第20話 ただいま
セラフィーナの帰りが遅い。
予定では、日が傾く前に近隣領から戻るはずだった。
交渉の内容は、春の洪水に備えた木材の共同購入と、街道補修の費用分担。危険な話ではない。
同行している護衛もいる。
それでも俺は、領主館の門前を三度目に往復していた。
「道は眺めても短くならんぞ」
門柱へ寄りかかったガレスが言う。
「眺めているわけじゃない。西の雲を見ている」
「さっきは車輪の跡を見ていたな」
「路面の状態を」
「その前は?」
「風向きだ」
「便利だな、領主代理の仕事は」
俺は返事をせず、街道の先を見る。
空は晴れている。
風も弱い。
遅れる理由を、頭の中でいくつも並べた。
交渉が長引いた。
馬車の車輪が壊れた。
途中の村で相談を受けた。
どれもあり得る。
だから心配する必要はない。
「アレン」
背後からクレアが呼ぶ。
「夕食の準備が整いました」
「先に始めてください」
「セラフィーナ様がお戻りになるまで、お待ちします」
「冷めますよ」
「温め直します」
クレアも門の外へ目を向けた。
手には、セラフィーナが使う薄い外套を持っている。夕方は冷えるから、戻ったらすぐ渡すつもりらしい。
領主館の玄関には、父の椅子まで運ばれていた。
「父上、部屋で待っていてください」
「部屋からでは、帰ってくる姿が見えないからね」
「体が冷えます」
「毛布を三枚も掛けられている。これ以上は冬支度だよ」
父は笑う。
使用人たちも、仕事をしながら何度も門を見た。
厨房の女性は鍋の火を弱めたり強めたりしている。
庭師は同じ植木の枝を、さっきから何度も切ろうとしてやめていた。
「皆、仕事へ戻ってください」
俺が言うと、誰も動かなかった。
「若旦那様も戻られては」
庭師に返される。
正論だった。
しばらくすると、市場の方から子どもたちが来た。
「セラフィーナ様、まだ帰らないの?」
「もうすぐだ」
「今日、木材のお話をしに行ったんでしょ?」
「そうだ」
「じゃあ、帰ったら学校の机も作れる?」
「それは交渉の結果次第だな」
子どもたちは門のそばへ座り込んだ。
「ここで待つ」
「家へ帰らなくていいのか」
「お母さんに、暗くなる前に帰れって言われた」
「なら帰れ」
「セラフィーナ様が帰ったら帰る」
「順番が逆だ」
その母親たちまで、少し遅れてやって来た。
「すみません、若旦那様。子どもが勝手に」
「連れて帰ってください」
「ええ。でも、私たちも少しだけ」
結局、門前の人数が増えた。
誰かが待つよう命じたわけではない。
帰りが遅い人を、自然に気にしている。
セラフィーナがこの領地へ来てから、それほど長い時間は経っていない。
それでも彼女は、もう皆の予定の中にいる。
朝、食卓へ現れる人。
市場で価格を尋ねる人。
畑で泥だらけになる人。
誰かの相談を、最後まで聞く人。
帰ってこなければ、いつもの場所が一つ空く人。
日が山の向こうへ近づいた。
空の色が金色から薄い紫へ変わっていく。
「迎えを出す」
俺はついに言った。
ガレスが腕を組む。
「あと半刻待て。今から出せば、すれ違う可能性が高い」
「別の道を確認させればいい」
「護衛から異常を知らせる早馬は来ていない」
「それでも」
「心配なのはわかる」
「実務上の判断だ」
「はいはい」
ガレスの言い方が気に入らない。
だが、馬を出す準備だけはさせようとした、その時だった。
「来た!」
子どもが叫んだ。
街道の先に、小さな影が見える。
馬車だ。
夕日の中を、ゆっくりこちらへ進んでくる。
俺は門の外へ一歩出た。
ガレスが隣へ並ぶ。
「車軸は無事そうだな」
「馬も問題ない」
「交渉が長引いただけか」
「たぶん」
近づくにつれ、御者と護衛の姿が見える。
誰も負傷していない。
胸の奥に入っていた力が、ようやく抜けた。
馬車が門前で止まる。
扉が開く。
セラフィーナが降りてきた。
旅装の裾には土がつき、銀色の髪も少し乱れている。
だが、無事だ。
「遅くなり、申し訳ありません」
