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婚約破棄された公爵令嬢を辺境へ連れ帰ったら、俺の領地が王国で一番幸せになりました!?  作者: ぱる子
第三部 王国で一番幸せな領地

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第29話 王女のお忍び

 夕暮れ前、領主館の裏口を三度叩く音がした。


 正面ではなく裏口。


 しかも、二度、間を置いて一度。


 ガレスが決めた緊急時の合図だった。


「何かあったのか」


 俺が扉を開けると、旅装の少女が立っていた。


 深い灰色の外套。帽子を目深にかぶり、顔の半分を布で隠している。


 それでも、見間違えるはずがない。


「マリアンヌ殿下」


「しっ」


 王女は人差し指を唇へ当てた。


「今の私は、王都から来た書記官の娘です」


「その設定で王女らしい話し方を続けるんですか」


「努力します」


「まず裏口で大声を出すのをやめましょう」


 彼女の後ろには、荷物を持った侍女が一人だけいる。護衛の姿は見えない。


「まさか、二人で?」


「護衛は村外れに待たせています。大人数では、お忍びになりませんから」


「少人数でも、殿下がいなくなれば王宮は大騒ぎでしょう」


「兄上には、郊外の修道院へ静養に出ると伝えてあります」


 嘘ではないのだろう。目的地が修道院ではないだけで。


 俺は頭を抱えたくなった。


「とにかく中へ。誰かに見られる前に」


 私的な応接室へ案内すると、クレアがすでに湯を用意していた。


 セラフィーナは、窓辺で立ったまま待っている。


 マリアンヌが帽子を取った。


 金色の髪がほどける。


「セラフィーナ様」


 その声を聞いた瞬間、セラフィーナの表情が揺れた。


「マリアンヌ殿下」


「お会いしたかったです」


 王女は迷わず駆け寄り、セラフィーナを抱きしめた。


 セラフィーナの腕は一瞬宙に浮き、やがて、そっと彼女の背へ回る。


「ご無事でよかった」


「殿下こそ。王宮を抜け出すなど、あまりに危険です」


「抜け出してはいません。正式に静養中です」


「行き先を偽ることを、抜け出すと言うのではありませんか」


「兄上に似て、細かいですね」


 セラフィーナが黙る。


 マリアンヌも、しまったという顔をした。


「ごめんなさい」


「いいえ」


「私は兄上とは違います」


 王女は急いで付け加える。


「少なくとも、違いたいと思っています」


 応接室の空気が静かになった。


 俺は二人のために席を空ける。


 クレアが紅茶を注ぐと、マリアンヌは両手で杯を包んだ。


「王都では、セラフィーナ様が反逆者を集め、辺境で私兵を増やしているという噂まで出ています」


「私兵?」


 俺とセラフィーナが同時に聞き返した。


「水路工事に参加した農民が、軍事訓練を受けていることになっています」


「土嚢を積む訓練ならしました」


「それです」


「洪水対策です」


「王都では、土嚢も反乱の準備になるそうです」


 ひどい話だ。


 マリアンヌは外套の内側から小さな書類束を取り出した。


「正式な命令ではありません。ただ、王宮内で回っている報告書の写しです」


 セラフィーナが目を通す。


 顔つきが、公爵令嬢ではなく政務官のものへ変わった。


「報告の出所が曖昧です」


「はい。兄上の側近たちが、地方官から都合のよい話だけを集めています」


「殿下は、これを持ち出して大丈夫なのですか」


「大丈夫ではありません」


「では、なぜ」


「知らずにいる方が危険だからです」


 マリアンヌはまっすぐセラフィーナを見る。


「兄上は、あなたが幸せに暮らしていることを許せないのだと思います」


 セラフィーナの指が止まる。


「政治的脅威だからでは?」


「それもあります。でも、それだけではありません。兄上は、自分が間違っていた証拠を嫌います」


 俺は口を挟まず、聞いた。


「あなたが追放された後、誰も王宮で兄上へ逆らわなくなりました。会議は早く終わります。けれど、決定は以前より悪くなりました」


「陛下は?」


「ご病気を理由に政務へ出る日が減っています」


 セラフィーナは報告書を机へ並べ、項目ごとに印をつけた。


「これは穀物の横流し。こちらは私兵の増強。どれも、実際の出来事を少しずつ歪めています」


「全部が嘘ではないから、否定しにくいのです」


 マリアンヌが言う。


「学校へ通う若者が、守備隊から災害時の合図を教わった。それが軍事教練と書かれました」


「洪水の時、避難誘導に必要だからです」


「わかっています。でも王都では、現場を見た者がほとんどいません」


 俺は書類の端を指した。


「この署名、同じ筆跡に見えます」


 セラフィーナも目を細める。


「複数の地方官の報告を、一人が清書しています。内容を統一した可能性がありますね」


「持ち帰って調べます」


 マリアンヌが答えた。


「危険では?」


「危険でも、誰かが確かめなければ」


 彼女は王女らしく胸を張ったが、その手は杯を強く握っていた。


「殿下も、怖いのですね」


 セラフィーナが静かに言う。


「……はい」


「では、無理をなさらず、必ず味方を増やしてください。一人で正しさを背負う必要はありません」


 それは、ここで彼女自身が学んだ言葉だった。


 マリアンヌは少し驚き、やがてうなずいた。


 深刻な話だった。


 だがマリアンヌは、書類を渡し終えると急に表情を変えた。


「ところで、こちらの領地は本当にパンが安くなったのですか」


「なりました」


「学校も?」


「開校しました」


「セラフィーナ様が泥の長靴を履いたという話も本当ですか」


「どこでそれを」


「商人たちの噂です」


 セラフィーナが俺を見る。


「アレン」


「俺ではありません」


「ガレスでしょうか」


「たぶんアニエスです」


 クレアが静かに目を伏せた。


 知っている顔だ。


「クレア」


「申し訳ございません。微笑ましいお話でしたので、アニエス様へ少々」


「少々が王都まで届いております」


 マリアンヌが楽しそうに笑う。


「でも、安心しました。セラフィーナ様がこんな顔をなさるのを、久しぶりに見ました」


「どのような顔ですか」


「困っているのに、うれしそうな顔です」


 セラフィーナは反論しようとして、やめた。


 その横顔は、たしかに少し笑っていた。


 夕食は、身分を隠すため、家族用の小さな食堂で取ることになった。


「私は書記官の娘ですから、特別扱いは不要です」


 マリアンヌが言う。


「では、蕪の葉の煮込みを」


「それは少し特別扱いを希望します」


「王女でも苦手なものはあるんですね」


「書記官の娘です」


 食卓へ着く頃には、王宮の緊張は少し薄れていた。


 ただ、彼女の持ってきた書類は、執務室の机に残っている。


 王都は、こちらを見始めている。


 けれど、今夜くらいは再会を喜んでもいいだろう。


 セラフィーナが笑う隣で、マリアンヌも笑っていた。

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