第13話 恋という病気
夜、俺は一冊の帳簿を抱えて、セラフィーナの部屋へ向かった。
昼の市場で彼女が気づいた卵と布の価格差について、倉庫の記録を確認したいと言われたからだ。
扉の前まで来たところで、中からセラフィーナの声が聞こえた。
「胸が苦しいのです」
俺は足を止めた。
「いつからでございますか」
クレアの落ち着いた声。
「正確にはわかりません。ただ、アレンと話している時に多いようです」
帳簿を落としかけた。
(俺と話すと胸が苦しい?)
思い当たることを必死に探す。
領地の食事が合わない。逃避行の疲れ。王都での心労。
それとも、俺の話が長いのか。
水路の修理方法を熱心に説明しすぎたことはある。倉庫の湿気対策について、食後に二十分ほど話したこともある。
「ほかに症状は?」
「顔が熱くなります。鼓動も速くなります。それから、姿が見えないと落ち着かないことがあります」
かなり深刻ではないか。
「本日は、髪飾りをつけていただいた時に、もっとも強く感じました」
俺の指先が髪へ触れたせいで、何かの発作が起きた?
思わず扉へ近づいた時、腕の中の帳簿が滑った。
床へ落ちる。
どん、と大きな音が廊下へ響いた。
室内が静まり返る。
「……アレン?」
逃げるのは不自然だ。
俺は覚悟を決め、扉を叩いた。
「帳簿を持ってきました」
しばらくして、クレアが扉を開ける。
なぜか、ひどく楽しそうな顔をしていた。
「どうぞ、アレン様」
部屋へ入ると、セラフィーナは椅子へ座っていた。
昼に贈った髪飾りを、まだつけている。
ただし頬が赤い。
「具合が悪いんですか」
「なぜ、そのように」
「聞こえてしまいました。胸が苦しいと」
彼女の顔がさらに赤くなった。
「どこから、お聞きに?」
「アレンと話している時に多い、というあたりから」
「ほぼ最初です」
「申し訳ありません」
「謝罪で済む問題でしょうか」
「では、医者を呼びます」
「必要ございません」
セラフィーナが即答する。
「ですが、動悸や熱まで」
「クレアの見立てでは、病気ではないそうです」
俺はクレアを見る。
「では、何ですか」
クレアは少しも迷わず答えた。
「恋の初期症状でございます」
沈黙が落ちた。
俺はクレアを見る。
次にセラフィーナを見る。
彼女は両手で顔を覆いたそうな表情をしながら、どうにか姿勢を保っている。
「恋?」
「はい」
「誰の?」
聞いた瞬間、クレアが目を閉じた。
セラフィーナは凍った。
俺も、自分が何を聞いたのか遅れて理解した。
「いえ、答えなくて結構です」
「当然です」
声が冷たい。
ただ、耳まで赤い。
「しかし、症状の原因が特定できたなら、対処が必要です」
セラフィーナが無理に平静を取り戻そうとする。
「クレア、治療法は?」
「一般には、気持ちを認めることかと」
「ほかには」
「相手と話す」
「悪化しています」
「お会いする」
「それも症状を強めます」
「距離を置く」
セラフィーナの表情が止まった。
「……それは」
彼女は視線を落とす。
「それは、あまり望ましくありません」
クレアの口元が緩んだ。
俺は話についていけない。
ただ、セラフィーナが俺と距離を置きたくないと言ったことだけは、胸へ残った。
クレアは机の上の髪飾りへ視線を落とした。
「セラフィーナ様。念のため申し上げますが、恋は発熱のように治して消すものではございません」
「では、放置するのですか」
「大切に観察するものかと」
「症状を?」
「ご自身のお気持ちを、です」
セラフィーナは難しい法令を示された時のように黙り込んだ。
「感情は、判断を誤らせます」
「隠した感情も、判断を誤らせます」
「クレアは、いつからそのような議論をするようになったのですか」
「セラフィーナ様が、ご自分のことだけは議論から外されるので」
どこかで聞いた話だと思った。
俺が口を挟むべきではない。そう思いながらも、セラフィーナが胸元で握った手を見ていると、黙って帰ることもできなかった。
「俺にできることはありますか」
尋ねると、彼女は顔を上げた。
「ありません」
「即答ですね」
「この件について、アレンにできることは何も」
「では、しばらく話しかけない方が?」
「それは困ります」
今度も即答だった。
俺はますますわからなくなる。
「話すと苦しくて、話さないと困る?」
「私も整理している途中です」
彼女は政治資料を読む時のように眉を寄せた。
「まずは症状の発生条件を確認します」
「確認?」
「アレン、そこへ座ってください」
言われた通り、向かいの椅子へ座る。
セラフィーナは自分の手首へ指を当てた。
「何か話してください」
「急に言われても」
「領地のことでも構いません」
「では、今日の市場で気づいたことを」
俺は卵の値上がりと飼料不足について話し始めた。
セラフィーナは真剣に脈を測っている。
「どうですか」
「通常より速いです」
「市場価格の話でも?」
「内容は関係ないようです」
クレアが後ろを向いた。肩が震えている。
「次に、少し離れてください」
俺が椅子を後ろへ引く。
「もっとです」
さらに引く。
セラフィーナの眉が寄る。
「どうですか」
「先ほどとは別の不快感があります」
「病気って複雑ですね」
「まったくです」
「では、部屋を出ましょうか」
「そこまでは必要ありません」
また即答だった。
クレアがとうとう耐えきれず、小さく咳をした。
「セラフィーナ様。診断は十分ではございませんか」
「まだです」
「私には、かなり明確に見えます」
「私には明確ではありません」
俺にも明確ではない。
ただし、これ以上続ければ、彼女がもっと困ることだけはわかった。
「今日はここまでにしましょう。体調が本当に悪くなったら、すぐ知らせてください」
俺は帳簿を机へ置き、立ち上がった。
「では、おやすみなさい」
「おやすみなさい、アレン」
扉へ手をかける。
「アレン」
呼び止められた。
「はい」
「明日の朝、価格記録について相談したいことがあります」
「わかりました」
「朝食の前に」
「早いですね」
「症状の確認も兼ねます」
クレアが天井を仰いだ。
「承知しました」
俺が答えると、セラフィーナは少しだけ安心したように息をついた。
胸が苦しくなる相手と、翌朝いちばんに会いたいらしい。
恋という病気は、どうやら領地のどんな病より理解が難しい。




