第1話 婚約破棄の夜
王都グランセルの王宮大広間は、俺にはまぶしすぎた。
天井から下がる無数の燭台。磨き上げられた大理石。宝石をそのまま縫いつけたような衣装で笑い合う貴族たち。
そして、その中で一人だけ、明らかに去年も着ていた礼服を着ている俺。
袖口はクレアに――いや、うちの使用人に丁寧に直してもらった。ほつれはない。ないのだが、新しく見えるかどうかは別問題である。
(父上。やっぱり俺、この夜会に来る人選じゃなかったと思います)
病床の父に代わって領主代理を務める以上、王家からの招待を断るわけにはいかない。そう自分に言い聞かせ、俺は大広間の隅で、誰にもぶつからないよう小さく息をしていた。
そのとき、楽団の演奏が唐突に止まった。
「皆、聞け」
大広間の中央に立った王太子ヴィクトル殿下が、よく通る声を響かせる。
笑い声が消えた。
貴族たちが左右へ退き、その先に一人の令嬢が残された。
銀色の髪。澄んだ青い瞳。淡い青のドレスを身につけ、背筋をまっすぐに伸ばしている。
ローゼンフェルト公爵令嬢、セラフィーナ様。
王太子妃になるために育てられた、王国でもっとも有名な令嬢だ。辺境育ちの俺ですら名前を知っている。
「セラフィーナ・ローゼンフェルト。今宵、この場をもって、そなたとの婚約を破棄する」
息を呑む音が、波のように広がった。
セラフィーナ様はまばたきひとつしなかった。
ただ、彼女の周囲だけが不自然に広く空いていた。少し前まで取り巻くように挨拶していた者たちが、王太子の声を聞いた途端、関係を疑われまいと後ろへ下がったのだ。
たった数歩の距離なのに、それは深い堀のように見えた。
彼女は誰かへ助けを求めることもなく、ドレスの裾を整え、王太子へ向き直る。指先だけが、白くなるほど扇を握っていた。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか、殿下」
「まだ白を切るか」
ヴィクトル殿下が片手を上げると、法務官が数枚の書類を掲げた。
「北部から王都へ運ばれるはずだった救援穀物。その一部を横流しし、ローゼンフェルト家と親しい商人へ売却した。ここに、そなたの署名が入った輸送命令書がある」
ざわめきが大きくなる。
「その署名は偽造です」
「証拠もなしに否定するつもりか」
「輸送の経路と数量を確認させてください。私は王宮財務局へ、同時期の輸送量では北街道の荷車数が不足すると報告しております」
「報告という名の言い逃れは聞き飽きた」
ヴィクトル殿下は言葉を重ねる隙を与えなかった。
「そなたは王家の徴発へたびたび異議を唱え、地方貴族を扇動した。穀物の横流しは、その反逆の証左である。よって公爵家からも追放し、王家への反逆罪として身柄を拘束する」
あまりに話が早い。
裁判も調査もなく、婚約破棄から反逆罪まで一息で進んでいる。
それでも、誰も声を上げなかった。
相手は次代の国王だ。ここで異を唱えるというのは、自分の首だけでなく家と領地まで差し出すようなものだ。
俺だって黙っていたかった。
できれば壁の装飾と一体化して、夜会が終わるまで発見されずにいたかった。
だが、法務官が書類をこちら側へ向けた瞬間、目に入ってしまった。
輸送日。
晩冬月の十二日。
(……待て)
胸の奥がざわつく。
北街道。晩冬月十二日。穀物馬車、二十七台。
俺はその日付を忘れようがなかった。
十二日の未明、ハルフォード領の北にある峠で大規模な雪崩が起きた。街道は丸一日どころか、五日間完全に塞がれた。うちの領民と近隣の村人総出で雪を崩し、倒木を切り、ようやく荷車一台が通れる幅を確保したのは十七日の夕方だ。
俺は現場にいた。
膝まで雪に埋まり、凍った縄を引き、指先の感覚をなくしながら道を開けた。
あの日、北街道を二十七台の馬車が通ることなど不可能だった。
声を上げるべきだ。
頭ではわかっている。
なのに喉が固まって、息だけが空しく漏れた。
隣に立つ侯爵が、ちらりと俺を見た。その目は「余計なことをするな」と言っていた。たぶん正しい。ものすごく正しい。
