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婚約破棄された公爵令嬢を辺境へ連れ帰ったら、俺の領地が王国で一番幸せになりました!?  作者: ぱるめりあ
第十部 アレンの国を取り戻す

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112/113

第112話 ただ、あなたに会いたかった

 暁の鐘が鳴る前に、独房の扉が開いた。


「時刻です」


 看守の声は静かだった。


 私は立ち上がる。


 灰色の処刑衣。


 飾りはない。


 左手には、アレンから受け取った指輪だけが残されている。


 髪は後ろで一つに結ばれていた。


 外からは見えない内側に、結婚式と同じ編み込みがある。


 クレアが、最後に結ってくれたもの。


 指先で触れる。


 小さな編み目は、まだ崩れていない。


 昨夜、クレアは私の名を呼んだ。


 大統領でも、罪人でもない。


 ただのセラフィーナとして。


 だから私も、今だけは役職を持たずに歩こうと思った。


 鎖が手首へ掛けられる。


 短い鎖だった。


 歩幅を合わせれば、引かれない。


 王宮の地下から地上へ上がると、空は白かった。


 初夏には珍しい濃い霧が、王都を覆っている。


 道の両側には、人々が立っていた。


「人殺し!」


「息子を返せ!」


「悪女!」


 声が飛ぶ。


 石を投げようとする者を、警備兵が止めていた。


 私は顔を上げたまま歩く。


 謝罪を叫ばない。


 赦しも求めない。


 聞こえた声を、聞こえなかったことにしないために。


 母親の胸へ顔を埋めて泣く子どもがいる。


 喪章を巻いた老人がいる。


 私を見ず、ただ地面を見つめている若者がいる。


 彼らが失った人々を、私は戻せない。


 私の悲しみは、彼らの悲しみを小さくしない。


 広場が見えた。


 アレンが撃たれた場所。


 あの日の記念祭の壇はなく、同じ石畳の上に断頭台が組まれている。


 朝日は、あの日と同じ方角から差していた。


 違うのは、彼がいないことだけだった。


 足が止まりかける。


 鎖が鳴る。


「歩けますか」


「はい」


 私は一歩を踏み出す。


 あの日、私は血まみれのアレンを抱きながら、家へ帰ろうと言った。


 帰れば間に合うと思っていた。


 あの家なら、彼を死なせないと思っていた。


 けれど、私たちは帰れなかった。


 そして私は、その日からずっと、帰る場所を間違え続けた。


 断頭台の前列に、マリアンヌ様がいた。


 黒い服を着ている。


 その隣にはクレア。


 家族肖像画を布で包み、胸へ抱えている。


 二人と目が合った。


 誰も手を振らない。


 笑わない。


 大丈夫とも言わない。


 それでよかった。


 階段は七段。


 一段ずつ上る。


 木の板へ鎖が当たり、小さく鳴る。


 風が髪を揺らす。


 見えない編み込みは、ほどけない。


 壇の上から、王都が見えた。


 屋根。


 鐘楼。


 市場へ続く道。


 かつて私は、この国のすべてを守らなければならないと思った。


 すべてを把握し、すべてを決め、すべての失敗を防がなければならないと。


 けれど今、私が見ているのは国ではなかった。


 クレアの濡れた頬。


 マリアンヌ様の震える唇。


 アレンが倒れた石畳。


 それだけだった。


 法務官が判決文を開く。


「被告、セラフィーナ・ローゼンフェルト」


 かつて何万人もの前で命令を下した私の名前が、今は一人の被告として読み上げられる。


「議会の軍事的解散、違法拘束、秘密警察による人権侵害、違法な処刑、内戦継続その他の罪により、死刑判決が確定しています」


「はい」


「判決への異議は」


「ありません」


「弁明は」


「ありません」


「言い残すことは」


 広場へ風が吹いた。


 私の髪の内側で、結婚式の日の編み目が触れる。


