第3話 公爵令嬢との逃避行
王宮の裏廊下を走りながら、俺はひとつ重大な事実に気づいた。
古い礼服は、逃走にはまるで向いていない。
裾は足に絡む。靴底は石床で滑る。しかも背後から聞こえる近衛兵の足音は、こちらより明らかに速い。
「右です、アレン様!」
セラフィーナ様の声に従い、俺は角を曲がった。
その先に、小柄な少女が立っていた。
淡い金髪を外套のフードへ隠しているが、見間違えるはずがない。大広間で何度か遠目に見た王女、マリアンヌ殿下だ。
「こちらへ」
「王女殿下……!」
「声を抑えてください。兄上の近衛は正門と西門へ集めました。裏門の交代時刻を三十分遅らせています」
彼女はセラフィーナ様の手を握った。
「セラフィーナ様、ご無事で」
「マリアンヌ殿下。あなたまで疑われます」
「もう疑われても構いません。ですが、今は言い争う時間がありません」
王女は唇を噛み、すぐに手を離した。
「裏門の外に馬車があります。クレアが待っています」
「クレアが?」
セラフィーナ様の声が初めて大きく揺れた。
「王宮から追放されると聞いて、荷物も持たずにお戻りになるはずがないと申していました」
俺は思わず聞いた。
「俺たちが裏門へ来ると、どうしてわかったんですか」
マリアンヌ殿下が真顔で答える。
「クレアは、セラフィーナ様の侍女ですから」
説明になっているようで、なっていない。
だが、セラフィーナ様は納得した顔をしていた。有能な侍女というものは、主の行動だけでなく、人生の危機まで先回りするらしい。
裏門へ向かう途中、マリアンヌ殿下が俺へ折り畳んだ書面を差し出した。
「保護宣誓の写しとは別に、王宮から退出する許可証です。今夜限り有効です」
「ありがとうございます」
「お礼を言われる資格はありません。私は兄上を止められませんでした」
「今、俺たちを止める兵を遅らせてくれています」
王女は一瞬、目を伏せた。
裏門の前で、俺たちは足を止めた。
「ここから先は、同行できません」
マリアンヌ殿下はセラフィーナ様を見上げる。
「どうか、生きてください」
「あなたも」
それだけだった。
抱き合うことも、長い別れを告げることもない。けれど二人の間にあるものが、俺にもわかる気がした。
門の外には、飾りのない灰色の馬車が待っていた。
御者台から黒髪の女性が飛び降りる。
「セラフィーナ様」
「クレア……」
いつも冷静なのだろう侍女は、主人の姿を確認した途端、目元を赤くした。だが泣く前に、外套を広げてセラフィーナ様の肩へ掛ける。
「お話は馬車の中で。髪色が目立ちますので、こちらの布も」
「準備がよすぎませんか」
俺が言うと、クレアは俺の古い礼服を上から下まで見た。
「ハルフォード卿の着替えも用意できれば完璧でした」
「俺もそう思います」
馬車が動き出す。
王宮の塔が遠ざかるにつれ、ようやく胸の奥へ冷たい実感が広がった。
俺たちは逃げている。
保護宣誓は正式に成立した。それでも、王太子殿下が別の名目で拘束を命じれば、王都の兵が法律の細部まで守ってくれる保証はない。
セラフィーナ様は馬車の揺れにも動じず、マリアンヌ殿下から受け取った退出許可証を確認していた。
「このまま北西門へ向かいますか」
「はい。最短です」
「最短だからこそ、追手も待つでしょう」
彼女は許可証を裏返し、封蝋を指でなぞった。
「この書面は『王宮からの退出』を認めるものです。しかし王都の城門通過まで保証するとは書かれていません」
「別の通行証が必要ですか」
「本来、貴族の馬車は家の紋章で通れます。ただし今の私たちがハルフォード家の紋章を掲げれば、居場所を知らせるようなものです」
クレアが荷台の布をめくる。
「紋章板は外してあります。代わりに商用馬車に見えるよう、空の木箱を積みました」
「本当に準備がよすぎますね」
「ありがとうございます」
褒めたつもりは半分くらいだったが、クレアはきれいに一礼した。
北西門の手前で、馬車の列が止まっていた。
検問だ。
門の周囲には通常より多くの兵がいる。中には王宮で見た近衛の制服も混じっていた。
「顔を確認しているようです」
窓の隙間から見たクレアが告げる。
引き返せば目立つ。
進めば見つかる。
俺の胃が、さっき署名した誓約書ごと縮むようだった。
「俺が囮になって――」
「なりません」
セラフィーナ様が即座に遮った。
「その案は、ハルフォード家の宣誓者を失うだけです」
「では、どうします」
「正面から通ります」
俺とクレアが同時に彼女を見た。
「退出許可証を使うのです。ただし、相手に自由な解釈をさせない形で」
セラフィーナ様は許可証の末尾を示した。
「ここには『王家の命により、今宵中に王都外へ移送する』とあります。兄上は私を追い出すことを急ぐあまり、移送先を限定していません」
「つまり?」
「王都外へ出ること自体が、王家の命令です。門番が止めれば、命令の妨害になります」
見事な理屈だ。
ただし、相手が理屈を聞いてくれれば、である。
「私が話します。アレン様は宣誓書を」
「危険です」
「私を庇うだけでは、ハルフォード領へ着く前にあなたが倒れます」
青い瞳が俺を見た。
「私にも、働かせてください」
その言葉に、俺はうなずいた。
順番が来た。
兵士が馬車の扉を開け、セラフィーナ様の銀髪を見た瞬間、顔色を変える。
「ローゼンフェルト公爵令嬢……!」
「その呼称はすでに適切ではありません」
彼女は落ち着いて答えた。
「私は王太子殿下の命により王都外へ移送されます。こちらが退出許可証。こちらのハルフォード卿が、正式な保護宣誓者です」
俺も誓約書の写しを差し出す。
近衛兵が進み出た。
「殿下から、女を見つけ次第拘束せよとの口頭命令がある」
「では、書面をお示しください」
「王太子殿下の命に書面を求めるのか」
「すでに存在する書面命令と矛盾する口頭命令です。優先順位を確認するのは、王家の命令系統を守るために必要です」
セラフィーナ様は一歩も退かなかった。
「私を拘束するなら、王家発行の退出許可を門番が破棄した記録を残してください。立会人全員の名も必要です」
兵士たちが顔を見合わせる。
誰も、王太子の怒りを買いたくない。
同時に、正式な書面を勝手に破棄した責任も負いたくない。
辺境の交渉でもよくある。上からの曖昧な命令ほど、現場へ責任を押しつけるものだ。
門番の責任者が長い沈黙の後、許可証を返した。
「通せ」
馬車が動き出した。
門を抜けるまで、誰も息をつかなかった。
石造りの城壁を越え、朝焼けの街道へ出る。
王都が背後へ遠ざかったところで、クレアがようやく胸へ手を当てた。
「寿命が縮まりました」
「俺もです」
セラフィーナ様だけが平然としているように見えた。
けれど、許可証を握る指先が白くなっている。
「セラフィーナ様」
「はい」
「助かりました。俺一人では、あの門を越えられませんでした」
彼女は少し驚き、それから視線を窓の外へ向けた。
「私も、アレン様の宣誓書がなければ話を通せませんでした」
守る側と、守られる側。
そう思っていた。
けれど、どうやら違うらしい。
俺たちは馬車の両輪のように、どちらが欠けても先へ進めない。
朝の街道を走る馬車の中で、俺は初めて、セラフィーナ様を「助ける相手」ではなく「頼れる相手」として見た。




