第33話 春の洪水
川の音で目が覚めた。
雨ではない。
雪解け水が山から一気に流れ込み、領地を横切る川が夜明け前から増水していた。
「下流の堤が持ちません!」
守備隊の兵が、領主館へ駆け込んでくる。
俺は外套をつかんだ。
「ガレス、北側の家を先に避難させる。橋は閉鎖。水車の水門を全開にして流れを逃がせ」
「お前は?」
「下流へ行く」
「一人で行くな」
「わかってる」
玄関では、セラフィーナがすでに帳面を開いていた。
「避難先は学校と裁縫室を使います。学校は子どもと高齢者、裁縫室は女性と乳児。食料は領主館の備蓄を分けます」
「穀物庫は?」
「水位が上がる前に高い棚へ移します。クレアが指揮を」
クレアがうなずく。
「寝具も裁縫室から運びます」
「セラフィーナは領主館に残って」
「避難所へ行きます」
「危険です」
「だから行くのです。人数と物資を把握する者が必要です」
反論する時間はない。
「無理はしないでください」
「アレンも」
互いに言って、別れた。
下流へ着く頃には、川は茶色い濁流になっていた。
堤の外側へ水が染み出し、農家の庭へ入り始めている。
「荷車を高台へ!」
「家財は後だ。人を先に!」
ガレスが怒鳴る。
俺たちは家を一軒ずつ回った。
歩けない老人を背負い、子どもを荷車へ乗せる。
ある家の納屋で、牛が縄へ絡まって暴れていた。
「置いていけ!」
ガレスが叫ぶ。
「牛が逃げれば橋の方へ行く!」
「お前が行くな!」
返事をせず、納屋へ入る。
水は膝まで来ていた。
牛の目が恐怖で白くなっている。
「落ち着け。俺も怖いから、仲間だ」
意味は伝わらないだろう。
それでも声をかけながら縄を切る。
牛が暴れ、肩へ角がかすった。
「アレン!」
ガレスが外から腕をつかみ、俺ごと引きずり出す。
牛は納屋を飛び出し、高台の方へ走った。
「あとで殴る」
「助かった」
「今殴るか?」
「あとでお願いします」
堤の一部が崩れた。
水が畑へ流れ込む。
だが、昨年作った排水路が流れを村の外側へ導いた。
「水路が持ってる!」
領民の声が上がる。
「全員、土嚢を積め! 上流側から!」
訓練していた手順が動き出す。
誰かが命令しなくても、農民たちは三人一組になり、袋へ土を詰める。
子どもを避難させた後の荷車が、土嚢運びへ使われる。
俺たちは濁流と泥の中で、何度も往復した。
途中、一本の避難路が水で塞がれた。
「学校へ行けない!」
荷車を引く男が叫ぶ。
俺は周囲を見る。東の丘へ回れば遠い。だが、裁縫室なら近い。
「行き先を変更! 赤い布の印を追え!」
去年の訓練で、避難所ごとに色を決めていた。
学校は青。裁縫室は赤。領主館は白。
読み書きのできない者でも、旗を見ればわかる。
クレアが裁縫室の屋根から赤い布を振っているのが見えた。
「こっちです!」
女性たちが扉を開き、濡れた子どもを受け取る。
裁縫台は壁へ寄せられ、床には毛布が敷かれていた。
小さな工房が、そのまま避難所になっている。
改革は、平穏な日にだけ役立つものではない。
ここまで積み上げた仕事が、人を逃がす道へ変わっていた。
一方、学校の避難所では、セラフィーナが机を並べ替えていた。
俺が様子を見に戻った時、室内は混乱しているようで、実際には役割が分かれていた。
「到着した家族は、入口で人数を申告してください。名前が書けない方は、家の印で構いません」
セラフィーナが指示を出す。
「毛布は一人一枚ではなく、家族ごとに。乳児と高齢者を優先。水は一度に配らず、時間を決めます」
「パンが足りません!」
「裁縫室にいる人数を引けば足ります。別の避難所分を混ぜないでください」
机の上には木札が並んでいる。
文字が読めない人にもわかるよう、家、食事、毛布、薬の印が刻まれていた。
「薬草は?」
「発熱用が不足しています」
「領主館の父上の分を」
「それは最後まで残します」
彼女は即座に止めた。
「病人の薬を奪ってはなりません。市場の薬屋へ在庫を確認済みです。アニエスの倉庫から二箱届きます」
「もう連絡を?」
「洪水が起きた時の手順へ入れてありました」
完璧に見える。
だが、彼女の手はわずかに震えていた。
「セラフィーナ」
「アレン、怪我を?」
「かすり傷です」
肩の泥と血を見て、彼女の顔色が変わる。
「救護を」
「先に報告を。下流の避難はほぼ完了。堤は一部決壊しましたが、排水路へ流れています」
「残っている人は?」
「あと二軒」
「では、戻ってください」
「でも」
「私はここを動かせます」
彼女は震える手を帳面の下へ隠した。
「アレンにしかできないことをしてください」
俺はうなずく。
「必ず戻ります」
「はい」
再び川へ向かった。
最後の一軒には、足を怪我した青年が残っていた。
ガレスと二人で戸板へ乗せ、腰まで水へつかりながら運ぶ。
流木が足へ当たる。
何度も転びそうになる。
「離すな!」
「わかってる!」
高台へ着いた時、青年の母親が泣きながら抱きついた。
夕方、避難所の人数札が一枚だけ合わなくなった。
「子どもが一人足りません」
セラフィーナの声で、室内が緊張する。
すぐに捜索を始める前に、彼女は家族ごとの札を並べ直した。
「学校の青札ではなく、裁縫室の赤札へ移った子がいます」
クレアから届いた名簿と照らし合わせる。
足りなかった子は、母親とともに別の避難所へいた。
「見つかりました!」
報告に、母親たちが安堵する。
慌てて人を危険な外へ出さず、記録から確かめたセラフィーナの判断だった。
日が暮れる頃、雨は弱くなった。
川の水位も、ようやく下がり始める。
被害は大きい。
畑の一部は水へ沈み、家も何軒か壊れた。
それでも、避難した人の中に死者はいなかった。
学校の床へ座り込んだ人々へ、温かいスープが配られる。
クレアの裁縫室で作った毛布が、濡れた肩へ掛けられる。
パン屋から届いたパンを、子どもが半分に割って隣の老人へ渡した。
俺は入口で壁へ寄りかかった。
セラフィーナが来る。
「全員、確認できました」
「こちらもです」
「よかった」
その一言で、彼女の膝から力が抜けた。
俺が支える。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「それは俺が倒れた時に使った言葉です」
「では、訂正します。疲れました」
「俺もです」
外では、泥だらけの領民たちが土嚢を積み続けている。
今夜を越えれば、明日から復旧が始まる。
俺とセラフィーナは並んで、避難所の灯りを見た。




