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婚約破棄された公爵令嬢を辺境へ連れ帰ったら、俺の領地が王国で一番幸せになりました!?  作者: ぱる子
第二部 公爵令嬢は普通の幸せを知らない

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12/19

第12話 初めての市場

 ハルフォード領の市場は、王都の市場よりずっと小さい。


 石造りの立派な店舗はなく、広場へ木の台と布屋根を並べただけだ。


 それでも市の日には、近隣の村から野菜、卵、布、木工品、薬草が集まる。人の声と焼き菓子の匂いで、普段の広場とは別の場所のように賑わった。


「人が多いですね」


 セラフィーナは、地味な外套の下から周囲を見回した。


「王都に比べれば少ないでしょう」


「王都では、私が市場を歩くことはありませんでした」


「一度も?」


「必要な品は、公爵家へ商人が持参しました」


「では、本当に初めてなんですね」


 彼女はうなずいた。


 クレアも同行しているが、少し後ろを歩いている。


 新しい履き物を探すのが今日の目的だ。


 ところが、セラフィーナは靴屋へ着く前から、あちこちの値札へ目を向けていた。


「卵が、先月の記録より高いですね」


「春先は飼料が減るので上がります」


「あちらの塩は、王都より安いです」


「山道を通る小規模な交易があります。量は多くありませんが」


「布は逆に高い」


「川下から運ぶしかないので」


 初めての市場を楽しむというより、すでに価格調査になっている。


「セラフィーナ、今日は仕事ではありませんよ」


「見えてしまうものを見ない方が不自然です」


「せめて焼き菓子の値段以外も見てください」


「焼き菓子も価格の一部です」


 真面目な顔で答えた彼女の視線が、菓子台の蜂蜜菓子から離れない。


「食べますか」


「調査のためなら」


「便利な言葉ですね」


 二つ買い、一つを渡した。


 彼女は慎重に一口かじる。


 青い瞳が少しだけ大きくなった。


「甘いです」


「蜂蜜菓子ですから」


「王都のものより素朴ですが、香りが強い」


「気に入りました?」


「比較には、もう一つ必要かもしれません」


「調査熱心ですね」


 靴屋では、丈夫な革靴を選んだ。


 セラフィーナは値段だけでなく、縫い目や底革まで確認する。


「こちらは修理できますか」


「底だけなら何度でも。うちで買った物なら、最初の修理は安くしますよ」


 店主が答えると、彼女は満足そうにうなずいた。


「では、これを」


 靴屋を出たところで、野菜売りの老婆がセラフィーナへ声をかけた。


「昨日、下の畑を見てくださった方でしょう。これ、少し持っていってくださいな」


 差し出されたのは、小ぶりな春蕪だった。


「代金をお支払いします」


「売り物にならない小さいのです。煮れば食べられますよ」


 セラフィーナは受け取るべきか迷い、俺を見る。


「昨日のお礼なら、受け取ってもいいと思います。ただし次に会った時、料理の感想を伝えましょう」


「感想が対価ですか」


「作った人には大事です」


 彼女は両手で蕪を受け取った。


「ありがとうございます。苦みを和らげる調理法を試します」


「そりゃ楽しみだ」


 老婆が笑う。


 ほんの小さな贈り物なのに、セラフィーナは宝石を受け取る時より慎重に籠へ入れた。


 この市場では、物の値段だけでなく、人から人へ渡る理由まで、王都とは違うらしい。


 買い物を終え、広場を戻る途中、小さな装身具の店が目に入った。


 木の台に並んでいるのは、王都の宝石店とは比べものにならない品ばかりだ。磨いた木の腕輪、色ガラスの耳飾り、銀色に鍍金した真鍮の髪飾り。


 その中に、細い葉を模した髪留めがあった。


 派手ではない。


 けれど、銀色の髪へ合わせれば、きっときれいだと思った。


「少し待ってください」


 俺が足を止めると、セラフィーナも振り返った。


「何か必要な品が?」


「見ているだけです」


「アレンが装身具を?」


「そんなに意外ですか」


「領地視察用の縄や釘を選ぶ姿は想像できます」


 反論できない。


 店主へ値段を聞く。


 高くはない。俺でも無理なく払える額だ。


 買うべきか迷った。


 公爵令嬢へ贈る品としては、あまりにも安価だ。彼女は本物の銀も宝石も、いくらでも見てきただろう。


 それでも、似合うと思ってしまった。


「こちらを」


 代金を払い、髪飾りを受け取る。


 セラフィーナが不思議そうに見ている。


「クレアさんへのお土産ですか」


 少し離れていたクレアが、なぜか急に別の店へ向かった。


「私は布地を拝見してまいります」


 逃げるのが早い。


「セラフィーナへです」


 彼女が動きを止めた。


「私に?」


「はい」


「なぜですか」


 尋ねられると困る。


 誕生日でもない。何かを達成した祝いでもない。政治的な意味もない。


「似合うと思ったので」


「それだけですか」


「ほかに理由が必要ですか」


 セラフィーナは髪飾りを見つめた。


「私は、これまで多くの装身具を贈られました」


「でしょうね」


「婚約者として必要な宝石。公爵家の名誉を示す首飾り。式典の衣装へ合わせる耳飾り」


 彼女は指先で、銀色の葉へ触れた。


「私個人へ、似合うと思ったから選ばれたものは……ありません」


 俺は言葉を失った。


 高価な品をいくつ持っていても、その人自身へ贈られた物がない。


 そんなことがあるのか。


「安い品で、申し訳ありません」


「なぜ謝るのですか」


「公爵令嬢が身につけていた物と比べれば」


「私は今、公爵令嬢ではありません」


 静かな声だった。


「そして、これはアレンが私のために選んだのでしょう」


「はい」


「では、比べる相手がいません」


 セラフィーナは髪飾りを胸元へ大切そうに置いた。


「つけてもよろしいですか」


「もちろんです」


「アレンが、つけてください」


「俺が?」


「選んだ方が、似合う位置をご存じなのでは」


 知るはずがない。


 だが、断る理由も見つからない。


 彼女が少し身をかがめる。


 銀色の髪が、春の日差しを受けて輝いた。


 俺は震えそうになる指で、耳の少し上へ髪飾りを留める。


 髪へ触れないよう注意したのに、指先が一度だけ柔らかな毛先へ触れた。


「できました」


 セラフィーナが顔を上げる。


「似合いますか」


 似合わないわけがなかった。


「とても」


 短く答えるのが精いっぱいだった。


 彼女は店先の小さな鏡をのぞき、それから笑った。


 王宮で見た作られた微笑ではない。


 長靴を泥へ取られた時とも違う。


 自分のために選ばれた物を、確かめるような笑顔だった。


「ありがとうございます、アレン」


 胸の奥が、妙に苦しくなる。


 なぜかセラフィーナも、髪飾りを押さえたまま胸元へ手を置いた。


「どうしました?」


「いいえ。少し……胸が」


「苦しいんですか」


「問題ありません」


「本当に?」


「はい。おそらく、歩きすぎただけです」


 それなら休んだ方がいい。


 俺が近くの椅子を探していると、戻ってきたクレアがセラフィーナの表情を見て、すべて理解したように目を細めた。


 俺には、何が起きているのかまるでわからなかった。

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