第34話 怖かったと言ってください
深夜、臨時救護所の隅で、俺はセラフィーナに叱られていた。
「上着を脱いでください」
「ここで?」
「怪我を確認します」
「かすり傷です」
「その言葉は信用しておりません」
救護所には負傷者がいるため、俺たちは布で仕切られた小さな区画へ移った。
ガレスが腕を組んで入口に立っている。
「逃げるなよ」
「逃げない」
「さっき治療から逃げた」
「避難人数を確認していただけだ」
「二回な」
セラフィーナの視線が鋭くなる。
「二回?」
「ガレス」
「事実を伝えただけだ」
味方がいない。
仕方なく上着を脱ぐ。
肩には牛の角がかすった傷。脇腹には流木で打った青痣。手のひらは縄で擦れている。
セラフィーナは何も言わず、布へ薬を含ませた。
「痛みますか」
「少し」
「嘘ですね」
「かなり」
「最初からそう言ってください」
傷へ布が触れる。
痛い。
顔に出さないようにしたら、彼女に睨まれた。
「痛いと言ってください」
「痛いです」
「怖かったとも」
俺は黙る。
ガレスが布の外から言った。
「言え」
「お前は聞いているのか」
「警備だ」
「絶対に楽しんでるだろ」
「少しな」
セラフィーナは笑わなかった。
薬を塗る指が、ほんの少し震えている。
「納屋へ入った時」
彼女が言う。
「堤が崩れた時」
「見ていたんですか」
「避難所へ戻った方から聞きました」
「必要な判断でした」
「必要だったかどうかを聞いているのではありません」
青い瞳が、まっすぐ俺を見る。
「怖くなかったのですか」
牛が暴れた時。
濁流へ足を取られた時。
戸板を離せば、青年が流されると思った時。
怖かった。
ただ、怖いと言えば足が止まる気がして、考えないようにしていた。
「怖かったです」
口にすると、胸の奥へ残っていた力が抜けた。
「牛に角を向けられた時も、堤が崩れた時も」
「はい」
「最後の家へ向かう途中、戻れないかもしれないと思いました」
セラフィーナの手が止まる。
「それでも行ったのですか」
「残っている人がいたので」
「だからといって、あなたが一人で背負う必要はありません」
「一人ではありません。ガレスも、領民もいました」
「では、なぜ皆へ任せず、自分が先へ出るのですか」
「領主代理だから」
「それは理由ではなく、役職です」
前にも似たことを言われた。
役に立つことと、ここにいる価値は同じではない。
けれど俺も、領主であることを、自分を削る理由へ使っていたらしい。
「すみません」
「謝罪が欲しいのではありません」
「では、何を」
「戻ってきてください」
声が震えた。
「助けへ行くなとは言いません。危険な時に動くあなたを、私は尊敬しています」
セラフィーナは包帯を巻きながら続ける。
「でも、戻ることまで責任に含めてください」
胸が痛んだ。
傷ではない。
「約束します」
「軽く言わないでください」
「軽くは言っていません」
彼女の手へ、自分の手を重ねた。
「怖い時は、怖いと言います。助けが必要なら求めます。そして、戻ります」
セラフィーナは俺の手を見た。
「必ず?」
「できる限り、必ず」
「できる限り、ですか」
「未来を完全に約束するのは、無責任だから」
彼女は少しだけ眉を寄せる。
「正直すぎます」
「嘘よりは」
「では、私も正直に言います」
セラフィーナは息を吸った。
「アレンが戻らないのではないかと、怖かったです」
その言葉は、怒りより重かった。
「避難所で指示を出している間も、扉が開くたび、あなたかと思いました」
「セラフィーナ」
「皆を落ち着かせる立場でしたから、顔には出せませんでした」
「もう出していいです」
俺が言うと、彼女の目へ涙が浮かんだ。
「怖かったと言ってくださいと、私が言ったのに」
「順番が逆になりましたね」
「笑わないでください」
「笑っていません」
「少し笑っています」
「安心したので」
「俺は、怖いと言えば皆を不安にさせると思っていました」
「不安を隠す指揮官だけが、よい指揮官ではありません」
「セラフィーナは、避難所で怖い顔を見せなかったでしょう」
「見せる相手を選びました」
彼女は俺を見る。
「皆の前では、判断する人でいなければなりませんでした。でも、アレンの前では、怖かったと言いたかった」
「俺もです」
「ならば、今後はそうしてください」
「二人の時だけ?」
「まずは」
「慣れたら、ガレスにも」
布の外から声がする。
「俺はいつでも聞くぞ」
「まだいたのか」
「警備だと言っただろ」
セラフィーナが思わず笑った。
張り詰めていた空気が少しほどける。
「怖いと言っても、誰もあなたを弱いとは思いません」
「そうでしょうか」
「少なくとも私は、怖いまま戻ってきたあなたを、強いと思います」
その言葉は、傷へ塗る薬より効いた。
セラフィーナは包帯の端を結び終えたあとも、すぐには手を離さなかった。
「私は、あなたが無茶をするたび、止めるべきか迷います」
「領主代理の判断へ口を出すことになるから?」
「いいえ。あなたの善意を否定したくないからです」
「止めても、否定にはなりません」
「そう思えるようになりました」
彼女は結び目を確かめる。
「助けたい気持ちと、自分を捨てることは同じではありません」
「覚えておきます」
「忘れたら、何度でも申し上げます」
「厳しいですね」
「大切ですから」
その一言だけ、彼女は俺を見ずに言った。
「戻った時、最初に何を見ましたか」
「避難所の灯りです」
「私は、扉に立つアレンを見ました」
「泥だらけだったでしょう」
「はい。だから、すぐに怒ろうと思いました」
「安心する前に?」
「安心したから、怒れたのです」
その順番が、少しうれしかった。
彼女の額が、俺の肩へそっと触れた。
傷のない方だ。
抱きしめるほどではない。
けれど、離れようとも思わなかった。
しばらく、そのままでいる。
布の外からガレスの声がした。
「警備上、確認するが、生きてるか」
「生きてる」
「なら静かにしておく」
足音が遠ざかる。
セラフィーナが小さく息を吐いた。
「明日から、復旧です」
「はい」
「無茶は」
「しません」
「本当に?」
「怖い時は報告します」
「私も」
彼女が顔を上げる。
目元は赤い。
それでも、いつもの強さへ戻っていた。
強いふりではない。
怖さを知ったまま、立つ強さだ。
俺もそうなれればいいと思った。




