第19話 生まれてきてくれて
その朝、セラフィーナはいつも通り執務室へ来た。
「本日は、水門工事の費用配分を確認します」
「はい」
「午後は市場の価格記録を」
「そうですね」
「夕方には、学校予定地の確認を」
「今日は早めに戻りましょう」
セラフィーナが怪訝そうに俺を見る。
「なぜですか」
「父上の体調を見たいので」
「今朝は安定していると伺いました」
「夕方に変わるかもしれません」
「それは、どなたにも起こり得ます」
鋭い。
俺は机の書類へ視線を落とした。
今日はセラフィーナの誕生日だ。
クレアが王都から持ってきた古い記録の中で見つけ、数日前に教えてくれた。
本人へ尋ねると、予定表を確認するような顔で日付だけ答えた。
祝いの予定はない。
誕生日とは、王太子妃としての公式行事や、公爵家同士の贈答を処理する日だったらしい。
だから俺たちは、内緒で準備を進めていた。
「アレン」
「はい」
「先ほどから、私を見ては書類へ目を戻しています」
「気のせいです」
「クレアも朝から落ち着きません。ガレスは私を見ると倉庫へ逃げました。アニエスは荷馬車の積み荷を見せてくれません」
「皆、忙しいんでしょう」
「私へ隠していることがありますね」
「ありません」
「目を見て答えてください」
見られない。
「本日の執務は、ここまでにしましょう」
「まだ午前です」
「体調が」
「アレンの熱は下がっています」
「父上の」
「安定しています」
「空模様が」
「快晴です」
逃げ道をすべて塞がれた。
どうにか昼まで仕事を続けたが、セラフィーナは完全に警戒していた。
昼食後、クレアが食堂へ呼びに来る。
「セラフィーナ様、少々よろしいでしょうか」
「何があるのです」
「お越しいただければわかります」
「皆さん、今日はその答え方ばかりです」
食堂の扉の前で、彼女は一度立ち止まった。
俺たちは先に中へ入る。
卓の中央には、形の崩れたケーキが置かれていた。
クレアと料理人が焼き、俺とガレスが飾りつけをした。
途中までは丸かった。
ガレスが蜂蜜を一度に流し込み、俺が支えようとして片側を潰した。
結果、少し傾いた丘のようになった。
その周囲には、小さな包みが並んでいる。
「どうぞ」
クレアが扉を開けた。
セラフィーナが入ってくる。
室内には父、ガレス、アニエス、クレア、使用人たち。それから、贈り物を届けに来た領民が数人いた。
「お誕生日、おめでとうございます」
皆の声が重なる。
セラフィーナは動かなかった。
最初にケーキを見る。
次に人々を見る。
最後に俺を見る。
「今日は、私の誕生日です」
「知っています」
「なぜ、皆さんが?」
「誕生日だからです」
「それは理由になっていません」
彼女は困惑していた。
王太子からの婚約祝いを受けた時より、王宮で告発された時より、どうすればよいかわからない顔をしている。
「まず、座りましょう」
俺が椅子を引く。
「ですが、これはどのような功績への?」
「功績は関係ありません」
「公爵家との関係も、政治的な意味もないのですか」
「ありません」
「では、なぜ」
父が穏やかに笑った。
「君が生まれた日だからだよ」
セラフィーナは椅子へ座った。
最初の贈り物は、クレアからだった。
白い布へ、小さな青い花が刺繍されている。
「ハンカチでございます。セラフィーナ様がお好きな色を選びました」
「私のために?」
「はい」
次はアニエス。
丈夫な革張りの帳面だった。
「市場価格を書いても、十年は壊れないわ。仕事用だけど、表紙の色は私が選んだの」
「ありがとうございます」
ガレスからは、小さな護身用の笛。
「吹けば守備隊が来る。飾りじゃないから持ち歩け」
「誕生日の贈り物としては、ずいぶん実用的ですね」
「アレンに選ばせるよりは役に立つ」
「俺も贈りますよ」
領民からは、蜂蜜の小瓶、木で作ったしおり、乾燥させた花、手編みの手袋。
どれも高価ではない。
それぞれに、短い言葉が添えられていた。
