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婚約破棄された公爵令嬢を辺境へ連れ帰ったら、俺の領地が王国で一番幸せになりました!?  作者: ぱるめりあ
第十部 アレンの国を取り戻す

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111/113

第111話 あなたの髪を結う夜

 処刑前夜の独房へ、クレアは櫛と、小さな布包みを抱えて入ってきた。


 看守が一つずつ中身を確かめる。


 木の櫛。


 柔らかな布紐。


 白い下着と、厚手の靴下。


 危険なものは、何もなかった。


「面会は一時間です」


「承知しました」


 扉が閉じる。


 鉄の錠が噛み合う音がした。


 クレアは、その音を聞かなかったような顔で、私の前へ立った。


「お髪を整える許可をいただけますか」


「明日のために?」


「はい」


「必要ありません」


「朝は風が出ます。乱れた髪が目に入れば、歩きにくくなります」


「処刑台までの距離は短いでしょう」


「短くても、転ばない方がよろしいです」


「見苦しいから?」


「痛いからです」


 私は答えられなかった。


 クレアは椅子を引いた。


 王宮にあったものとは違う、背もたれの低い粗末な椅子だった。


「いつものお支度です」


「いつもではありません」


「はい」


 否定しながら、私は座った。


 独房には鏡がない。


 クレアが背後へ回り、櫛を入れる。


 銀色の髪を、根元からゆっくり梳いていく。


 絡まりを見つけるたび、無理に引かず、指先でほどく。


「痛みますか」


「いいえ」


「強ければ、お申しつけください」


「はい」


 何百回も交わした言葉だった。


 追放された夜も。


 ハルフォード領へ着いた朝も。


 結婚式の日も。


 私が大統領を名乗った、あの夜も。


 クレアの手だけは、いつも同じように私の髪へ触れた。


 私がどれほど変わっても。


 彼女がどれほど私を止めようとしても。


 その手は、髪を乱暴に引いたことが一度もなかった。


「こちらへお召し替えください」


 布包みから、白い下着と靴下が取り出される。


「処刑衣の下まで整えるのですか」


「汗を吸います」


「朝は涼しいでしょう」


「恐怖を感じると、体温は変わります」


 クレアは淡々と言った。


 明日の朝、私が恐怖を感じることを、隠さなかった。


 大丈夫だとも言わなかった。


「靴は?」


「歩きやすいものを用意しました」


「もう、どこへも行かないのに」


「最後まで、足は痛めない方がよろしいです」


 最後まで。


 その言葉だけが、部屋の中へ落ちた。


 私は着替えた。


 クレアは背を向けて待っていた。


 以前なら当然だった気遣いが、今夜は胸に刺さる。


「食事は召し上がりましたか」


「パンを半分」


「少なすぎます」


「明日の朝に残しておこうかと」


 口にしてから、間違いに気づいた。


 明日の朝食はない。


 クレアの肩が、わずかに揺れた。


 けれど、彼女は振り返らなかった。


「では、今夜もう少し召し上がってください」


 看守へ頼み、薄いスープを持ってこさせる。


 私は拒まなかった。


 最後の食事だからではない。


 クレアが、いつものように私の身体を心配したからだ。


 温かなスープを飲み終えると、彼女はもう一度、私の背後へ立った。


「結い方は、いかがいたしましょう」


「簡素にしてください」


「承知しました」


「結婚式と同じものは、やめてください」


 櫛が止まった。


「はい」


「私は、あの姿を使う資格がありません」


 クレアは反論しなかった。


 あなたは今でもアレン様の妻です、とも。


 愛されたことまで失う必要はありません、とも言わない。


