第14話 商人令嬢アニエス
数日後、領主館の前へ、荷馬車が三台並んだ。
「アレン! 生きてたのね!」
馬車から飛び降りた赤褐色の髪の女性が、俺の肩を勢いよく叩く。
「痛い。生存確認にしては強すぎる」
「王都へ行ったと思ったら、王太子に逆らって公爵令嬢を連れ帰ったって聞いたのよ。肩がついてるだけでも褒めてあげる」
「その褒め方は初めてだ」
彼女はアニエス・モロー。
ハルフォード領と長く取引している商家の令嬢で、俺が領地の帳簿を任され始めた頃からの取引相手だ。
塩、布、農具、薬。領地で作れない品の多くは、彼女の商会に頼っている。
「ところで、公爵令嬢はどちら?」
「その呼び方は公的な場だけにしてくれ。今は――」
「私が、セラフィーナです」
背後から静かな声がした。
振り返ると、セラフィーナがクレアとともに玄関を出てきたところだった。
銀色の髪には、市場で贈った髪飾りがある。
アニエスは一瞬、俺を見た。
次に髪飾りを見る。
最後に、ものすごく意味のある顔で俺を見た。
「へえ」
「何だ」
「別に」
絶対に別にではない。
アニエスはすぐに姿勢を正し、セラフィーナへ礼をした。
「アニエス・モローと申します。父の商会で、北西部の取引を任されております」
「セラフィーナ・ローゼンフェルトです。現在は、ハルフォード家の保護下にあります」
「お噂は聞いています」
少し緊張が走る。
だがアニエスは笑った。
「王都の噂より、帳簿と本人を見る方を信用しています。よろしくお願いします」
セラフィーナの表情がわずかに和らいだ。
「こちらこそ」
「それで、アレン」
アニエスはすぐ俺へ向き直る。
「頼まれていた塩と布。あと、農具の鉄材を持ってきたわ。代金はいつもの通り半分後払いでいいけど、倉庫を見せて」
「着いたばかりだろう」
「着いたから見るの。湿気で商品を駄目にされる方が困るもの」
彼女は俺の腕をつかみ、倉庫の方へ歩き出す。
「ちょっと待て。セラフィーナも――」
「アレン」
呼ばれた。
振り返る。
セラフィーナは微笑んでいる。
「ずいぶん、親しいのですね」
「取引が長いから」
「お名前で呼び合うほど」
「アニエスは誰にでも距離が近いんです」
「そうよ」
本人が胸を張る。
「アレンなんて、帳簿を覚えたての頃から知ってるもの。計算を間違えて青くなった顔も、倉庫の鼠を追って転んだところも」
「それ以上、信用を落とす話をするな」
「信用は落ちないわ。最初から高くないもの」
セラフィーナの微笑が、一段きれいになった。
なぜか怖い。
「倉庫をご一緒してもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
アニエスが答える。
「むしろ助かります。アレン一人だと、現場は見ても契約の穴を見落とすから」
「なるほど」
「二人とも、俺を本人の前で評価するのはやめませんか」
倉庫へ入ると、アニエスはすぐに床板を叩いた。
「ここ、湿ってる」
「昨日、確認した時は」
「表面だけでしょう。下から上がってるわ」
板を一枚外すと、土台の一部が黒ずんでいた。
俺はしゃがみ込む。
「雪解け水が回ったか」
「このまま布を積めば黴びる。奥の棚を空けて、床から離して置く。塩は樽ごと西側へ」
セラフィーナも倉庫を見回す。
「西側は壁が厚く、温度が安定しています。ただし出入口から遠い。塩を日常的に小分けするなら、運搬の手間が増えます」
「では小分け用の樽だけ前へ」
アニエスが答える。
「残りは奥。記録を二つに分ければいいわね」
「入出庫の札を色分けしましょう。読み書きのできない者にも判別できます」
「いい案」
二人の会話が、あっという間に進んでいく。
俺は床板を持ったまま置いていかれた。
「俺も何か」
「アレンは職人を呼んで」
「領主代理の仕事が、急に使い走りになった」
「適材適所です」
セラフィーナまで言う。
仕方なく職人を呼び、荷物の移動を始めた。
職人を待つ間、アニエスは荷馬車の積み荷を一つずつ確認した。
「薬草箱は揺らさないで。布より先に屋内へ。雨が来る前に終わらせるわよ」
声は大きいが、命令だけではない。重い樽を運ぶ者には休憩を入れ、荷札を読めない少年には印の意味を教えている。
セラフィーナはその様子をじっと見ていた。
「商人は、数字だけを見るものだと思っていました」
「数字の向こうに人がいるの。荷を一箱駄目にすれば、売上だけじゃなく、必要としていた家の冬支度まで遅れる」
「あなたは、アレンと似ていますね」
「それは褒め言葉?」
「仕事に関しては」
「それ以外は?」
セラフィーナは答えず、俺を見た。
「なぜ俺を見るんです」
「比較対象を確認しただけです」
アニエスが声を上げて笑った。
作業の間、アニエスはセラフィーナへ市場価格や商人たちの反応を説明する。
「王都からの正式な取引停止はまだ出ていません。でも、殿下の機嫌を恐れて、ハルフォード行きを嫌がる商人は増えるでしょうね」
「代替路はありますか」
「山間路と川運び。ただし量が少ない。だから今のうちに、必要品を絞るべき」
セラフィーナはすぐに質問を重ねた。
「塩、薬、鉄材の優先順位は?」
「塩と薬。鉄は修理用に限定」
「布は?」
「高級品は止める。丈夫な麻布を増やす」
二人はよく似ていた。
判断が速い。必要な情報を先に聞く。そして、俺が迷っている間に次の問題へ進む。
しばらくすると、倉庫の整理が終わった。
アニエスが額の汗を拭う。
「これで大丈夫。ところでセラフィーナ様、その髪飾り、よく似合っていますね」
「ありがとうございます」
「アレンが?」
セラフィーナは髪飾りへ触れた。
「はい。私のために選んでくださいました」
声に、ほんの少し誇らしさがあった。
アニエスが俺を見る。
「へええ」
「何だよ」
「何でもないわよ、兄みたいなものだと思ってた相手が、意外とやる時はやるのねって」
「兄?」
セラフィーナが繰り返した。
「ええ。恋愛対象として見たことは一度もありません」
アニエスはあっさり言った。
「この人、畑の天気と倉庫の鼠の話ばかりするもの」
「そこまで言う必要あるか?」
セラフィーナの肩から、わずかに力が抜けた。
だが、すぐに姿勢を正す。
「私は別に、その点を気にしていたわけではありません」
「もちろんです」
アニエスは笑顔でうなずいた。
明らかに信じていない顔だった。
「アレン」
セラフィーナが俺を見る。
「これまでのモロー商会との契約書を、すべて確認させてください」
「全部?」
「はい。取引条件と、今後の供給体制を精査する必要があります」
「今後のためなら、もちろん」
「特に、アニエスとの連絡頻度、訪問予定、直接交渉の必要性について」
「そこまで契約書に書いてないと思います」
「では、新しく整理します」
アニエスが口元を押さえた。
「セラフィーナ様」
「何でしょう」
「それ、税制や交易の問題ではないと思いますよ」
セラフィーナの青い瞳が細くなる。
「明日、詳しく説明していただけますか」
「喜んで」
俺だけが、何の説明が始まるのか理解できなかった。




