第12話 初めての市場
ハルフォード領の市場は、王都の市場よりずっと小さい。
石造りの立派な店舗はなく、広場へ木の台と布屋根を並べただけだ。
それでも市の日には、近隣の村から野菜、卵、布、木工品、薬草が集まる。人の声と焼き菓子の匂いで、普段の広場とは別の場所のように賑わった。
「人が多いですね」
セラフィーナは、地味な外套の下から周囲を見回した。
「王都に比べれば少ないでしょう」
「王都では、私が市場を歩くことはありませんでした」
「一度も?」
「必要な品は、公爵家へ商人が持参しました」
「では、本当に初めてなんですね」
彼女はうなずいた。
クレアも同行しているが、少し後ろを歩いている。
新しい履き物を探すのが今日の目的だ。
ところが、セラフィーナは靴屋へ着く前から、あちこちの値札へ目を向けていた。
「卵が、先月の記録より高いですね」
「春先は飼料が減るので上がります」
「あちらの塩は、王都より安いです」
「山道を通る小規模な交易があります。量は多くありませんが」
「布は逆に高い」
「川下から運ぶしかないので」
初めての市場を楽しむというより、すでに価格調査になっている。
「セラフィーナ、今日は仕事ではありませんよ」
「見えてしまうものを見ない方が不自然です」
「せめて焼き菓子の値段以外も見てください」
「焼き菓子も価格の一部です」
真面目な顔で答えた彼女の視線が、菓子台の蜂蜜菓子から離れない。
「食べますか」
「調査のためなら」
「便利な言葉ですね」
二つ買い、一つを渡した。
彼女は慎重に一口かじる。
青い瞳が少しだけ大きくなった。
「甘いです」
「蜂蜜菓子ですから」
「王都のものより素朴ですが、香りが強い」
「気に入りました?」
「比較には、もう一つ必要かもしれません」
「調査熱心ですね」
靴屋では、丈夫な革靴を選んだ。
セラフィーナは値段だけでなく、縫い目や底革まで確認する。
「こちらは修理できますか」
「底だけなら何度でも。うちで買った物なら、最初の修理は安くしますよ」
店主が答えると、彼女は満足そうにうなずいた。
「では、これを」
靴屋を出たところで、野菜売りの老婆がセラフィーナへ声をかけた。
「昨日、下の畑を見てくださった方でしょう。これ、少し持っていってくださいな」
差し出されたのは、小ぶりな春蕪だった。
「代金をお支払いします」
「売り物にならない小さいのです。煮れば食べられますよ」
セラフィーナは受け取るべきか迷い、俺を見る。
「昨日のお礼なら、受け取ってもいいと思います。ただし次に会った時、料理の感想を伝えましょう」
「感想が対価ですか」
「作った人には大事です」
彼女は両手で蕪を受け取った。
「ありがとうございます。苦みを和らげる調理法を試します」
「そりゃ楽しみだ」
老婆が笑う。
ほんの小さな贈り物なのに、セラフィーナは宝石を受け取る時より慎重に籠へ入れた。
この市場では、物の値段だけでなく、人から人へ渡る理由まで、王都とは違うらしい。
買い物を終え、広場を戻る途中、小さな装身具の店が目に入った。
木の台に並んでいるのは、王都の宝石店とは比べものにならない品ばかりだ。磨いた木の腕輪、色ガラスの耳飾り、銀色に鍍金した真鍮の髪飾り。
その中に、細い葉を模した髪留めがあった。
派手ではない。
けれど、銀色の髪へ合わせれば、きっときれいだと思った。
「少し待ってください」
俺が足を止めると、セラフィーナも振り返った。
「何か必要な品が?」
「見ているだけです」
「アレンが装身具を?」
「そんなに意外ですか」
「領地視察用の縄や釘を選ぶ姿は想像できます」
反論できない。
店主へ値段を聞く。
高くはない。俺でも無理なく払える額だ。
買うべきか迷った。
公爵令嬢へ贈る品としては、あまりにも安価だ。彼女は本物の銀も宝石も、いくらでも見てきただろう。
それでも、似合うと思ってしまった。
「こちらを」
代金を払い、髪飾りを受け取る。
セラフィーナが不思議そうに見ている。
「クレアさんへのお土産ですか」
少し離れていたクレアが、なぜか急に別の店へ向かった。
「私は布地を拝見してまいります」
逃げるのが早い。
「セラフィーナへです」
彼女が動きを止めた。
「私に?」
「はい」
「なぜですか」
尋ねられると困る。
誕生日でもない。何かを達成した祝いでもない。政治的な意味もない。
「似合うと思ったので」
「それだけですか」
「ほかに理由が必要ですか」
セラフィーナは髪飾りを見つめた。
「私は、これまで多くの装身具を贈られました」
「でしょうね」
「婚約者として必要な宝石。公爵家の名誉を示す首飾り。式典の衣装へ合わせる耳飾り」
彼女は指先で、銀色の葉へ触れた。
「私個人へ、似合うと思ったから選ばれたものは……ありません」
俺は言葉を失った。
高価な品をいくつ持っていても、その人自身へ贈られた物がない。
そんなことがあるのか。
「安い品で、申し訳ありません」
「なぜ謝るのですか」
「公爵令嬢が身につけていた物と比べれば」
「私は今、公爵令嬢ではありません」
静かな声だった。
「そして、これはアレンが私のために選んだのでしょう」
「はい」
「では、比べる相手がいません」
セラフィーナは髪飾りを胸元へ大切そうに置いた。
「つけてもよろしいですか」
「もちろんです」
「アレンが、つけてください」
「俺が?」
「選んだ方が、似合う位置をご存じなのでは」
知るはずがない。
だが、断る理由も見つからない。
彼女が少し身をかがめる。
銀色の髪が、春の日差しを受けて輝いた。
俺は震えそうになる指で、耳の少し上へ髪飾りを留める。
髪へ触れないよう注意したのに、指先が一度だけ柔らかな毛先へ触れた。
「できました」
セラフィーナが顔を上げる。
「似合いますか」
似合わないわけがなかった。
「とても」
短く答えるのが精いっぱいだった。
彼女は店先の小さな鏡をのぞき、それから笑った。
王宮で見た作られた微笑ではない。
長靴を泥へ取られた時とも違う。
自分のために選ばれた物を、確かめるような笑顔だった。
「ありがとうございます、アレン」
胸の奥が、妙に苦しくなる。
なぜかセラフィーナも、髪飾りを押さえたまま胸元へ手を置いた。
「どうしました?」
「いいえ。少し……胸が」
「苦しいんですか」
「問題ありません」
「本当に?」
「はい。おそらく、歩きすぎただけです」
それなら休んだ方がいい。
俺が近くの椅子を探していると、戻ってきたクレアがセラフィーナの表情を見て、すべて理解したように目を細めた。
俺には、何が起きているのかまるでわからなかった。




