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婚約破棄された公爵令嬢を辺境へ連れ帰ったら、俺の領地が王国で一番幸せになりました!?  作者: ぱる子
第二部 公爵令嬢は普通の幸せを知らない

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10/11

第10話 泥靴と絹靴

「こちらをお使いください」


 領主館の玄関で、俺は一足の長靴を差し出した。


 セラフィーナはそれを見下ろした。


 次に、自分の絹靴を見る。


 もう一度、長靴を見る。


「これは、どなたのものですか」


「俺の予備です」


「大きさが違いすぎるように見えます」


「見えるのではなく、違います」


「では、なぜ私に?」


「ほかに女性用の長靴がないからです」


 ハルフォード領の道は、春になると泥と親友になる。


 昨日までの雪が解け、畑へ続く道は茶色い粥のようになっていた。絹靴で歩けば、十歩も進まないうちに二度と救出できなくなる。


 セラフィーナは、俺の長靴を前に深刻な顔をしている。


 王宮の財政問題へ向き合う時と、ほぼ同じ顔だ。


「布を詰めれば歩けます」


 クレアが手早く内側へ古布を入れた。


「足首を紐で留めますので、脱げにくくなるかと」


「クレアまで、これが最善だと?」


「絹靴を失うよりは」


 セラフィーナは観念し、長靴へ足を入れた。


 片足を持ち上げる。


 長靴は持ち上がらなかった。


「……重いです」


「俺の足では普通なんですが」


「アレンの足と比較されましても」


 どうにか両足を収めた彼女は、玄関を一歩出た。


 歩き方が、いつもの優雅さとはまるで違う。


 右足を前へ出す。長靴が半拍遅れてついてくる。左足も同じだ。


 ガレスが馬を引きながらやって来て、ぴたりと止まった。


「何をしている」


「領地視察です」


「新しい軍事訓練かと思った」


「失礼ですね」


 セラフィーナがきっぱり答える。


 ただし、長靴のせいで威厳は半分ほど泥へ沈んでいた。


 最初の畑までは、領民の家々が並ぶ道を歩いた。


 子どもたちが珍しそうについてくる。


「お姉ちゃん、靴が大きいね」


「必要な装備です」


「歩きにくそう」


「問題ありません」


 そう答えた直後、長靴の先が小石へ引っかかった。


 俺は慌てて腕を支える。


「大丈夫ですか」


「……問題ありません」


 先ほどより声が小さい。


 クレアは口元を押さえ、ガレスは露骨に笑っている。


「笑うな、ガレス」


「笑ってない。春の空気がうまいだけだ」


「ずいぶん腹から春を吸うんですね」


 畑へ着くと、セラフィーナの表情が変わった。


 道具にも泥にも不慣れだが、現場を見る目は鋭い。


 芽を出したばかりの麦を傷つけないよう畦へ上がり、用水路の流れを確認する。


「上流の畑へ水が偏っています」


 彼女が言った。


 近くにいた農夫が帽子を取る。


「下の畑は地面が低いんで、雨が降れば水がたまります。だから普段は少なくしてるんです」


「雨が降らない時は?」


「井戸から運びます」


「何往復ほど?」


「家族で日に十五回くらいです」


 セラフィーナは用水路と畑の高低差を見る。


「水門を一つ増やせば、晴天時だけ下流へ流せます。雨の前に閉じる仕組みにすれば、運ぶ回数を減らせるでしょう」


 農夫が困ったように笑った。


「理屈はそうなんですが、水門を作る木材が」


「壊れた荷車の板は使えませんか」


 俺が尋ねる。


「倉庫に二台分あります。車輪は直せませんが、板なら削って使えるかと」


「では、職人に見てもらいましょう」


 セラフィーナはすぐにうなずいた。


「費用を計算します。労働日数と、井戸から水を運ぶ時間を比べれば、優先順位を決められます」


