第16話 雨漏りの夜
セラフィーナの部屋は、見事に雨漏りしていた。
天井から落ちる水を、クレアと使用人たちが桶で受けている。
「この部屋は昨日まで何ともなかったはずですが」
セラフィーナが天井を見上げる。
「春の雨で古い板が浮いたんでしょう」
俺は壁際の机を持ち上げた。
「書類を先に出します。衣装箱はクレアさんに」
「アレン、屋根へ上がるつもりではありませんね」
「板を押さえないと被害が広がります」
「この豪雨の中で?」
「縄をつけます」
「安全になる理由として不足しています」
正論だ。
だが、このままでは隣の部屋まで水が回る。
結局、ガレスと二人で屋根裏へ入り、内側から板を仮留めした。雨風へ直接さらされるよりはましだが、隙間から吹き込む水で服はすっかり濡れた。
作業を終えて廊下へ戻ると、セラフィーナが腕を組んで待っていた。
「説明をお願いします」
「応急処置は終わりました」
「そうではありません。なぜ領主代理が自分で濡れているのですか」
「大工を呼ぶには遅い時間ですし」
「ほかの者へ指示することもできたでしょう」
「屋根裏の梁の位置を知っているのが俺だったので」
彼女は言い返そうとしたが、俺の袖から床へ水が落ちるのを見て、ため息をついた。
「まず着替えてください」
「セラフィーナの今夜の部屋を決めてから」
「私はどこでも休めます」
「そう言う人ほど、どこでも仕事を始めるんです」
「アレンに言われたくありません」
その通りだった。
客室はアニエスが使っている。
父の隣室は薬の匂いが強く、クレアはセラフィーナの衣装と書類を乾かすため、使用人部屋を借りている。
残ったのは、俺の執務室に続く小さな休憩室だけだった。
「寝台は一つあります。俺は執務室の長椅子を使います」
「また床や椅子で眠るおつもりですか」
「以前より進歩しています。長椅子です」
「進歩の方向が間違っています」
セラフィーナは休憩室を見回した。
狭いが、雨は入っていない。小さな暖炉と、一人用の寝台。執務室との間には扉がある。
「では、私は休憩室をお借りします。アレンは執務室で仕事をするのでしょう」
「少しだけ」
「今夜は休んでください」
「少しだけです」
「信用できません」
着替えを済ませ、俺は執務室へ戻った。
机の上には、雨で濡れる前に運び出したセラフィーナの書類が積まれている。
彼女も休憩室へ入らず、向かいの椅子へ座った。
「眠らないんですか」
「書類が乾くまで確認します」
「今夜は仕事をしないと言ったのは?」
「アレンに対してです」
「不公平ですね」
「私は濡れておりません」
反論できない。
乾かす書類の中には、セラフィーナが王都から持ってきた古い法令集もあった。
端の濡れた頁を俺がめくると、細かな書き込みが並んでいる。
「これ、全部セラフィーナが?」
「幼い頃から、間違いを許されませんでしたので」
「こんな小さな字まで」
「紙を無駄にするなとも教えられました」
俺は自分の帳簿を見る。余白には天気の印や、領民から頼まれた買い物まで書いてある。
「俺の帳簿を見たら、先生は倒れますね」
「すでに拝見しました」
「いつ?」
「昨日です。鼠の絵がありました」
「あれは倉庫の被害記録です」
「尻尾が笑っていました」
「記録にも愛嬌は必要です」
彼女はしばらく堪えたあと、声を立てずに笑った。
濡れた紙を前にしても、失敗を責める人はいない。乾かせばまた使えると、二人で頁を並べていく。
外では雨が屋根を叩き続けていた。
時折、雷が鳴る。
セラフィーナは紙を一枚ずつ広げ、端へ重しを置く。俺は濡れた帳簿の表紙を布で拭いた。
最初は、屋根の状態や明日の修理について話していた。
やがて必要な会話がなくなる。
雨音だけが部屋を満たした。
以前の俺なら、何か話さなければと焦っただろう。
公爵令嬢と二人きりの部屋で沈黙するなど、礼儀に反しているように感じたはずだ。
けれど今は、彼女がそこにいることが不自然ではなかった。
セラフィーナも、無理に話題を探していない。
乾きかけた紙へ指を滑らせ、時々、暖炉の火を見る。
俺は湯を沸かし、紅茶を二つ淹れた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
一口飲んだ彼女が、少し眉を上げる。
「以前より上達しましたね」
「父の薬草茶よりは簡単です」
「比較対象が低すぎませんか」
「褒められたと思っておきます」
また沈黙が戻る。
今度は、少しも気まずくなかった。
窓の外はひどい嵐なのに、この小さな部屋だけは落ち着いている。
セラフィーナが紅茶の湯気越しに俺を見る。
「アレン」
「はい」
「何かお話ししなくても、よいのでしょうか」
「話したいことがあれば話します。なければ、雨の音を聞いていればいいんじゃないですか」
「私は、沈黙が苦手だと思っていました」
「王宮では?」
「沈黙すると、弱みを探られているように感じました。何か失言をしたのではないかと」
「ここでは、俺が話題を思いついていないだけです」
「それは安心してよい理由なのでしょうか」
「少なくとも陰謀ではありません」
セラフィーナが笑った。
「では、安心します」
「王宮では、黙っているだけで怠慢だと思われることもありました」
「ここでは、黙っていても紙は乾きます」
「ずいぶん実用的な慰めですね」
「辺境向きでしょう」
「ええ。私には、その方が合っているようです」
彼女は椅子の背へ少し体を預けた。
公爵令嬢らしい完璧な姿勢ではない。
俺も帳簿から手を離す。
しばらく、二人で雨の音を聞いた。
何も起こらない。
手も触れない。
特別な言葉も交わさない。
それでも、こんな夜が嫌ではなかった。
「アレン」
「何でしょう」
「この部屋は、狭いですね」
「申し訳ありません」
「苦情ではありません」
彼女は暖炉へ目を向ける。
「広い部屋で一人でいるより、落ち着きます」
胸が少しだけ速く鳴った。
「それなら、よかったです」
雨が弱くなった頃、セラフィーナはようやく休憩室へ入った。
「おやすみなさい、アレン」
「おやすみなさい、セラフィーナ」
扉が閉じる。
俺は長椅子へ横になった。
体が妙に重い。
屋根裏で濡れたせいだろう。
明日の修理の順番を考えながら目を閉じる。
あと少しだけ休めば、また動ける。
そう思った時には、もう朝まで眠り込んでいた。




