第18話 家へ帰るのが楽しみなんです
夜中に目を覚ますと、部屋は暗かった。
暖炉の火だけが、赤く残っている。
額の熱はまだ引いていない。
喉が渇き、手を伸ばした。
「起きましたか」
すぐそばから声がした。
セラフィーナが椅子へ座っている。
膝の上には閉じた書類。机の蝋燭は消えかけていた。
「まだ、いたんですか」
「熱が下がるまでいると申し上げました」
「夜中ですよ」
「承知しています」
「眠ってください」
「アレンが水差しを倒さないことを確認してからにします」
俺の手は水差しから少し離れた場所を探っていた。
反論できない。
彼女が水を注ぎ、支えてくれる。
「ありがとうございます」
「無理に話さなくて結構です」
「話していないと、また寝そうで」
「寝てください」
「セラフィーナは?」
「ここにいます」
短い言葉だった。
その一言で、力が抜けた。
「最近、外へ出る仕事が多かったでしょう」
自分でも何を話しているのかわからない。
「朝に畑へ行って、昼に倉庫を見て、夕方に村を回って」
「はい」
「前は、帰っても帳簿と父上の薬しか待っていなかったんです」
「お父様が聞けば、寂しがられます」
「父上は待つより先に寝ます」
セラフィーナが小さく笑う。
俺はその声を聞きながら、目を閉じた。
「今は、灯りがついていて」
「ええ」
「食卓に人が増えて」
「はい」
「あなたが来てから、家へ帰るのが楽しみなんです」
言葉が口から落ちた。
答えは、すぐには返ってこなかった。
しばらくして、手の甲へ何か温かいものが触れる。
「……そうですか」
セラフィーナの声が、ひどく小さい。
「私も」
続きは聞こえなかった。
そのまま眠りへ落ちた。
翌朝、目を覚ますと熱は少し下がっていた。
窓から入る光がまぶしい。
セラフィーナは椅子へ座ったまま眠っている。
銀色の髪が肩から流れ、頬へ一筋かかっていた。
普段の彼女なら、人前でこんな無防備な姿は見せない。
起こさないよう身を起こす。
寝台がきしんだ。
彼女の目が開く。
「アレン」
「おはようございます」
「起きてはいけません」
「熱は下がりました」
セラフィーナはすぐに額へ手を当てた。
「まだあります」
「昨日よりは」
「病人は、少し良くなるとすぐ働こうとするのですね」
「一般化しないでください」
「アレンを観察した結果です」
クレアが朝食を運んでくる。
「お加減はいかがですか」
「ずいぶん良くなりました」
「セラフィーナ様は?」
「問題ありません」
「椅子でお休みになった方の言葉とは思えません」
クレアはため息をつき、二人分の朝食を並べた。
「昨夜は、よくお話しになっていましたね」
「俺が?」
「はい。寝ぼけていらっしゃいましたが」
嫌な予感がする。
「何か変なことを言いましたか」
クレアはセラフィーナを見る。
セラフィーナはパンを切る手を止めた。
「覚えていないのですか」
「水をもらったところまでは」
「その後は?」
「すぐ眠ったと思います」
「そうですか」
声が少し冷たい。
「何を言ったんでしょう」
「何も」
「クレアさん?」
「私から申し上げることではございません」
「かなり気になります」
「思い出せないのであれば、仕方ありません」
セラフィーナは薄く切ったパンを、必要以上に丁寧に皿へ置いた。
怒っている。
理由がわからない。
「謝った方がいい内容ですか」
「いいえ」
「では、困らせました?」
「……いいえ」
「うれしい内容でした?」
彼女の手が止まる。
「なぜ、その選択肢が出るのですか」
「怒っているように見えるのに、嫌そうではないので」
セラフィーナは俺を見た。
青い瞳が揺れる。
「アレンは、時々、ひどく無防備です」
「病人ですから」
「そういう意味ではありません」
わからない。
クレアは紅茶を注ぎながら、口元を隠している。
「ヒントだけでも」
「家についてのお話でした」
「屋根の修理?」
「違います」
「家具?」
「違います」
「食料庫?」
「もう結構です」
完全に機嫌を損ねたらしい。
俺は記憶を探る。
灯り。食卓。誰かが待っていること。
何かを話した気はする。
だが、言葉までは戻ってこない。
「セラフィーナ」
「何でしょう」
「思い出せなくて、すみません」
「謝らないでください」
「でも、大切なことだったんでしょう」
彼女はしばらく黙り、髪飾りへ触れた。
「私が覚えております」
「それでいいんですか」
「今は」
声が柔らかくなった。
「いつか、起きている時にも同じことを言っていただければ、それで構いません」
クレアは空になった水差しを持ち上げた。
「昨夜、セラフィーナ様は何度もお水を替えられました」
「クレア」
「事実でございます」
「眠っていなかったんですか」
「必要があっただけです」
「熱を測るだけなら、クレアさんでも」
「私がいたかったのです」
言い切ってから、セラフィーナ自身が驚いたように目を伏せた。
俺の胸が、病気とは違う理由で強く鳴る。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではありません」
「俺が言いたいので」
彼女は何も答えず、紅茶へ口をつけた。
耳が赤い。
昨夜の俺も、これほど無防備なことを言ったのだろうか。
何を言ったのか、ますます気になる。
「努力します」
「内容を知らないのに?」
「セラフィーナが待っているなら」
彼女の頬が赤くなった。
今度は、怒ってはいない。
俺は少し安心し、朝食へ手を伸ばす。
「食べたら、午前だけ休みます」
「一日です」
「午後には水門の」
「一日です」
「はい」
朝食を終えると、セラフィーナは家族用の皿を重ねてクレアへ渡した。
以前なら、使用人の仕事へ手を出すことをためらったはずだ。
「すっかり、この家の朝に慣れましたね」
俺が言うと、彼女は皿へ目を落とした。
「慣れてはいけませんか」
「まさか。むしろ、いてもらわないと落ち着きません」
「今の言葉は覚えておいてください」
「起きていますから、たぶん大丈夫です」
彼女はようやく笑った。
結局、仕事へ戻ることは許されなかった。
ただ、寝台から見える場所でセラフィーナが書類を読む音を聞きながら休むのは、思ったほど退屈ではなかった。
家へ帰るのが楽しみだと、俺は言ったらしい。
覚えてはいない。
けれど、たぶん嘘ではなかった。