 ただ、髪を梳く。


「白百合もありません」


「用意しておりません」


「銀の葉の髪飾りも」


「証拠品庫にございます」


「そうでしたね」


 アレンが、初めての市場で選んでくれたもの。


 私に似合うと思ったから、と。


 たったそれだけの理由で買われた、私の最初の宝物。


「髪は下ろしたままで」


「風で絡みます」


「では、一つに束ねてください」


「承知しました」


 クレアは髪を後ろへ集めた。


 外から見れば、ただの一つ結びになるはずだった。


 だが、指が髪の内側へ入り、細い束を三つに分ける。


「何をしているのですか」


「崩れにくくしております」


「見えますか」


「外からは、何も」


 指先が、左右の束を交差させていく。


 見えなくてもわかった。


 結婚式の朝、白百合を留めるために作った編み込みだった。


「クレア」


「はい」


「同じですね」


「外から見える形は違います」


「内側は?」


 答えはなかった。


「私は花嫁の姿で死ぬべきではありません」


「花嫁の姿にはいたしません」


「なら、なぜ」


 クレアの指が止まる。


 鏡はない。


 私は彼女の顔を見ることができない。


「私は罪人として裁かれました」


「はい」


「大統領として、法を壊しました」


「はい」


「アレンの名を使って、人々から自由を奪いました」


「はい」


「彼が守ろうとしたものまで、壊しました」


「はい」


 一つも否定しない。


 クレアは、私を慰めるために真実を曲げなかった。


「それでも、なぜ」


 布紐が結ばれる。


 きつくもなく、緩くもない。


 いつもの強さだった。


「アレン様だけには、分かっていただけます」


 息が止まった。


「何を?」


「セラフィーナ様が、愛されていたことを」


「それは罪を許す理由にはなりません」


「はい」


「アレンの赦しを、あなたが決めることもできない」


「はい」


 クレアは、私の肩へそっと手を置いた。


「ですが、愛された記憶まで処刑される必要はございません」


 声が震えていた。


 初めてだった。


 今夜、彼女の声が崩れたのは。


「罪は、明日裁かれます。セラフィーナ様も、その判決から逃げないと決められました」


「ええ」


「だから、せめて誰にも見えないところに、あの日の編み目を残させてください」


「なぜ、あなたが泣くのですか」


「泣いておりません」


「嘘です」


「……はい」


 クレアの涙が一滴、私の手の甲へ落ちた。


 温かかった。


「外してください」


 私は言った。


 クレアの指が結び目へ触れる。


 すぐにほどこうとする。


「……待って」


 指が止まった。


「そのままにしてください」


「はい」


「誰にも見えないのですね」


「はい」


「アレンにしか、わからない」


「はい」


 私は目を閉じた。


 結婚式の日。


 白百合が多すぎると笑った。


 マリアンヌが勝手に花を足し、アニエスが足りないよりよいと言い張り、ガレスは入口で泣いていないと怒鳴っていた。


 そしてアレンは、何も言わず、私を見ていた。


 私も彼だけを見ていた。


 あの日だけは、国も、法律も、未来も、私たちの間へ入れなかった。


「私も、彼だけを見ていればよかった」


 声にすると、胸の奥が裂けた。


「ずっと、彼だけを見ていればよかった。国を守るなどと言わず、あの家へ帰ればよかった。彼の椅子に座らず、彼の名前を使わず、彼がいないと泣いていればよかった」


「セラフィーナ様」


「私は、悲しいだけでいればよかったのです」


 涙が膝へ落ちる。


「なのに私は、悲しむことすら失敗だと思った。立たなければならない、守らなければならない、二度と間違えてはならないと……そう言い続けて、皆から間違える自由まで奪った」


