第11話 若奥様ではありません
畑の視察を終えた俺たちは、近くの農家へ招かれた。
「粗末なところで申し訳ありません、若旦那様。若奥様も、どうぞこちらへ」
家の主人がそう言った瞬間、俺は反射的に答えた。
「若奥様ではありません」
室内が静かになった。
セラフィーナも静かになった。
なぜかクレアだけが、目を閉じて小さく息を吐いた。
「そうでしたか。これは失礼を」
主人が慌てて頭を下げる。
「セラフィーナ様は、王都からお越しになった大切なお客様です」
「ええ」
セラフィーナは端正に微笑んだ。
ただし、その声は春の井戸水くらい冷たかった。
農家の食卓には、焼いた芋と薄い茶が並べられた。
俺たちは水路の改善について、農家の家族や近隣の者と話し合う。
「水門を増やすなら、下流の畑だけでなく、洗い場へ流す水も分けられます」
セラフィーナが土の上へ簡単な図を描いた。
「ただし、水門の管理を一軒へ任せると揉めます。三軒ごとに当番を置き、開閉の記録を残してください」
「字を書けない家もあります」
農婦が言う。
「木札へ印を刻む方法ならどうでしょう。晴天、雨天、故障の三種類で十分です」
「それなら、うちの子でもできます」
話が具体的になるにつれ、人々の表情が明るくなる。
セラフィーナは泥のついた長靴のまま、誰の話も遮らずに聞いた。
王宮の大広間に立っていた公爵令嬢と、同じ人には見えない。
いや、同じ人なのだ。
ただ、あの場所では誰も彼女へ、こんな小さな暮らしの話を頼まなかったのだろう。
「若奥様は物知りですねえ」
年配の女性が感心したように言った。
俺はまた訂正した。
「ですから、若奥様では――」
机の下で、足を踏まれた。
「痛っ」
セラフィーナは何事もなかった顔で茶を飲んでいる。
「どうしました、アレン」
「いえ。床板が少し」
床板は動いていない。
クレアは茶器を持ったまま、明らかに笑いをこらえていた。
話し合いが終わると、農婦が袋を差し出した。
「よろしければ、乾燥豆をお持ちください。若奥様が考えてくださった水門のお礼です」
「そのようなお礼は不要です」
「ですが」
「水門はまだ完成していません。成果が出てから、皆さんで食べてください」
セラフィーナは袋を押し戻した。
「それに私は、こちらへ来たばかりです。皆さんの暮らしを教えていただく立場ですから」
農婦は少し考え、笑った。
「では、完成したら皆で豆のスープを作りましょう。若奥様も食べに来てください」
「……はい」
今度は否定しなかった。
俺は念のため口を開く。
「若奥様では――」
今度は足ではなく、セラフィーナの視線が飛んできた。
俺は口を閉じた。
話し合いの終わり際、家の隅で大人しくしていた少女が、セラフィーナの袖をそっと引いた。
「若奥様は、ここに住むの?」
セラフィーナは答える前に、俺を見た。
俺が決めることではない。そう思い、何も言わずに待つ。
「しばらくは、領主館でお世話になります」
「しばらくって、いつまで?」
「まだ決まっていません」
少女は少し考えた。
「じゃあ、ずっとでもいいよ。お母さんが、若奥様は水を運ぶ回数を減らしてくれるって言ってたから」
セラフィーナの表情から、冷たさが消えた。
「水門がうまくいくとは、まだ限りません」
「失敗したら、また考えるんでしょ?」
少女は当然のように言う。
セラフィーナはしばらく黙ったあと、静かにうなずいた。
「ええ。皆さんと、また考えます」
少女は満足し、母親のもとへ戻っていった。
彼女は「若奥様」という呼び名を、最後まで訂正しなかった。
農家を出ると、子どもたちが集まってきた。
「若奥様、さっきの長靴、もう抜けない?」
「紐を強く結びましたので、問題ありません」
「若奥様、こっちの畑も見て!」
「順番に伺います」
すっかり定着している。
セラフィーナは戸惑いながらも、子どもたちへ丁寧に答えていた。
俺は隣を歩きながら小声で尋ねる。
「呼び方を直さなくていいんですか」
「アレンは、直したいのですか」
「事実と違いますから」
「事実と違う呼び名は、常に訂正すべきですか」
「公的な立場に関わるなら」
「ここは公的な場ですか」
「領民の前です」
「では、私を何と紹介なさるのが正しいのでしょう」
「保護宣誓の被保護者で、領地運営を手伝ってくれている――」
「長いです」
「元公爵令嬢で」
「公爵家からは追放されています」
「セラフィーナで」
「領民が呼び捨てにできないことは、先ほど確認したでしょう」
見事に逃げ道を塞がれた。
「では、セラフィーナ様で」
「皆さんが自然にそう呼ぶなら、それでも構いません」
「若奥様は?」
彼女は前を向いたまま答えない。
「嫌なら、俺からきちんと――」
「嫌だとは申し上げておりません」
即答だった。
俺は歩みを止めかけた。
「ですが、事実ではないと」
「事実でないと指摘したのはアレンです」
「間違っていましたか」
「いいえ。正確です」
「では、なぜ怒っているんです?」
「怒っておりません」
怒っている人の声だった。
少し先を歩いていたクレアが振り返る。
「アレン様」
「はい」
「正確さが、常にもっとも親切とは限りません」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味でございます」
説明になっていない。
セラフィーナは、泥道の端へ咲いた小さな花を見ている。
俺はもう一度尋ねた。
「本当に、呼ばれても構わないんですか」
「領民の皆さんが、親しみを込めてくださるのであれば」
「では、次から訂正しません」
「そうしてください」
声が少しだけ柔らかくなった。
その時、後ろから先ほどの農婦が駆けてきた。
「若旦那様、若奥様! 忘れ物ですよ!」
差し出されたのは、セラフィーナが土へ図を描く時に使った細い棒だった。
「ありがとうございます」
彼女は自然に受け取った。
俺は訂正しなかった。
するとセラフィーナが、ほんの少しだけこちらを見た。
青い瞳の機嫌は、さっきより明らかに直っている。
「アレン」
「はい」
「次の市の日に、こちらの長靴を返すための履き物を探したいのですが」
「市場へ行きましょう。合うものがあるか見てみます」
「二人で、ですか」
「クレアさんも一緒に」
「……そうですか」
また少しだけ声が冷えた。
俺はどうやら、事実を正確に答えるたび、何かを間違えているらしい。




