第37話 引き渡し命令
王家の紋章が押された封蝋は、赤というより血の色に見えた。
そんな感想は縁起でもないので、口には出さなかった。
「開封します」
評議室の卓を囲むのは、俺、セラフィーナ、ガレス、クレアの四人だけだ。
父にはまだ知らせていない。体調が落ち着くまで、内容を確かめてから話すつもりだった。
俺が封を切ると、厚い羊皮紙が一枚入っていた。
文面は短い。
王太子ヴィクトル・アルヴェリアの名において、ローゼンフェルト公爵令嬢セラフィーナの身柄を王都へ引き渡せ。
期限は十日。
従わない場合、ハルフォード家は王命への反逆とみなす。
「随分と簡潔だな」
ガレスが低く言った。
「簡潔な脅迫です」
セラフィーナは紙へ目を落としたまま答えた。
声は落ち着いている。
けれど、右手の指先が冷たく白くなっていた。
「法的な根拠は?」
俺が尋ねる。
「記載されていません。罪状も、正式な裁判への召喚もありません」
「では無効ですか」
「王太子の権限だけで、貴族令嬢の身柄を地方領主へ引き渡させることはできません。ですが――」
「兵は送れる」
ガレスが続けた。
「法がなくても、槍は来る」
窓の外から、学校の鐘が聞こえた。
昼の授業が終わる時間だ。
この評議室から少し歩けば、市場がある。水車が回り、裁縫室では女性たちが針を動かし、パン屋では子どもが粉袋を運んでいる。
王国で一番幸せな領地。
新聞がそう呼んだ場所へ、王家は十日後に兵を向けるかもしれない。
ガレスは命令書を裏返し、紙質まで確かめた。
「偽物の可能性は?」
「封蝋と署名は本物です」
セラフィーナが答える。
「ただし、国王陛下の連署はありません」
「王太子単独か」
「はい。王家全体の命令ではなく、殿下個人の命令である可能性があります」
「それなら、国王へ直訴できる?」
「陛下へ文書が届けば」
「届かない可能性があるんですね」
「王宮の文書は、殿下の側近を通ります」
俺は窓の外へ目を向けた。
新聞一枚なら王都から届くのに、こちらの言葉は王宮の扉で止められるかもしれない。
「マリアンヌ殿下へ連絡は」
「危険です。殿下がこちらと通じていると知られれば、王宮で自由を失います」
「では、直接頼れない」
「ですが、通常の商業文書に紛れさせ、事実だけを知らせることはできます」
クレアが静かに口を開く。
「アニエス様の商会を通すのであれば、王都へ複数の経路がございます」
「頼みましょう。ただし、彼女にも危険を説明してからです」
誰か一人を秘密の道具にしない。
セラフィーナが残ると決めた時から、俺たちはそれを守る必要があった。
「王都へ抗議文を出します」
セラフィーナが言った。
「私の引き渡しには法的根拠がないこと、保護宣誓が有効であること、裁判を経ない拘束へ応じられないことを」
「時間を稼げますか」
「多少は。ただし殿下が法を守る意思を持っている場合に限ります」
クレアが静かに紅茶を置いた。
「セラフィーナ様。お手が冷えております」
「問題ありません」
「問題がない時の手ではございません」
クレアが両手で包む。
セラフィーナは拒まなかった。
「俺たちが拒否した場合、領地へどんな処罰が考えられますか」
「交易停止。追加徴税。役人の派遣。最悪の場合は、反逆鎮圧を名目とした軍の進駐です」
「人数は」
ガレスが問う。
「王都からすぐ動かせる兵だけでも、こちらの守備隊より多いでしょう」
ガレスは舌打ちした。
勝てない。
少なくとも、正面から戦えば。
俺は怖かった。
自分が捕まることより、ここで暮らす人たちの家へ兵が入ることが。
子どもが学校へ行けなくなることが。
せっかく一枚増えたパンが、また食卓から消えることが。
「アレン」
セラフィーナが俺を見る。
「私のために、領地を危険へさらしてはなりません」
「まだ何も決めていません」
「ですが」
「決める前に、全部知りたい」
俺は命令書を卓へ置いた。
「軍が来た場合の避難経路。食料の備蓄。近隣領の反応。王都へ訴える手段。できることを全部確認します」
「そして、最後に私を渡すか決めるのですか」
言葉が鋭かった。
俺はすぐに答えられない。
渡すつもりはない。
そう言えば、簡単だった。
けれど、その言葉の代わりに領民へ危険を負わせるなら、格好のよい返事だけでは足りない。
「セラフィーナを物のように渡すつもりはありません」
俺は言った。
「ただ、守ると言うなら、誰がどんな危険を負うのかまで考えたい」
「私は、その危険から除外されるのですか」
「除外しません」
セラフィーナの青い目がわずかに揺れた。
「俺が一人で決めません。セラフィーナも、領地の皆も、父上も。事情を知る権利があります」
「領民へ、私のために危険を負うか問うのですか」
「違います」
俺は首を振った。
「王家が法を無視して人を連れ去ろうとしている。その時、どうするかを皆で考えます」
セラフィーナは黙った。
彼女は、いつも自分だけを問題の中心へ置く。
自分がいなくなれば解決すると考える。
けれど今回の命令が通れば、次は別の誰かだ。
税へ異議を唱えた農民。
徴発を拒んだ商人。
不正な命令を記録した役人。
「これは、セラフィーナ一人の問題ではありません」
「ですが、始まりは私です」
「始まりが誰でも、王家が法を越えていい理由にはならない」
ガレスが卓を指で叩いた。
「俺は兵の配置を見直す。ただし、戦うためじゃない。村を逃がすためだ」
「クレアさんは備蓄と救護を」
「承知しました」
「セラフィーナは抗議文と、王都で使える法的手段を」
「アレンは?」
「領民へ説明します」
また百軒回ることになるかもしれない。
今度は税の話より、ずっと重い。
「怖いですか」
セラフィーナが聞いた。
「怖いです」
洪水の夜に約束した通り、隠さなかった。
「でも、怖いから渡しますとは言えません」
彼女は視線を伏せた。
「私も怖いです」
「はい」
「私が残ることで、誰かの家が焼かれることが」
「そうならない方法を探します」
「見つからなければ?」
その問いには答えがなかった。
評議室へ沈黙が落ちる。
外では、学校から帰る子どもたちの声がする。
皆、今日もここへ帰ってきた。
「十日あります」
俺は命令書を折り直した。
「十日しか、ではなく?」
「十日もあります。うちの水車は三日で直しました」
「それは皆さんが不眠で働いたからです」
「今回は眠りましょう。倒れると怒られるので」
クレアがわずかに笑う。
セラフィーナも、ほんの少し口元を緩めた。
笑えるうちは、考えられる。
評議室を出る前、彼女は命令書をもう一度見た。
「アレン」
「はい」
「私は、領地の安全を最優先に考えます」
「俺もです」
「たとえ、その結論が」
「一人で結論を出さないでください」
彼女は言葉を止めた。
「今夜は休みましょう。明日の朝、皆へ説明します」
「……はい」
セラフィーナはうなずいた。
だが、その声は、何かを決めかけている人のものだった。