 私は、長い間、自分を公爵令嬢だと思っていた。


 役に立たなければ捨てられる人間だと思っていた。


 アレンに救われてからは、彼の妻になった。


 彼を失ってからは、彼の理想を守る者になろうとした。


 やがて大統領になり、国そのものになろうとした。


 けれど、どれも今は残っていない。


 家名も。


 地位も。


 権力も。


 正しさも。


 最後に残ったのは、一つだけだった。


 私は、アレンを愛している。


 ただ、それだけだった。


「私は、多くの人を傷つけました」


 声は震えなかった。


「悲しかったからでは、許されません。愛していたからでも、許されません」


 広場は静かだった。


「私の命で、失われた命が戻るとは思っていません。それでも、私は逃げません」


 法務官は黙っている。


 私は被害者たちへ頭を下げた。


 赦しを求めるためではない。


 私がしたことを、最後まで私の罪として持っていくために。


 顔を上げる。


 もう、国へ向けて話す言葉はなかった。


 最後の言葉は、一人の人へだけ届けたかった。


「アレン」


 その名を呼んだ瞬間、胸の中に閉じ込めていたものが崩れた。


「あなたに、会いたい」


 声が震える。


 もう止められなかった。


「私は、国を守りたかったのではありません」


 涙が頬を伝う。


「あなたがいないことを、認めたくなかっただけです」


 広場の誰も動かない。


 私は続けた。


「あなたが死んだ後も、あなたの法律に触れていれば、あなたの椅子に座っていれば、あなたの国を守っていれば……まだ、あなたと一緒にいられる気がした」


 息が乱れる。


「でも、違いました」


 言葉が喉に詰まる。


「私は、あなたが帰ってくる場所を守っていたのではありません。あなたが帰ってこない世界を、力ずくで止めようとしていただけです」


 クレアが口元を押さえる。


 マリアンヌ様は涙を拭わない。


「私は、ただ悲しめばよかった」


 声が子どものように崩れた。


「あなたがいなくて寂しいと。会いたいと。帰ってきてほしいと。そう言えばよかった」


 指輪を握る。


「私は、公爵令嬢でなくてもよかった。大統領でなくてもよかった。国を救う者でなくてもよかった」


 涙で、広場が滲む。


「あなたの隣で、朝の紅茶を飲みたかった」


 ただ、それだけ。


「市場で、また似合わない髪飾りを選んでほしかった」


 それだけだった。


「雨漏りの音を聞きながら、同じ部屋で眠りたかった」


 それだけでよかった。


「帰ったら、おかえりと言ってほしかった」


 胸が裂ける。


「私は、ただあなたの妻でいたかった」


 誰かが泣く声がした。


 誰の声かは、わからない。


「アレン」


 もう一度、名を呼ぶ。


「あなたに、会いたい」


 法務官が目を伏せた。


 処刑人が位置へつく。


 私の目には布を巻かない。


 希望しなかった。


 最後まで、朝の光を見ていたかった。


 断頭台の前へ膝をつく。


 首を、冷たい木の窪みへ置く。


 頬へ触れる木は、夜露で濡れていた。


 処刑人が革帯を締める。


 肩が動かないよう、背を押さえられる。


 これで、もう逃げることはできない。


 逃げるつもりもなかった。


 視界の端に、クレアが見える。


 彼女は肖像画を抱き締めている。


 マリアンヌ様は、私を見ている。


 私は二人へ、ほんの少しだけ笑った。


 うまく笑えたかは、わからない。


 心の中で、別れを告げる。


 ありがとう。


 ごめんなさい。


 さようなら。


 処刑人が縄を握る。


 滑車が軋む。


 断頭台の上で、重い刃が朝の光を反射した。


 その瞬間、不思議なほど鮮明に、アレンの顔を思い出した。


 初めて私を庇った夜の、怖さを隠しきれない顔。


 泥道で私の靴を拾った時の、困った笑顔。


 熱を出して、私がいるから家へ帰るのが楽しみだと言った顔。


