第35話 幸せについての作文
学校の発表会で、俺は子どもたちより緊張していた。
「顔が固いです、アレン」
隣のセラフィーナが小声で言う。
「領主として、教育の成果を見届ける場ですから」
「読み書きを始めて数か月の子どもたちです。成果を評価する場ではありません」
「では何の場です?」
「聞く場です」
彼女の答えに、少し肩の力が抜けた。
教室には、子どもたちの家族や領民が集まっている。
窓辺にはクレアが立ち、後ろの席にはアニエスもいる。
黒板はまだ新しい。机には、職人たちが削った跡が残っている。
最初の少女が前へ出た。
「わたしのすきなたべもの」
題名を読み、家で食べる豆のスープについて話す。
次の少年は、父親の仕事を書いた。
緊張で声が小さくなると、父親が後ろから「聞こえてるぞ」と言い、教室に笑いが起きた。
作文はどれも短い。
綴りを間違え、同じ言葉を何度も使う。
けれど、どれも本人の生活から出た言葉だった。
発表の合間には、子どもたちが作った木札も披露された。
畑の収穫を数える札。
水門の開閉を記録する札。
裁縫室へ注文を出す時の札。
「学校で学んだ字が、家の仕事に使われているんですね」
俺が言う。
「学ぶことが、暮らしから離れていないのがよいのです」
セラフィーナは、前列の少女が母親へ自分の名前を教えている姿を見た。
「子どもが親へ教えることもあるのですね」
「恥ずかしいと思う親もいるでしょう」
「だから、子どもだけの学校にしてはいけないのかもしれません」
「夜に大人向けの時間を?」
「農繁期を避け、週に一度なら」
発表会の最中にも、彼女は次の仕組みを考えている。
けれど今日は、帳面を開かなかった。
子どもたちの声を、先に聞いていた。
やがて、一人の少年が呼ばれた。
学校へ来る前は、教会の空き部屋で暮らしていた孤児だ。
今は、領内のパン屋で手伝いをしながら学校へ通っている。
少年は紙を両手で持ち、前へ出た。
「ぼくのしあわせ」
読み始める。
「ぼくは、まえは、しあわせは、たくさんたべることだとおもっていました」
教室の奥で、パン屋の主人が少し笑う。
「パンをふたつたべられる日は、しあわせでした。でも、つぎの日にパンがないと、かなしかったです」
少年は一度、言葉につかえた。
先生が急かさず待つ。
「いまは、がっこうがあります。よるは、パンやのおじさんのところでねます。しっぱいするとおこられます。でも、かえってくるなとはいわれません」
パン屋の主人が下を向く。
大きな手で目元をこすった。
「こうずいのひも、みんなでがっこうにいました。こわかったけど、となりにひとがいました」
少年は紙から顔を上げた。
教室を見回す。
俺と目が合うと、また紙へ戻った。
「ぼくは、しあわせは、パンがいっぱいあることだけじゃないとおもいます」
声が少し震える。
「ハルフォード領は王国で一番幸せな場所です。帰ってきていいと言ってくれる人がいるからです」
教室が静まり返った。
外から、鳥の声が聞こえる。
誰もすぐには拍手をしなかった。
少年は失敗したと思ったのか、不安そうに紙を下ろす。
その時、パン屋の主人が立ち上がった。
「ちゃんと帰ってこい」
声が震えていた。
「店の粉袋を倒しても、パンを焦がしても。怒るが、帰ってこい」
少年の目が大きくなる。
「はい」
小さく答えた。
拍手が起きた。
最初は一人。
次に二人。
やがて、教室全体へ広がった。
クレアが目元を押さえている。
アニエスは遠慮なく泣いていた。
セラフィーナは動かなかった。
ただ、膝の上で両手を強く握っている。
「大丈夫ですか」
俺が尋ねる。
「はい」
声が少し掠れていた。
「私は、領地を豊かにすれば、人は幸せになると思っていました」
「間違ってはいないでしょう」
「ええ。でも、足りませんでした」
彼女は前にいる少年を見る。
「帰ってきてよいと言う人がいること。私は、それを制度の項目として考えたことがありません」
