第32話 収穫祭の舞踏会
収穫祭の広場には、麦束と色布が飾られていた。
大鍋では肉と豆の煮込みが湯気を立て、焼きたてのパンが籠へ積まれている。
水車が直り、今年は粉がよく挽けた。
洪水前の備えも進み、畑の収穫は昨年より増えた。
だから領民たちは、朝からよく笑っていた。
俺以外は。
「顔が固いです、アレン」
隣でセラフィーナが言う。
「領主代理として緊張しているだけです」
「舞踏の緊張でしょう」
「なぜわかるんです」
「先ほどから、楽団を見るたび右足を引いています」
逃げる準備が体に出ていたらしい。
セラフィーナは、クレアの裁縫室で仕立てた深い青のドレスを着ている。
豪華な宝石はない。
髪には、俺が市場で贈った銀色の髪飾り。
王宮の舞踏会より簡素な姿なのに、目を離せなかった。
「何でしょう」
「いえ。似合っていると思って」
「それだけですか」
「とても、似合っています」
言い直すと、彼女は少し満足そうにうなずいた。
「アレンも、いつもの礼服よりよいと思います」
「クレアさんに直してもらいました」
「肩が合っています」
「前の礼服は、父上のお下がりだったので」
踊りの前には、今年の収穫を分け合う儀式があった。
最初のパンを父が切り、農民、職人、商人、孤児へ一切れずつ渡す。
最後の一切れがセラフィーナへ差し出された。
「私でよいのですか」
「水車の金勘定をしてくれた人にも、食べる権利はある」
年配の農夫が笑う。
「それに、泥の畑へ入った人はもう領民みたいなもんだ」
セラフィーナは両手でパンを受け取った。
「ありがとうございます」
ひと口食べる。
「どうです」
俺が尋ねる。
「昨年より、香りが強いです」
「粉が新鮮ですから」
「そして、少し塩が多いですね」
パン屋が遠くから叫ぶ。
「来年は減らします!」
皆が笑った。
失敗も翌年へ持ち越せる。それが収穫祭らしい。
広場の端では、学校の子どもたちが作った飾りが風に揺れていた。
歪んだ文字で「おかえり」と書かれた布を見つけ、セラフィーナが足を止める。
「祭りの言葉としては、少し変わっていますね」
「畑から帰る人を迎えるためだそうです」
「では、収穫祭に合っています」
彼女は布を見上げ、静かに笑った。
「帰ってきた人が、皆で食べられる日ですから」
俺たちは、その言葉の下を通って広場へ入った。
楽団が最初の曲を始める。
領民たちが広場の中央へ集まり、手を取り合う。
貴族の舞踏とは違い、決まった相手だけで踊るわけではない。輪になり、隣を変えながら足を踏む。
「これなら、練習したものより簡単です」
セラフィーナが手を差し出した。
「本当に?」
「皆さんと同じ動きをすればよいのです」
「それが難しいんですが」
「私を見てください」
言われた通り、彼女を見る。
それが別の意味で難しい。
手を取る。
広場へ出ると、周囲から歓声が上がった。
「若旦那様、若奥様!」
「まだ若奥様ではありません!」
俺が訂正すると、セラフィーナに足を踏まれた。
「痛っ」
「今のは、踊りの手順です」
「絶対に違う」
領民たちが笑う。
音楽が速くなり、輪が動き始めた。
右へ二歩。
左へ一歩。
相手と向き合い、手を上げる。
練習ではできた。
本番になると、隣の人の足と自分の足が増えたように感じる。
「アレン、右です」
「右?」
「反対です!」
セラフィーナの足を踏んだ。
「あ」
音楽より大きく、俺の心臓が鳴った。
「すみません!」
すぐに止まろうとする。
彼女は一瞬目を丸くし、それから笑った。
「大丈夫です」
「痛くないですか」
「少しは」
「やっぱり」
「でも、王宮の舞踏会で失敗するより、ずっと楽しいです」
「失敗して楽しい?」
「はい」
彼女は俺の手を引いた。
「ここでは、誰も失点を数えません」
言葉の通り、周囲は俺たちを見て笑っている。
嘲笑ではない。
次は気をつけろ、と背中を叩くような笑いだ。
「では、もう一度」
セラフィーナが構える。
「怖くないんですか」
「アレンの足くらいで?」
「公爵令嬢の靴を踏んだ男として、王都なら処刑されそうです」
「ここはハルフォード領です」
彼女は楽しそうに目を細める。
「それに、私は公爵令嬢ではありません」
「では、何ですか」
尋ねると、彼女は少し考えた。
「今は、あなたの相棒です」
胸が熱くなる。
「それなら、踏まないよう努力します」
「努力だけですか」
「成功は保証できません」
「正直ですね」
音楽が再開する。
今度は彼女の足元ではなく、肩と目線を見る。
右。
左。
回る。
少し遅れたが、踏まなかった。
「できましたね」
「奇跡です」
「もう一度」
曲が変わる。
今度は輪から離れ、二人で向き合う舞踏になった。
貴族式より単純だが、距離が近い。
俺の右手は、彼女の腰へ触れる直前で止まる。
「どうしました」
「ここへ置いていいんですか」
「練習したでしょう」
「本番だと違います」
「私も同じです」
彼女の声も、少しだけ緊張していた。
手を添える。
セラフィーナの指が、俺の肩へ置かれる。
広場の灯りが、銀色の髪へ揺れた。
歩幅を合わせる。
今度は、足を踏まない。
彼女も笑わない。
ただ、まっすぐ俺を見ている。
「アレン」
「はい」
「今度は、とても上手です」
「セラフィーナしか見ていないので」
言ってから、恥ずかしくなった。
彼女も目を伏せる。
けれど、手は離れない。
曲が終わると、拍手が起きた。
クレア、アニエス、マリアンヌまで並んで見ている。
「同盟の成果ね」
アニエスの声が聞こえた。
「本人たちの成果でございます」
クレアが訂正する。
「次は結婚式ですね」
マリアンヌが言う。
「殿下!」
セラフィーナの声が広場へ響いた。
また笑いが起きる。
彼女も、少し遅れて笑った。
曲の合間、子どもが俺の袖を引いた。
「若旦那様、今度は踏まなかったね」
「見ていたのか」
「みんな見てた」
逃げ場はなかった。
セラフィーナは肩を震わせる。
「次は、私が踏む番かもしれません」
「それなら、おあいこですね」
俺たちは輪へ戻る。
今度は誰かの足を踏んでも、すぐに謝り、また踊ればいい。
身分も作法も、今夜だけは笑いの中へ溶けていた。




