第25話 パンが一枚増えました
水車が直って三日後、パン屋の前に長い列ができた。
「何か問題が?」
俺が尋ねると、店主は笑った。
「逆ですよ、若旦那様。今日から値を下げたんです」
店先の板には、新しい値段が書かれている。
小さな黒パンが、昨日より銅貨一枚安い。
「一枚あたりは小さな差ですが、毎日買う家には大きいです」
セラフィーナが値札を見る。
「粉を挽く費用が下がった分を、きちんと価格へ反映したのですね」
「麦を遠くまで運ばなくてよくなりましたから。荷車代も、途中で取られる通行料もいらない」
店主は焼き上がったパンを棚へ並べた。
香ばしい匂いが通りへ広がる。
「ただ、安くしたら余計に人が来て、朝から休む暇がありません」
「うれしい悲鳴ですね」
「腕が痛い悲鳴でもあります」
列の中に、以前水門の相談をした農家の母子がいた。
母親はパンを三つ買う。
いつもなら二つだった。
「今日は多いですね」
俺が声をかけると、母親は少し照れた。
「同じ銅貨で、もう一つ買えたんです」
子どもが袋をのぞく。
「これ、僕の?」
「家族で分けるのよ」
「でも、昨日より一枚多い」
その言い方が妙にうれしそうだった。
改革の成果を帳簿で見れば、製粉費が何割下がった、輸送時間が何刻減ったと書ける。
けれど目の前にあるのは、子どもの手に増えたパン一枚だ。
「食べるところを見せてもらっても?」
セラフィーナが尋ねた。
母親は驚いたが、笑って家へ招いてくれた。
小さな家の食卓には、豆のスープと、薄く切ったパンが並ぶ。
母親は三つ目のパンを慎重に切った。
子どもへ一切れ。
夫へ一切れ。
自分の皿にも一切れ。
「お母さんも食べるの?」
子どもが聞く。
「今日はね」
その一言で、セラフィーナの表情が変わった。
これまで母親は、自分の分を子どもへ回していたのだろう。
誰も説明しない。
それでも、空だった母親の皿へ置かれたパンが、すべてを示していた。
「おいしい?」
「うん。昨日と同じ味」
「同じ味なのですか」
セラフィーナが思わず尋ねる。
子どもは当然のように答えた。
「でも、多い方がうれしいよ」
俺は笑った。
「味まで急に良くなるわけではないですからね」
「理解しています。ただ……」
セラフィーナは母親の皿を見る。
「同じパンが一枚増えることが、これほど大きいとは思いませんでした」
母親が首を振る。
「若旦那様たちが水車を直してくださったおかげです」
「直したのは皆です」
俺が答える。
「税を労働で納めた人も、木材を出した家も、職人も」
「それを決めたのは、お二人でしょう」
セラフィーナは、少し困ったように俺を見る。
褒められることに、まだ慣れていない。
「では、半分だけ受け取りましょう」
俺が言う。
「残り半分は、働いた皆へ」
「功績をパンのように分けるのですか」
「人数分に切ればいい」
「足りなくなります」
「その時は、また増やしましょう」
子どもが笑った。
母親は、自分の皿のパンを半分だけ残した。
「お腹がいっぱいですか」
セラフィーナが尋ねる。
「いえ。夕方まで取っておくんです」
「昼の分を?」
「畑仕事の休憩に食べます。前は朝で全部なくなっていましたから」
増えた一枚は、一食を豪華にしたのではない。
一日の空腹を、少し短くしたのだ。
父親が壁際の小袋を指した。
「水車が直って、粉挽きへ出す麦も増やせました。今月は、種麦を食べずに済みそうです」
セラフィーナはほっとしたように息をつく。
「それが何よりです」
「でも、若旦那様」
父親が俺を見る。
「値段が下がったからって、全部の家が楽になるわけじゃない。麦を買えない家もあります」
「わかっています」
「学校へ通う孤児たちにも、昼のパンがあればいいんですが」
次の課題だ。
成功を喜んだ直後にも、足りないものは見える。
「余った粉を学校へ回す仕組みを考えます」
セラフィーナが言う。
「施しではなく、掃除や薪割りを手伝った家へ適正な代金を払い、その一部を食事へ」
「子どもに働かせすぎないようにしましょう」
「ええ。大人の仕事として組みます」
俺たちは母親の皿に増えたパンを見ながら、次に増やす一枚のことを考えた。
食後、俺たちは市場へ戻った。
パン屋の列は、まだ続いている。
クレアが裁縫室の女性たちと一緒にパンを買っていた。
「皆さんの昼食でございます」
「工房の分ですか」
「はい。昨日までは一人半分ずつでしたが、本日は一枚ずつ」
女性たちが袋を抱え、うれしそうに話している。
家へ持ち帰る人もいるらしい。
「アレン」
セラフィーナが小声で呼ぶ。
「はい」
「空の穀物庫を見た時、私は大きな制度を考えました」
「必要でした」
「ですが、今日うれしいのは、制度が成立したことではありません」
列の先で、子どもが焼きたてのパンを受け取る。
「パンが一枚増えたことです」
「俺もです」
彼女は笑った。
市場の端では、パンを買えずに列を見ている老人がいた。
「今日はお買いにならないのですか」
セラフィーナが声をかける。
「銅貨一枚安くても、銅貨がなけりゃ同じさ」
老人は笑ってみせた。
俺たちは、値下げだけでは届かない家があることを改めて知る。
パン屋の店主が会話を聞き、昨日売れ残った固いパンを持ってきた。
「スープに入れれば食べられます。捨てるくらいなら」
老人は受け取るのをためらう。
「代わりに、裏の薪を割ってもらえますか」
「それならできる」
施しではなく、できる仕事との交換になった。
セラフィーナはその様子を見て、手帳へ書く。
「売れ残りと小さな仕事を結ぶ仕組みを、市場全体へ広げられます」
「管理しすぎると、店主の善意が面倒になります」
「では規則ではなく、掲示板を一枚置きます。必要な仕事と余った品を、自由に書けるように」
掲示板の最初の欄には、パン屋が「薪割り」と書いた。
その下へ、裁縫室が「糸巻き」、学校が「机の修理」と続く。
「読めない人はどうします?」
「印を添えましょう」
パンには丸、糸には糸巻き、机には四角い脚。
子どもたちが絵を描く役を引き受け、掲示板はすぐに賑やかになった。
また一つ、パン一枚から仕事が生まれた。
その日の夕食、領主館の食卓にも黒パンが一枚多く置かれた。
「なぜ増えているのですか」
父が尋ねる。
「記念です」
俺が答える。
「何の?」
「パンが増えた記念です」
ガレスが呆れた。
「毎回増えるたびに祝うのか」
「増えるなら、毎回祝えばいいでしょう」
セラフィーナが真面目に答えた。
皆で一枚を切り分ける。
父は増えた一切れを半分にし、厨房で働く使用人へ回した。
「増えた分は、また誰かへ渡せるんだね」
今日のパンも、味は昨日と同じだった。
それでも、確かに少しだけ豊かだった。