彼女は地面へ降りるなり、報告を始めようとした。
「先方が木材価格の再計算を求め、帰路では街道脇の橋に――」
そこで言葉が止まる。
門の前に並ぶ人々へ気づいたのだ。
父。
クレア。
ガレス。
使用人。
領民。
子どもたち。
そして俺。
セラフィーナは、馬車から離れたところで足を止めた。
「皆さん、なぜこちらに?」
「遅かったからです」
俺は答えた。
「ですが、帰還予定から一刻も過ぎておりません」
「一刻も遅いです」
「事故の報告は届いていなかったはずです」
「届いていません」
「では、待つ必要は」
「ありました」
自分でも、少し強い声になった。
セラフィーナが目を見開く。
俺は彼女の前まで歩いた。
交渉の結果を聞くべきだ。
橋で何があったか確認すべきだ。
護衛から報告を受け、馬の状態を見て、明日の予定を組み直す。
領主代理として、やることはいくらでもある。
けれど、最初に出た言葉は別だった。
「おかえりなさい、セラフィーナ」
彼女の表情が止まった。
風が、外套の裾を揺らす。
青い瞳が、門の灯りと待っていた人々を映している。
唇がわずかに震えた。
「ただいま、アレン」
その声を聞いた途端、後ろから一斉に安堵の息が漏れた。
「おかえりなさいませ、セラフィーナ様」
クレアが外套を掛ける。
父が椅子から手を上げる。
「おかえり、セラフィーナさん」
「お帰りなさい!」
子どもたちの声が重なる。
セラフィーナは一人ずつを見る。
目元へ涙が浮かんだ。
「申し訳ありません。皆さんを心配させるつもりは」
「謝らなくていいです」
俺は言った。
「遅くなることはあります。待つのは、こちらが勝手にしたことですから」
「勝手に?」
「帰ってくる人を待つのに、許可はいらないでしょう」
セラフィーナは顔を伏せた。
一筋だけ、涙が頬を伝う。
クレアは何も言わず、外套の襟を整えた。
「交渉は、うまくいきました」
セラフィーナが涙を拭いながら言う。
「木材は共同購入することで合意しました。価格も想定内です。橋は荷車が一台、泥へ車輪を取られており、通行を手伝ったため遅れました」
「怪我人は?」
「おりません」
「セラフィーナは?」
「私も問題ありません」
「では、続きは食事の後に聞きます」
「今、報告できます」
「温かい物を食べてからです」
「ですが」
「皆、夕食を待っています」
彼女が玄関を見る。
窓には灯りがともり、厨房から湯気が上がっている。
いつもの食卓が、彼女の帰りを待っていた。
「……はい」
小さくうなずく。
子どもたちは母親に連れられ、市場の方へ帰っていく。
領民たちも、それぞれの家へ戻る。
父の椅子を使用人が押し、ガレスは護衛から報告を受け始めた。
俺たちも屋敷へ向かう。
玄関の前で、セラフィーナがまた足を止めた。
「どうしました?」
「先ほどの言葉を、もう一度お願いしてもよろしいでしょうか」
「先ほどの?」
「……いいえ。何でもありません」
彼女は歩き出そうとする。
俺は少し考え、ようやくわかった。
「おかえりなさい、セラフィーナ」
彼女が振り返った。
今度は、涙ではなく笑顔だった。
「ただいま、アレン」
二人で灯りの中へ入る。
食堂では、彼女の皿だけが空席の前で待っていた。
セラフィーナはそこへ座り、クレアから温かなスープを受け取る。
父が交渉の結果を尋ね、ガレスが橋の場所を確認し、俺は明日の予定を書き直す。
クレアがスープをよそいながら尋ねる。
「お味は薄くございませんか」
「ちょうどよいです」
「お疲れでしたら、今夜の記録は私が」
「いいえ。食後に簡単な報告だけ済ませます」
俺が口を挟む。
「簡単な、ですよ」
「承知しています」
「一刻を超えたら書類を取り上げます」
「それは領主代理の権限ですか」
「帰りを待っていた者の権限です」
セラフィーナは少し笑い、素直にうなずいた。
いつもの話が始まる。
特別な儀式はない。
ただ帰ってきた人が、いつもの席へ戻る。
それだけで、屋敷はようやく一日の終わりを迎えた。




