中が冷たくなった。
封を破ることはしなかった。
内容は読まなくてもわかる。
玄関へ走る。
外套が一着なくなっていた。
厩舎へ続く廊下で、クレアと鉢合わせた。
「アレン様」
「セラフィーナを見ましたか」
クレアの顔色が変わる。
「お部屋にいらっしゃらないのですか」
「手紙が残っています」
クレアは一瞬目を閉じた。
「私は、荷造りをお手伝いしておりません」
「わかっています」
「お止めできず、申し訳ございません」
「まだ止められます」
俺たちは別れた。
クレアは裏口へ。
俺は厩舎へ向かう。
扉の隙間から灯りが漏れている。
中では、セラフィーナが一人で馬へ鞍を載せようとしていた。
鞍は重い。
いつもの彼女なら、無理に持ち上げず誰かを呼ぶ。
それでも今は、歯を食いしばって持ち上げていた。
「セラフィーナ」
彼女の手が止まる。
振り返らない。
「どちらへ?」
「王都です」
「一人で?」
「途中で馬車を雇います」
「夜道を一人で行くつもりだったんですか」
「人目を避ける必要があります」
俺は厩舎の入口に立ったまま、近づかなかった。
「命令の期限は十日あります」
「十日あれば、王家は兵を整えられます」
「こちらも準備できます」
「何の準備ですか。領民を逃がす準備? 兵と戦う準備?」
セラフィーナがようやく振り返る。
目元が赤い。
「私が戻れば済むことです」
「済みません」
「済みます」
声が強くなる。
「王太子殿下が求めているのは私です。私が王都へ戻れば、ハルフォード領を攻める理由はなくなります」
「別の理由を作るかもしれない」
「少なくとも、今すぐの危険は避けられます」
「セラフィーナはどうなるんです」
「裁判を要求します」
「裁判を開く相手なら、最初から正式な召喚状を送っています」
「それでも、法を主張し続けます」
「拘束された後も?」
「はい」
迷いのない答えだった。
だからこそ怖い。
彼女は、自分が何をされるか理解している。
理解した上で、自分一人なら差し出せると思っている。
「これは、私の最後の仕事です」
セラフィーナは鞍へ手を置いた。
「こちらで受けた恩を返します」
「恩?」
「住む場所。食事。名前で呼ばれること。誕生日。仕事。家族の食器」
一つずつ挙げる声が、途中で震えた。
「私は、十分すぎるほどいただきました」
「返してほしくてしたことじゃありません」
「わかっています」
「なら」
「だからこそ、返したいのです」
理屈が通っているようで、通っていない。
贈り物を借金に変えれば、彼女はいつまでも自分の価値を働きで支払うことになる。
馬房の柱には、収穫祭で子どもたちが結んだ色布が残っていた。
セラフィーナはそれを見上げる。
「学校が焼かれれば、子どもたちは学ぶ場所を失います」
「そうならないように考えます」
「裁縫室の商品を没収されれば、女性たちは収入を失う。街道を封鎖されれば、薬も塩も届きません」
「わかっています」
「いいえ」
彼女は首を振った。
「アレンは、皆を守れると考えています。私は、守れなかった時に何が起きるかを考えています」
「俺も考えています」
「ならば、なぜ私を行かせないのですか」
「行かせないとは言っていません」
その言葉に、彼女の顔が傷ついた。
止めてほしいのかもしれない。
止められれば、自分で選ばずに済む。
けれど、その期待へ甘えて命じれば、彼女の意思をまた奪うことになる。
「止めたいです」
俺は言い直した。
「ですが、止める権利があるとは思っていません」
「私は、保護下にあるのでは?」
「保護は檻ではありません」
「皆さんが守ってくださった場所を、私のせいで失わせるわけにはいきません」
「皆の意見を聞いていません」
「聞けば、残れと言うでしょう」
「なぜわかるんです」
「ここは、そういう場所だからです」
涙が一筋、頬へ落ちた。
「帰ってきていいと言ってくれる人がいる。だから私は、その人たちを巻き込みたくありません」
「だから、黙っていなくなる?」
「それが一番被害が少ない方法です」
「一番、誰にとって?」
セラフィーナは答えない。
「領民にとって?」
「はい」
「父上にとって?」
「はい」
「クレアさんにとって?」
彼女の唇が震える。
「……はい」
「俺にとっても?」
沈黙が落ちた。
馬が鼻を鳴らす。
外では、夜明け前の風が木々を揺らしている。
「俺は、セラフィーナがいなくなる方がいいと思っているんですか」
「思っていなくても、耐えられます」
「勝手に決めないでください」
声が強くなった。
すぐに息を整える。
怒鳴れば、彼女を追い詰めるだけだ。
「すみません」
「謝るのは私です」
「俺たちは、謝罪の競争をしているんじゃない」
セラフィーナは鞍から手を離した。
「では、どうすればよいのですか」
「今夜は戻って、朝に話します」
「朝になれば、私は行けなくなります」
「なぜ」
「皆さんの顔を見れば、残りたいと思ってしまうからです」
初めて、本心がこぼれた。
彼女自身が息を呑む。
「残りたいんですね」
「……関係ありません」
「あります」
「残れば危険を招きます」
「それでも、残りたい気持ちはある」
「アレン」
「その気持ちを、最初からなかったことにしないでください」
彼女は目を伏せた。
「私は、正しいことを選ばなければなりません」
「自分を消すことが、いつも正しいわけじゃない」
「では、領民へ危険を負わせることが正しいのですか」
「違います」
答えを持っていない。
止めたい。
けれど、領主代理の命令で厩舎を閉じれば、王太子と何が違う。
セラフィーナの選択を守ると言いながら、自分に都合のよい答えだけを強制することになる。
「今は、馬へ乗らないでください」
「命令ですか」
その問いが胸へ刺さる。
「……いいえ」
俺は道を塞いでいた自分の位置に気づき、横へどいた。
厩舎の扉から、王都へ続く道が見える。
「命令にはしません」
「では、私は行きます」
セラフィーナは鞍を持ち上げようとする。
けれど、腕に力が入らない。
俺は手を伸ばしかけ、止めた。
「外はまだ暗いです。せめて夜が明けるまで待ってください」
「待てば、気持ちが変わります」
「変わることが悪いんですか」
彼女は答えなかった。
やがて鞍を床へ置き、馬房の横の長椅子へ座った。
「夜明けまでです」
「はい」
俺も、少し離れた木箱へ座る。
何も説得しなかった。
説得する言葉を選べなかった。
ただ、彼女が一人で消えないよう、そこにいた。
空の色が、黒から薄い青へ変わり始めた。




