第2話 俺が責任を取ります
王宮の控えの間は、大広間よりずっと狭い。
なのに、息苦しさは何倍にもなっていた。
長机の上には法典、誓約書、赤い封蝋。机の向こうには法務官が二人。背後には近衛兵。扉のそばにはヴィクトル殿下が立ち、俺の一挙手一投足を見ている。
そして隣には、婚約も家も身分も奪われたばかりのセラフィーナ様。
(さっきまで俺、大広間の隅で静かに帰ることだけ考えてたんだよな)
人生というものは、ほんの数分でずいぶん遠くまで来られるらしい。できればもっと穏やかな行き先がよかった。
「保護宣誓の条件を読み上げます」
年配の法務官が、感情を消した声で告げた。
「宣誓者は、裁判または王国評議会による再審理が行われるまで、被保護者の身柄と生活を保証する。逃亡、証拠隠滅、反逆行為を助けた場合、宣誓者の家名および所領も処罰対象となる」
一つ一つの言葉が、石のように胃へ落ちてくる。
「被保護者が王家へ刃を向けた場合は?」
ヴィクトル殿下が尋ねた。
「宣誓者が関与していれば同罪。関与がなくとも、監督責任を問われます」
「聞いたか、ハルフォード卿」
「はい」
「今なら、大広間での発言を若さゆえの混乱として処理してやってもよい」
ありがたい申し出に聞こえる。
実際、ありがたいのだろう。
ここで頭を下げれば、俺は古い礼服を着た辺境貴族へ戻れる。父の病床へ帰り、空の穀物庫を見て、壊れかけた水車の修理費を考える生活へ戻れる。
少なくとも、王太子を敵に回した領地にはならない。
俺が黙っていると、セラフィーナ様が口を開いた。
「二人きりで、ハルフォード卿へ確認する時間をいただけますか」
「必要ない」
ヴィクトル殿下が即答する。
「公的な宣誓です。圧力なく本人の意思を確かめるのが法の手順ではありませんか」
静かな声だった。
だが、法務官たちが互いに目を見合わせた。
年配の法務官が咳払いする。
「……形式上、短い確認は必要です」
ヴィクトル殿下は不快そうに眉を寄せたが、控えの間の奥にある小さな窓辺まで下がることを許した。
俺とセラフィーナ様は、数歩だけ人々から離れた。
それだけで、彼女の顔から公爵令嬢の仮面が少し薄くなったように見えた。
「ハルフォード卿」
「今は、アレンで構いません。公的な場ではありませんから」
言った直後、早まったかと思った。
ほぼ初対面の公爵令嬢に、いきなり名前を許す辺境貴族。距離感がおかしいと思われても仕方がない。
けれど彼女は、短く息を吸った。
「では、アレン様」
自分の名前が、妙にきれいな音に聞こえた。
「この宣誓が何を意味するか、本当に理解していらっしゃいますか」
「今、説明を受けました」
「説明を受けた、という意味ではありません」
青い瞳がまっすぐ俺を見る。
「私は王太子殿下から反逆者と認定されました。王家の命令に反対してきたことも事実です。私を引き受ければ、ハルフォード領への補助金や交易許可が止められるかもしれない。徴税を厳しくされる可能性もあります。あなたの父上や領民まで巻き込むのですよ」
彼女は自分の危険ではなく、俺の領地の危険を数えている。
自分を助けてくれとは一言も言わない。
「それでも、ですか」
俺は窓の外を見た。
晩冬の夜。王宮の庭は白く凍り、遠くの街灯だけが揺れている。
「正直に言うと、大広間で手を挙げた時は、そこまで全部考えられていませんでした」
セラフィーナ様の眉がわずかに動く。
「無責任だと思いますか」
「……判断を急いだとは思います」
「俺もそう思います」
胸を張って言うことではない。
けれど、格好をつけて「何も怖くありません」と言えば、それこそ彼女に嘘をつくことになる。
「宣誓の条件を聞いて、父や領民の顔が浮かびました。今さら手が震えています」
実際、指先は冷えていた。
「ならば撤回してください」
彼女はすぐに言った。
「私はあなたの善意のために、見知らぬ領民を危険へ巻き込みたくありません。今ならまだ――」
「理解してから怖くなりました。でも、見捨てる方がもっと後悔します」
セラフィーナ様の言葉が止まった。
俺は続けた。
「街道記録の矛盾は事実です。あなたが無実だと断言できるほど、俺は何も知りません。でも、疑いがあるのに調べもせず、全部奪って終わりというのはおかしい」
「それは正義感ですか」
「たぶん、そんな立派なものではありません」
少し考え、肩をすくめる。
「目の前で困っている人を見捨てたあと、平気な顔で領民に『困った時は助け合え』と言えなくなるのが嫌なんです」
セラフィーナ様は、しばらく何も言わなかった。
やがて、胸元で握っていた指をゆっくりほどく。
「アレン様は、不思議な方ですね」
「褒められている気がしません」
「私にも、まだ判断できません」
ほんの少しだけ、声が柔らかかった。
俺たちは机へ戻った。
ヴィクトル殿下が冷ややかに問う。
「結論は」
「宣誓します」
法務官が誓約書を差し出した。
そこには、被保護者の逃亡や反逆を助けないこと、裁定まで生活を保障すること、虚偽があれば家名と所領を処罰の対象とすることが記されている。
俺は一度、最後まで読んだ。
父から、契約書は相手が急かす時ほど丁寧に読めと教えられている。こういう時だけは、辺境の実務が役に立つ。
「何か異議があるか」
「一か所だけ。『王家の任意の命令に従う』という文言は、保護宣誓の定型には含まれないはずです」
法務官の手が止まった。
ヴィクトル殿下の目が細くなる。
「領地の契約書でも、空欄のまま署名はしませんので」
声は震えたが、引かなかった。
セラフィーナ様が隣で、書面の該当箇所へ視線を落とす。
「ハルフォード卿の指摘が正しいです。その文言は保護ではなく、王家への無条件服従を追加するものです」
法務官は沈黙の後、その一文へ線を引き、訂正印を押した。
俺は署名する。
アレン・ハルフォード。
続いて、家の印章を赤い封蝋へ押しつけた。
蝋が冷え、紋章が固まる。
「宣誓は成立しました」
法務官の声が告げた。
近衛兵が、セラフィーナ様の腕から手を離す。
たったそれだけの動きに、俺はようやく息を吐いた。
「今宵のうちに王都を出るがよい」
ヴィクトル殿下が言う。
「ただし、再審理の召喚には必ず応じろ。逃げれば、そなたの領地を反逆領として扱う」
「承知しました」
殿下が去ると、控えの間に残った空気が一気に冷えた。
セラフィーナ様が俺を見る。
「これで、あなたは本当に責任を負いました」
「はい」
「後悔していませんか」
俺は手のひらを開いた。まだ少し震えている。
「後悔するには、忙しすぎそうです」
彼女は驚いたように目を見開き、それからごくわずかに唇を緩めた。
その直後、廊下の向こうで複数の靴音が響いた。
法務官が顔を強張らせる。
「急いだ方がよろしい。宣誓は成立しましたが、王宮内には別の拘束命令を受けた者もいます」
俺は誓約書の写しを懐へ入れた。
「セラフィーナ様、行きましょう」
「はい、アレン様」
領地を賭けた責任は、署名した瞬間から始まっていた。