俺には病気の父がいる。貧しい領地がある。俺の無謀で、何百人もの生活がさらに苦しくなるかもしれない。
「連行しろ」
近衛兵がセラフィーナ様へ近づいた。
彼女は逃げなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ、青い瞳が伏せられた。
その表情を見た途端、俺の足が勝手に一歩前へ出た。
「あ、あの!」
声が裏返った。
大広間中の視線が刺さる。
今すぐ柱の陰へ戻りたい。できることなら、三分前の自分を羽交い締めにしたい。
「何者だ」
ヴィクトル殿下の目が俺へ向いた。
「ハルフォード男爵家嫡男、アレン・ハルフォードです。父に代わり、領主代理を務めております」
「辺境の男爵家が、何の用だ」
膝が震えている。礼服の裾で隠れていることだけが救いだった。
「その輸送記録について、確認したいことがあります」
「確認?」
「記載されている晩冬月十二日、北街道は通行できませんでした」
大広間のざわめきが止まった。
俺は乾いた唇を舐め、続ける。
「前夜の雪崩で峠が塞がれました。ハルフォード領から人を出し、近隣の村と共同で復旧したのは十七日です。十二日に二十七台の穀物馬車が通過したという記録は、現場の状況と一致しません」
法務官の顔色が変わった。
ヴィクトル殿下は変わらない。
「雪崩の規模を誇張している可能性もある」
「復旧作業へ王都行きの定期便も加わりました。街道管理所の記録と、足止めされた商人たちの証言が残っています」
「そなたは、この女の言葉を信じるのか」
「いいえ」
セラフィーナ様が、わずかに顔を上げた。
「俺は、セラフィーナ様がどんな方なのか、ほとんど知りません」
これは本当だ。
「ですが、俺が知っている街道の事実と、この書類は矛盾しています。知らない方を罪人だと決めつける理由にはなっても、知っている事実を黙る理由にはなりません」
言い終えた途端、心臓が暴れ出した。
貴族たちが距離を取る。さっきまで俺の周囲にも人はいたはずなのに、いつの間にか見事な空白地帯ができていた。
ヴィクトル殿下が、薄く笑う。
「なるほど。辺境の男爵家は、王家の判断より自らの見聞を重んじるらしい」
「そのようなつもりでは――」
「ならば、そなたがこの女を引き受けるか」
言葉を失った。
「反逆の疑いをかけられ、公爵家からも追放される女だ。身柄を引き受けるというなら、その行動の責任も負うことになる。ハルフォード家も同罪と見なされるかもしれぬ。それでも庇うと言うのか」
罠だ。
ここで退けば、俺は「事実確認を求めただけ」と言い逃れられるかもしれない。
進めば、領地ごと王太子を敵に回す。
父の顔が浮かぶ。領民たちの顔が浮かぶ。空の穀物庫と、修繕を先送りにしている橋も浮かぶ。
俺一人の正義感で、背負っていいものではない。
だからこそ、セラフィーナ様を見た。
彼女は助けを求めていなかった。
泣きもしない。媚びもしない。俺を利用しようと手を伸ばすことさえしない。
ただ、すべてを失う場所に一人で立っていた。
見捨てたら、きっと俺は領地へ帰っても、自分の顔をまともに鏡で見られない。
怖い。
ものすごく怖い。
それでも、俺は息を吸った。
「はい。俺が辺境へ連れて帰ります」
自分の声だけが、大広間に響いた。
誰も動かなかった。
セラフィーナ様が、初めて俺を正面から見た。
澄んだ青い瞳の奥にあったのは、感謝でも安堵でもなかった。驚きと、警戒と、それから、ほんの少しの戸惑い。
当然だと思う。
俺だって、自分が何をしたのか、今になって戸惑っている。
ヴィクトル殿下の笑みが消えた。
「言葉だけで人を連れ出せると思うな。王家の拘束命令を止めるには、法に定められた保護宣誓が必要だ」
法務官が青ざめた顔で、一冊の分厚い法典を抱え直した。
「宣誓には家名と所領を担保とする署名が要ります。ハルフォード卿、本当に行われますか」
決断した直後の方が、決断する前より怖かった。
それでも俺は、撤回しなかった。
「お願いします」