 結婚式の日、何も言わずに私だけを見ていた顔。


 最後に、帰ろうと言った顔。


 私は目を閉じなかった。


「アレン」


 縄が放された。


 刃が落ちた。


 鋭い衝撃が首を走り、私の命は、その瞬間に終わった。


 世界が白く弾ける。


 痛みは一瞬だった。


 光が上下を失う。


 鐘の音が遠ざかる。


 クレアの叫びも。


 マリアンヌ様の泣き声も。


 すべてが、白へ溶けた。


 私の身体は広場に残った。


 けれど、私は白い霧の中にいた。


 足元はない。


 空もない。


 時間もない。


 それでも、私は立っている気がした。


 遠いところで、旗が裂ける。


 議場が再び争いに満ちる。


 国境を、外国の兵が越える。


 マリアンヌ様が国を追われる。


 アニエスが商隊を率いて、飢えた村へ最後の穀物を運ぶ。


 クレアが、家族肖像画を抱いてハルフォードへ帰る。


 国は壊れた。


 私が守ると言った国は、私の死でも元には戻らなかった。


 それでよかったとは思わない。


 すべてを償えたとも思わない。


 けれど、その像さえ霧へ消えると、もう何も残らなかった。


 大統領の名も。


 公爵令嬢の家名も。


 悪女という呼び名も。


 罪人という判決も。


 ただ一人の女性だけが残った。


 アレンを愛した、私だけが。


「アレン」


 呼ぶ。


 返事はない。


 白い霧が動く。


 遠くに、人影が見えた。


 背中。


 少し猫背で、歩く時に右肩がわずかに下がる。


 見間違えるはずがない。


「アレン!」


 私は走った。


 地面はない。


 足もない。


 それでも、走る。


 彼の背中は、白い光へ向かっている。


「待ってください!」


 振り向かない。


 距離は縮まらない。


「私です!」


 声が霧へ吸われる。


「セラフィーナです!」


 返事はない。


 その名では届かないのかもしれない。


 公爵令嬢の名前だから。


 大統領の名前だから。


 罪人として裁かれた名前だから。


 けれど、彼だけが呼んでくれた、もう一つの名前を、私は自分では口にできなかった。


 あれは、彼から与えられたものだった。


「私は、あなたの国を壊しました」


 背中は止まらない。


「あなたの友人を傷つけました」


 霧が濃くなる。


「あなたの名を使いました」


 声が裂ける。


「愛していると言いながら、あなたが守ろうとしたものを壊しました」


 彼は振り向かない。


 私は手を伸ばす。


 届かない。


「赦してほしいのではありません」


 嘘だった。


 心のどこかでは、赦してほしい。


 抱き締めてほしい。


 もう苦しまなくてよいと言ってほしい。


 おかえりと。


 あの頃のように。


 それでも、罪をなかったことにはできない。


 だから私は、正しい言葉を探すのをやめた。


「私は、ただあなたに会いたかった」


 霧の中で、初めて本当の言葉だけが残った。


「国よりも」


 一歩。


「正しさよりも」


 また一歩。


「私の命よりも」


 距離は縮まらない。


「あなたに会いたかった」


 涙があるのかは、わからない。


 それでも、泣いている。


「一度だけでいいのです」


 彼の輪郭が薄くなる。


「振り向いてください」


 肩が光へ溶ける。


「私を見てください」


 髪が白へ消える。


「もう一度だけ、私の名前を呼んでください」


 指先まで、光へ消えようとしている。


「一人にしないで」


 命令ではない。


 大統領の声でもない。


 ただ、愛する人を失った女の声だった。


 彼の背中が消える。


 私は最後の力で、手を伸ばした。


 届かない。


 それでも、呼ぶ。


「ただいま、アレン」


 白い虚空が、初めて震えた。


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