 農夫は俺と彼女を交互に見た。


「公爵令嬢様が、うちの畑の水運びまで考えてくださるんですか」


「今は公爵家を離れております」


「じゃあ、何とお呼びすれば」


 セラフィーナは一瞬言葉に詰まった。


「セラフィーナで構いません」


「呼び捨ては無理ですよ」


 農夫が慌て、周囲から笑いが起きる。


 彼女は戸惑いながらも、少しだけ笑った。


 別の農婦が、用水路の脇に積まれた石を指した。


「去年も水門を作ろうとしたんですが、上の畑の人に水を取られると心配する家が多くて」


 セラフィーナはすぐに答えを出さず、上流と下流の家から一人ずつ話を聞いた。


「水量そのものより、誰かが勝手に操作できることへの不安なのですね」


「ええ。夜のうちに開けられたら、わかりませんから」


「ならば鍵ではなく、開閉が遠くから見える印を付けましょう。隠して操作できない仕組みの方が、疑いを減らせます」


 俺は感心した。


「制度だけでなく、喧嘩まで見ているんですね」


「正しい仕組みでも、信じられなければ使われません」


 彼女は泥のついた長靴を見下ろす。


「現場へ来なければ、帳簿には書かれない不安でした」


 長靴は大きすぎたが、彼女を領民の声が聞こえる場所まで連れてきてくれたらしい。


 視察を続けるうちに、長靴の扱いにも慣れてきた。


 少なくとも、本人はそう思っていたらしい。


「この先も確認しましょう」


 セラフィーナが畦から降りる。


 右足を泥へ置いた。


 長靴が沈んだ。


 左足を前へ出す。


 右の長靴だけが、泥に残った。


 靴下の足で一歩踏み出しかけた彼女を、俺は腰を支えて止めた。


「動かないでください!」


「ですが、長靴が」


「回収します。先に足を戻して」


「戻せる場所がありません」


 俺は彼女を畦の乾いた場所へ押し上げようとした。


 その拍子に、俺自身の足が滑った。


「うわっ」


 今度はセラフィーナが俺の腕をつかむ。


 二人で危うく泥へ倒れかけ、ガレスが背後から俺の襟をつかんだ。


「領主代理が二人まとめて畑へ埋まるな」


「二人って何だ」


「見たままだ」


 農夫たちが堪えきれず笑い出した。


 子どもたちも笑っている。


 俺は泥だらけの片膝を見下ろした。


 セラフィーナは片足だけ長靴、もう片方は靴下のまま、俺の腕へつかまっている。


 彼女なら不快に思うかもしれない。


 そう考えて顔を見ると、青い瞳が丸くなっていた。


 次の瞬間。


「ふふっ」


 小さな笑い声がこぼれた。


 セラフィーナは自分の姿を見て、もう一度笑った。


「これは……たしかに、絹靴では無理ですね」


 領民たちの笑い声へ、彼女の笑い声が混じる。


 誰も公爵令嬢を嘲ってはいない。


 同じ泥に足を取られた仲間として笑っている。


 それが伝わったのだろう。


 セラフィーナは、笑うのをやめなかった。


「長靴を救出します」


 俺が泥へ手を伸ばすと、彼女が袖をつかんだ。


「今度は縄を使ってください。アレンまで埋まれば、視察が終わります」


「正しい判断です」


 縄を掛け、三人がかりで長靴を引き抜いた。


 泥から大きな音がして、長靴が飛び出す。


 泥水が俺とガレスへかかった。


 セラフィーナがまた笑った。


 その日、視察は予定よりずいぶん長引いた。


 それでも彼女は馬車へ戻ろうとしなかった。


「次の畑へ行きましょう」


「歩けますか」


「今度は長靴を紐で強く留めます」


「無理はしないでください」


「無理ではありません。改善です」


 彼女は泥のついた裾を持ち上げ、領民たちと並んで歩き出した。


 王都の絹靴では辿り着けなかった場所へ、俺の大きすぎる長靴で。


 少し不格好に。


 けれど、楽しそうに。

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