水路の相談へ乗ってくれたから。
子どもの話を聞いてくれたから。
市場で名前を覚えてくれたから。
セラフィーナは一つずつ、両手で受け取った。
「これほどの品をいただく理由がありません」
ついに、そう言った。
「水門はまだ完成していません。市場の価格も安定していない。私は皆さんへ、十分なお返しを」
「返さなくていいんです」
俺は口を挟んだ。
「ですが」
「今日は仕事の成果を評価する日ではありません」
「では、私は何をすれば」
「何もしなくていいです」
彼女の表情が強張る。
「何もしない者に、価値はありません」
静かな声だった。
食堂の空気が止まる。
セラフィーナは自分が何を言ったのか気づき、すぐに言い直そうとした。
「少なくとも、私は」
「セラフィーナ」
呼ぶと、彼女がこちらを見る。
「誕生日は、役に立ったことへの報酬ではありません」
「ですが、私は何も」
「あなたが生まれてきてくれたから、俺はあなたに会えました」
言葉にした瞬間、食堂が静かになった。
口説くつもりはなかった。
ただ、それが一番わかりやすい理由だと思った。
彼女が生まれていなければ、王都の大広間で出会うこともなかった。
名前を呼び合うことも、泥の畑で笑うことも、この食卓を囲むこともなかった。
「それだけで、俺には祝う理由があります」
セラフィーナの唇が震えた。
何か答えようとして、声が出ない。
青い瞳へ涙がたまる。
彼女は慌てて顔を伏せた。
「申し訳ありません」
「なぜ謝るんです」
「皆さんの前で、このような」
クレアがそっと隣へ座る。
「泣いてよろしいのです」
「ですが、困らせます」
「困りません」
父が言った。
「この家では、うれしい時にも泣いていい」
セラフィーナの頬を涙が伝った。
彼女は刺繍のハンカチを胸元へ握る。
「生まれてきたことを祝われたのは、初めてです」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
クレアが背中を撫でる。
アニエスは目元を指で拭いながら、ケーキの方を向いた。
ガレスは窓の外を見ている。
父だけが、穏やかに笑っていた。
「では、最初の誕生日だね」
父は使用人へ合図し、木箱を運ばせた。
中には、七人分の食器が入っていた。
高級な物ではない。
白い陶器へ、青い線が一本ずつ描かれている。
「家族用の食器だ。今までは人数が少なくて、揃える必要もなかった」
「家族……」
「君の分もある」
父は一枚の皿を差し出した。
「ここで食べる時は、これを使いなさい」
セラフィーナは皿を受け取った。
また涙が落ちる。
「ありがとうございます」
今度は謝らなかった。
ケーキを切ることになった。
俺が刃を入れると、傾いていた部分がさらに崩れた。
「あっ」
「だから俺に任せろと言っただろう」
ガレスが言う。
「飾りつけを壊した人に言われたくない」
「蜂蜜は多い方がうまい」
「多すぎて滑ったんです」
アニエスが笑い、クレアも肩を震わせる。
セラフィーナは涙を拭いながら、崩れたケーキを見た。
「とても、美しいケーキですね」
「無理に褒めなくていいです」
「形のことではありません」
彼女は家族用の皿を差し出す。
「皆さんで作ってくださったのでしょう」
「はい」
「なら、私には一番きれいに見えます」
俺は一番崩れていない部分を彼女の皿へ載せた。
皆で食卓を囲む。
ケーキは少し固く、蜂蜜は一か所へ偏っていた。
それでもセラフィーナは、ゆっくり味わって食べた。
「おいしいです」
「本当に?」
「はい。来年は、私も作ります」
「誕生日の人が作るんですか」
「改善点を確認しましたので」
いつもの彼女らしい言葉だった。
ただ、その手には新しいハンカチがあり、目の前には家族の皿がある。
泣いたあとの顔で笑う彼女を見て、俺は思った。
来年も皆で祝えばいい。
その次も。
役に立った日ではなく、ただ彼女が生まれた日を。




