第10話 泥靴と絹靴
「こちらをお使いください」
領主館の玄関で、俺は一足の長靴を差し出した。
セラフィーナはそれを見下ろした。
次に、自分の絹靴を見る。
もう一度、長靴を見る。
「これは、どなたのものですか」
「俺の予備です」
「大きさが違いすぎるように見えます」
「見えるのではなく、違います」
「では、なぜ私に?」
「ほかに女性用の長靴がないからです」
ハルフォード領の道は、春になると泥と親友になる。
昨日までの雪が解け、畑へ続く道は茶色い粥のようになっていた。絹靴で歩けば、十歩も進まないうちに二度と救出できなくなる。
セラフィーナは、俺の長靴を前に深刻な顔をしている。
王宮の財政問題へ向き合う時と、ほぼ同じ顔だ。
「布を詰めれば歩けます」
クレアが手早く内側へ古布を入れた。
「足首を紐で留めますので、脱げにくくなるかと」
「クレアまで、これが最善だと?」
「絹靴を失うよりは」
セラフィーナは観念し、長靴へ足を入れた。
片足を持ち上げる。
長靴は持ち上がらなかった。
「……重いです」
「俺の足では普通なんですが」
「アレンの足と比較されましても」
どうにか両足を収めた彼女は、玄関を一歩出た。
歩き方が、いつもの優雅さとはまるで違う。
右足を前へ出す。長靴が半拍遅れてついてくる。左足も同じだ。
ガレスが馬を引きながらやって来て、ぴたりと止まった。
「何をしている」
「領地視察です」
「新しい軍事訓練かと思った」
「失礼ですね」
セラフィーナがきっぱり答える。
ただし、長靴のせいで威厳は半分ほど泥へ沈んでいた。
最初の畑までは、領民の家々が並ぶ道を歩いた。
子どもたちが珍しそうについてくる。
「お姉ちゃん、靴が大きいね」
「必要な装備です」
「歩きにくそう」
「問題ありません」
そう答えた直後、長靴の先が小石へ引っかかった。
俺は慌てて腕を支える。
「大丈夫ですか」
「……問題ありません」
先ほどより声が小さい。
クレアは口元を押さえ、ガレスは露骨に笑っている。
「笑うな、ガレス」
「笑ってない。春の空気がうまいだけだ」
「ずいぶん腹から春を吸うんですね」
畑へ着くと、セラフィーナの表情が変わった。
道具にも泥にも不慣れだが、現場を見る目は鋭い。
芽を出したばかりの麦を傷つけないよう畦へ上がり、用水路の流れを確認する。
「上流の畑へ水が偏っています」
彼女が言った。
近くにいた農夫が帽子を取る。
「下の畑は地面が低いんで、雨が降れば水がたまります。だから普段は少なくしてるんです」
「雨が降らない時は?」
「井戸から運びます」
「何往復ほど?」
「家族で日に十五回くらいです」
セラフィーナは用水路と畑の高低差を見る。
「水門を一つ増やせば、晴天時だけ下流へ流せます。雨の前に閉じる仕組みにすれば、運ぶ回数を減らせるでしょう」
農夫が困ったように笑った。
「理屈はそうなんですが、水門を作る木材が」
「壊れた荷車の板は使えませんか」
俺が尋ねる。
「倉庫に二台分あります。車輪は直せませんが、板なら削って使えるかと」
「では、職人に見てもらいましょう」
セラフィーナはすぐにうなずいた。
「費用を計算します。労働日数と、井戸から水を運ぶ時間を比べれば、優先順位を決められます」
農夫は俺と彼女を交互に見た。
「公爵令嬢様が、うちの畑の水運びまで考えてくださるんですか」
「今は公爵家を離れております」
「じゃあ、何とお呼びすれば」
セラフィーナは一瞬言葉に詰まった。
「セラフィーナで構いません」
「呼び捨ては無理ですよ」
農夫が慌て、周囲から笑いが起きる。
彼女は戸惑いながらも、少しだけ笑った。
別の農婦が、用水路の脇に積まれた石を指した。
「去年も水門を作ろうとしたんですが、上の畑の人に水を取られると心配する家が多くて」
セラフィーナはすぐに答えを出さず、上流と下流の家から一人ずつ話を聞いた。
「水量そのものより、誰かが勝手に操作できることへの不安なのですね」
「ええ。夜のうちに開けられたら、わかりませんから」
「ならば鍵ではなく、開閉が遠くから見える印を付けましょう。隠して操作できない仕組みの方が、疑いを減らせます」
俺は感心した。
「制度だけでなく、喧嘩まで見ているんですね」
「正しい仕組みでも、信じられなければ使われません」
彼女は泥のついた長靴を見下ろす。
「現場へ来なければ、帳簿には書かれない不安でした」
長靴は大きすぎたが、彼女を領民の声が聞こえる場所まで連れてきてくれたらしい。
視察を続けるうちに、長靴の扱いにも慣れてきた。
少なくとも、本人はそう思っていたらしい。
「この先も確認しましょう」
セラフィーナが畦から降りる。
右足を泥へ置いた。
長靴が沈んだ。
左足を前へ出す。
右の長靴だけが、泥に残った。
靴下の足で一歩踏み出しかけた彼女を、俺は腰を支えて止めた。
「動かないでください!」
「ですが、長靴が」
「回収します。先に足を戻して」
「戻せる場所がありません」
俺は彼女を畦の乾いた場所へ押し上げようとした。
その拍子に、俺自身の足が滑った。
「うわっ」
今度はセラフィーナが俺の腕をつかむ。
二人で危うく泥へ倒れかけ、ガレスが背後から俺の襟をつかんだ。
「領主代理が二人まとめて畑へ埋まるな」
「二人って何だ」
「見たままだ」
農夫たちが堪えきれず笑い出した。
子どもたちも笑っている。
俺は泥だらけの片膝を見下ろした。
セラフィーナは片足だけ長靴、もう片方は靴下のまま、俺の腕へつかまっている。
彼女なら不快に思うかもしれない。
そう考えて顔を見ると、青い瞳が丸くなっていた。
次の瞬間。
「ふふっ」
小さな笑い声がこぼれた。
セラフィーナは自分の姿を見て、もう一度笑った。
「これは……たしかに、絹靴では無理ですね」
領民たちの笑い声へ、彼女の笑い声が混じる。
誰も公爵令嬢を嘲ってはいない。
同じ泥に足を取られた仲間として笑っている。
それが伝わったのだろう。
セラフィーナは、笑うのをやめなかった。
「長靴を救出します」
俺が泥へ手を伸ばすと、彼女が袖をつかんだ。
「今度は縄を使ってください。アレンまで埋まれば、視察が終わります」
「正しい判断です」
縄を掛け、三人がかりで長靴を引き抜いた。
泥から大きな音がして、長靴が飛び出す。
泥水が俺とガレスへかかった。
セラフィーナがまた笑った。
その日、視察は予定よりずいぶん長引いた。
それでも彼女は馬車へ戻ろうとしなかった。
「次の畑へ行きましょう」
「歩けますか」
「今度は長靴を紐で強く留めます」
「無理はしないでください」
「無理ではありません。改善です」
彼女は泥のついた裾を持ち上げ、領民たちと並んで歩き出した。
王都の絹靴では辿り着けなかった場所へ、俺の大きすぎる長靴で。
少し不格好に。
けれど、楽しそうに。