 クレアは何も言わない。


 沈黙を、私から取り上げない。


「アレンに会いたかっただけなのに」


 ようやく口にできた。


「もう一度、声を聞きたかっただけなのに。帰ろうと言ってほしかっただけなのに。私は、どうしてこんなに遠くまで来てしまったのでしょう」


 背後から、腕が回された。


 クレアが、椅子に座る私を抱き締めていた。


 侍女が主人へする抱擁ではなかった。


 髪を崩さないように気遣いながら、それでも離すまいとする、ひどく不器用な抱擁だった。


「私を憎んでいますか」


「はい」


 迷いのない返事だった。


「政治犯を救うため、あなたが名簿を流したことを知りながら、私は止められませんでした」


「そのことを憎んでいるのではありません」


「では」


「私を、あなたへ背かせたことを憎んでおります」


 クレアの腕が震える。


「あなたを守りたい私と、人々を見捨てられない私を、別々の人間にしてしまったことを」


「ごめんなさい」


「はい」


「あなたに、そんな選択をさせてしまった」


「はい」


「それでも、あなたは残った」


「はい」


「なぜですか」


 長い沈黙のあと、クレアは私の肩へ額を押しつけた。


「あなたを一人にしたくなかったからです」


 私は唇を噛んだ。


「私は、もう守られる資格など」


「資格の話をしているのではございません」


 かつて私が、同じ言葉を聞いた気がした。


 役に立つかどうかではない。


 正しいかどうかでもない。


 そこにいてよいと言ってくれた人がいた。


 私は、その人のいない世界で、同じことを誰にも言えなくなった。


「私も、あなたを憎んでおります」


 クレアが続ける。


「そして、それでも愛しております」


 目を開けた。


「主として?」


「いいえ」


「では、何として」


「友人として」


 私は椅子から立った。


 振り返る。


 クレアの顔は涙で濡れていた。


 いつも一筋の乱れもなかった表情が、子どものように崩れている。


「主従の礼は、やめましょう」


「はい」


「今夜だけではなく、もう二度と」


 クレアの唇が震えた。


「はい」


 彼女は膝をつかなかった。


 私も手を差し出さなかった。


 代わりに、もう一度抱き合った。


 クレアの肩は細い。


 この細い肩へ、私はあまりにも多くを載せていた。


「申し訳ありませんでした」


「はい」


「ありがとう」


「はい」


「私が死んだ後、肖像画をハルフォードへ」


「お持ちします」


「銀の葉も」


「肖像画のそばへ置きます」


「指輪は、アレンの墓へ」


「承知しました」


「私の部屋は」


「片づけます」


「何も残さなくてよいのです」


「それは聞けません」


「クレア」


「あなたが笑っていたものまで、捨てさせないでください」


 彼女は涙を拭わずに言った。


「罪だけを持ち帰るつもりはございません。市場で髪飾りをつけてもらったことも、誕生日のケーキを失敗したことも、若奥様と呼ばれて困った顔をなさったことも、全部ハルフォードへ持ち帰ります」


「皆は、私を許さないでしょう」


「許すかどうかは、皆が決めます」


「ええ」


「ですが、あなたが幸せだったことは、私が覚えています」


 胸の奥から、声にならない息が漏れた。


 私はクレアの肩へ顔を伏せた。


 泣き方を忘れたと思っていた。


 違った。


 泣けばアレンが戻らないと知っていたから、泣くことを許さなかっただけだった。


 クレアの服を濡らしながら、私は何度も謝った。


 アレンに。


 クレアに。


 マリアンヌに。


 ガレスに。


 アニエスに。


 名前を知らない、あまりにも多くの人々に。


 クレアは一度も、もうよいとは言わなかった。


 ただ、私を抱いていた。


 やがて、扉が叩かれた。


「時間です」


 クレアの腕が強くなる。


 ほんの一瞬だけ。


 それから、ゆっくり離れた。


「クレア」


「はい」


「最後に、一つお願いがあります」


「何でしょう」


「私の名前を呼んでください」


 彼女は息を呑んだ。


「いつもの呼び方ではなく」


「……承知しました」


 クレアは涙の向こうから、まっすぐ私を見る。


「セラフィーナ」


 たった一度。


 敬称のない私の名前が、独房の中へ落ちた。


 公爵令嬢でもない。


 大統領でもない。


 罪人でもない。


 長く同じ家で暮らした、ただ一人の友人の名前だった。


「ありがとう、クレア」


 彼女は扉へ向かう。


 看守が錠へ手をかける。


 その直前、クレアは振り返った。


「おやすみなさい、セラフィーナ」


「おやすみなさい、クレア」


 それが、私たちの最後の会話になった。


 扉が閉じる。


 足音が遠ざかる。


 やがて、何も聞こえなくなった。


 私は髪の内側へ触れた。


 指先に、小さな編み目がある。


 罪人である私と、彼に愛された私。


 どちらも、同じ髪の中に残っていた。


 暁が来るまで、私はそれをほどかなかった。


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