第21話 空っぽの穀物庫
穀物庫の扉を開けると、麦の匂いより先に、乾いた木の匂いがした。
中には袋が十二。
去年の秋には、壁際まで積み上がっていた場所だ。
「これで、どのくらい持ちますか」
セラフィーナが尋ねた。
「領主館だけなら二月。領内の備蓄として考えるなら、ほとんど空です」
「収穫まで?」
「早くても三月半。雨が続けば、もっと遅れます」
彼女は黙って袋の数を数えた。
俺は床板の隅へ落ちた麦粒を拾う。
空の穀物庫は、帳簿より正直だった。
数字なら書き方を変えられる。
だが、ここには食べられるものがない。
「去年の不作だけが原因ではありませんね」
「王都への徴税と、街道修理です。現金が足りず、備蓄を売りました」
「税を納めるために、食糧を売ったのですか」
「期限を守らなければ、さらに加算されますから」
セラフィーナの眉が寄る。
「領民の家には?」
「余裕のある家は少ないです。春の種麦へ手をつけた家もあります」
「種を食べれば、次の収穫が減る」
「わかっています」
「わかっていて、止められなかった」
「はい」
情けない返事だった。
領主代理なら、領民を食べさせるべきだ。
それなのに俺は、毎年どの袋を売り、どの村の修理を後回しにするかを選んできた。
「父上は私財をほとんど出しました。使用人の数も減らした。でも、それで冬を一度越しただけです」
セラフィーナは俺を責めなかった。
床へ膝をつき、袋の口を開く。
麦の質を確かめ、指先で粒を転がした。
「これは食用ですか、種用ですか」
「半分は種用です」
「混在させてはいけません。空腹になれば、区別が曖昧になります」
「置く場所がなくて」
「あります」
彼女は空の棚を指した。
「右を種用、左を食用に分けます。袋の色も変えましょう。文字を読めない方にもわかるよう、種用には穂の印を」
すぐに次の問いが来る。
「領内で、今すぐ換金できるものは?」
「木材、羊毛、干し果物。ただ、どれも値を叩かれます」
「個別に売るからです。量をまとめれば交渉できます」
「運ぶ馬車が足りない」
「帰りの荷が空になる商人を探します」
「代金の支払いが」
「現金でなく、輸送した品の一部を渡す契約も可能です」
答えが速い。
俺が何年も抱えていた問題を、彼女は次々と分けていく。
それでも、万能の解決には見えなかった。
「セラフィーナ」
「はい」
「帳簿を見れば、もっとひどいです」
「見せてください」
「客人へ頼むことでは」
「私は、まだ客人ですか」
言葉に詰まった。
セラフィーナは立ち上がり、空の穀物庫を見回した。
「私は、この家で食事をいただいています。領民の方々から誕生日を祝っていただきました。帰れば、皆さんが迎えてくださる」
青い瞳が、まっすぐ俺を見る。
「ここが困っている時だけ、客人へ戻るつもりはありません」
「ですが、これはハルフォード家の責任です」
「ならば、私へ役割をください」
彼女は少しだけ息を整えた。
「財政と契約を見ます。アレンは現場と領民の事情を教えてください。私一人では、数字の意味を取り違えます」
「俺一人では、数字そのものを見落とします」
「では、ちょうどよいでしょう」
ほんの少し笑う。
俺は空の棚を見た。
食糧は増えていない。
問題も消えていない。
それでも、さっきまでとは違って見える。
「お願いします、セラフィーナ」
「はい、アレン」
執務室へ戻ると、机いっぱいに帳簿を広げた。
クレアが紅茶を置き、父も寝室から古い記録を届けさせる。
ガレスは守備隊の備蓄一覧を持ってきた。
「軍の分まで削る気か」
「違います。まず、隠れている余りを探します」
セラフィーナが答える。
「余りなんてないぞ」
「重複はあります。村ごと、守備隊、領主館が別々に管理しているため、必要量を多めに見積もっています」
ガレスが俺を見る。
「本当か」
「たぶん。俺も全部を並べたことはない」
「領主代理」
「反省しています」
セラフィーナは帳簿へ印をつける。
「税の徴収方法も見直します。ただし、いきなり変えてはいけません。まず、誰が何を恐れているか確認します」
「意外ですね」
「何がですか」
「もっと一気に変えると言うかと」
「空の穀物庫を見ました」
彼女は紙から顔を上げる。
「正しさだけでは、袋は満ちません。必要なのは、食べられる麦です」
帳簿を並べていくと、別の問題も見えた。
「同じ村から、街道修理費と橋の通行料が二重に記録されています」
セラフィーナが指で二つの行を示す。
「通行料は橋を管理する隣領へ払った分です」
「ですが、街道修理費の中にも橋の補修名目が含まれています」
「……本当だ」
俺は古い領主印を確かめた。
不正というより、誰も全体を見ていなかったせいだ。村は村、守備隊は守備隊、領主館は領主館で払っていた。
「返還を求めますか」
「隣領も資金がない。すぐには無理でしょう」
「では、次回の共同購入から相殺します」
セラフィーナは迷わず書き込む。
「敵を作りませんか」
「交渉は敵を作るためではありません。相手にも重複を示し、双方が納得する形へ変えます」
父が寝台から届かせた古い覚書には、似たような見落としがいくつもあった。
俺は頭を抱える。
「何年分あるんだ、これ」
「少なくとも五年です」
「見なかったことには」
「できません」
「ですよね」
クレアが新しい茶を置いた。
「夕食のお時間ですが」
セラフィーナは時計を見て、初めて驚いた顔をした。
「もう、その時間ですか」
「空腹ではありませんか」
「……言われてみれば」
彼女が仕事へ入ると食事を忘れることを、俺はすでに知っている。
「続きは食後です」
「あと一頁だけ」
「病人を休ませた時の言葉をお返しします。仕事は逃げません」
セラフィーナは不満そうにしたが、帳簿を閉じた。
食堂へ向かう途中、セラフィーナはもう一度穀物庫を振り返った。
「明日の朝、袋へ印をつけましょう」
「仕事を増やしていませんか」
「食後に増やすのではなく、明日に回しました」
「成長ですね」
「アレンに評価されるのは複雑です」
そう言いながらも、彼女の足取りは少し軽かった。
空の穀物庫を満たす前に、俺たちが倒れては意味がない。
夜までに、最初の案ができた。
商人へまとめて売る品。
種麦を守る印。
守備隊と村の備蓄を共有する仕組み。
そして、税を金だけでなく、作物や労働でも納められるようにする案。
「これなら、春を越せますか」
セラフィーナが尋ねる。
「越せる可能性は上がります」
「可能性だけ?」
「雨と収穫は、俺たちの命令を聞きません」
「では、聞くものから変えましょう」
彼女は新しい紙を取った。
空だった穀物庫は、まだ空のままだ。
けれど明日から、そこへ戻すための仕事が始まる。