「制度には書けませんね」
「だからこそ、大切なのでしょう」
発表会が終わると、子どもたちは家族のもとへ駆けていった。
少年だけは、紙を持ったまま俺たちの前へ来る。
「へたでしたか」
「とてもよかったです」
俺が答えると、彼はセラフィーナを見る。
「ほんとう?」
「はい」
彼女は膝を折り、少年と同じ高さになる。
「あなたの言葉で、私たちは大切なことを教えていただきました」
「ぼくが?」
「そうです」
「セラフィーナさまより、ぼくが?」
「今日は、あなたが先生です」
少年は照れたように笑った。
持っていた作文の紙を差し出す。
「あげます」
「大切な作文でしょう」
「もう、よめるから。つぎは、もっとじょうずにかく」
セラフィーナは両手で受け取った。
「大切にします」
外へ出ると、初夏の日差しがまぶしかった。
校庭では、子どもたちが走り回っている。
洪水で泥へ沈んだ場所も、今は乾いている。
「俺たちは、王国で一番幸せな領地を作ったんでしょうか」
尋ねると、セラフィーナは首を振った。
「いいえ」
「厳しいですね」
「幸せにしたのは、私たちだけではありません」
パン屋が少年の肩へ手を置いている。
裁縫室の女性たちが、子どもの破れた袖を直している。
農民が学校の柵を修理している。
「帰ってきていいと言う人が、ここにはたくさんいます」
「それなら、皆で作った?」
「はい」
セラフィーナは作文を胸へ抱いた。
「そして、まだ作っている途中です」
発表会の後、パン屋の主人が俺へ頭を下げた。
「あいつを引き取った時は、働き手が欲しかっただけなんです」
「今は?」
「うるさいし、よく失敗するし、粉をこぼす」
「答えになってませんね」
「帰りが遅いと腹が立つ」
主人は少年の方を見る。
「心配するからですか」
「そういうことにしといてください」
少年は校庭で友達と走っている。
呼ばれると、当然のようにパン屋の主人の隣へ戻ってきた。
「帰るぞ」
「はい」
たった二文字の返事が、作文の続きのように聞こえた。
セラフィーナは受け取った作文を、何度も読み返していた。
「同じ文を三度読んでいます」
「読むたび、意味が変わる気がします」
「どう変わります?」
「最初は、少年が居場所を得た話だと思いました。次は、パン屋の方が家族を得た話に見えました」
「三度目は?」
「この領地にいる全員が、誰かへ帰ってきてよいと言えるかを問われているように」
俺は校庭を見る。
喧嘩をしている子もいる。
一人で木陰へ座る子もいる。
皆がいつも仲よしというわけではない。
「難しい宿題ですね」
「だから、よい作文なのでしょう」
セラフィーナは紙の折り目を丁寧に伸ばした。
「幸福を宣言するだけなら簡単です。誰かが戻った時、本当に受け入れられるかは、日々の選択です」
「まずは、失敗した子を教室へ戻すところから?」
「はい。大人も同じです」
その時、校庭で転んだ少女が泣き出した。
先ほど喧嘩していた子が駆け寄り、手を差し出す。
セラフィーナは、その様子を見て微笑んだ。
先生が、作文を領外の新聞へ紹介してはどうかと言ってきた。
「子どもの許可があるなら」
俺が答える。
少年は少し考え、うなずいた。
「よそのひとも、かえっていいところがあるといいから」
「新聞に載ったら、王都の人も読む?」
少年が尋ねる。
「読む人もいるでしょう」
「王都にも、帰っていいところはある?」
俺はすぐに答えられなかった。
セラフィーナが少年の目線へかがむ。
「ある人も、まだ見つけていない人もいると思います」
「じゃあ、見つけられる?」
「見つけることも、作ることもできます」
「ぼくみたいに?」
「はい。あなたのように」
少年は安心したようにうなずいた。
その言葉に、また大人たちが黙る。
俺たちは子どもへ教えるために学校を作った。
けれど今日、教えられたのは俺たちの方だった。




