最終話 君に、もう一度ただいまを
白い虚空が、初めて震えた。
音にならない波が、どこまでも広がっていく。
そして、背後から声がした。
「おかえり、セラ」
私は動けなかった。
振り返れば、また消えてしまう気がした。
私の願いが作った声かもしれない。
処刑された意識が、最後に見せる幻かもしれない。
それでも、その呼び方を間違えるはずがなかった。
公爵令嬢でもない。
大統領でもない。
悪女でも、罪人でもない。
彼だけが私へくれた、短い名前。
「……今、なんと」
ようやく出た声は、ひどく小さかった。
「おかえり、セラ」
もう一度。
今度は、はっきりと届いた。
私は振り返った。
アレンがいた。
英雄の礼装ではない。
王都へ進軍した日の軍装でもない。
ハルフォード領で毎日着ていた、飾り気のない上着。
袖口には、いつも書類へ引っかけていた小さなほつれまである。
少し猫背で、困った時に眉を下げる、私が知っている人だった。
「アレン」
彼が笑った。
上手ではない笑い方だった。
嬉しい時ほど泣きそうに見える、あの顔だった。
私は駆け寄った。
白い場所に地面はない。
足も、身体も、本当は残っていないのかもしれない。
それでも私は、何度も転びそうになりながら、彼へ向かって走った。
腕を広げる。
胸へ飛び込む。
けれど、私の身体はアレンをすり抜けた。
「……あ」
振り返り、もう一度手を伸ばす。
指は彼の肩を通り抜ける。
何も掴めない。
「触れられない」
自分の声が、子どものようだった。
「やっと会えたのに」
涙が溢れた。
頬を伝ったはずの涙は、落ちる前に白い光へ消えていく。
「ずっと、ずっと会いたかったのに」
アレンも手を伸ばした。
私の頬へ触れようとする。
その指先は輪郭を通り抜け、温度を残さない。
彼の顔が歪んだ。
「会いたかった」
その一言で、私は立っていられなくなった。
膝などないはずなのに、崩れ落ちる感覚があった。
「遅くなって、ごめんなさい」
何度も頭を下げる。
「ごめんなさい。アレン。私、帰ってくるのが遅くなりました」
「うん」
「あなたが待っていた家も、国も、皆の暮らしも、私は――」
「知ってる」
声は優しかった。
けれど、私の言葉を消す優しさではなかった。
「議会を壊しました」
「知ってる」
「法を越えて、人を殺しました」
「知ってる」
「無実の人を閉じ込めました。ガレスを死なせて、アニエスを追放して、マリアンヌ様へ銃を向けました」
「全部、知ってる」
否定されない。
仕方がなかったとも言われない。
そのことが、ありがたかった。
「では、なぜ」
喉が震える。
「なぜ、私におかえりと言ったのですか」
アレンはすぐに答えなかった。
二人の間を、白い光がゆっくり流れる。
「おかえりは、許すって意味じゃない」
「……はい」
「セラがしたことが、なくなるって意味でもない」
「はい」
「俺が正しくて、セラだけが間違っていたって話にするつもりもない」
彼は一度、目を伏せた。
「俺が死んだあと、セラが何を選んだのか。それで誰が傷ついたのか。全部、消えない」
「はい」
「でも」
アレンが私を見る。
「おかえりは、会いたかったって意味だ」
声が出なかった。
「俺も、セラに会いたかった」
胸の奥で、何かが壊れた。
私は声を上げて泣いた。
処刑台でも。
法廷でも。
アレンの亡骸へ何度呼びかけても返事がなかった朝でも。
これほど泣けなかった。
「私は、国を守りたかったのではありません」
言葉が涙に混じる。
「あなたがいないことを、認めたくなかったのです」
「うん」
「あなたの法律に触れていれば、あなたの椅子に座っていれば、あなたが残した国を守っていれば……まだ、あなたと同じ場所にいられると思いました」
「うん」
「でも私は、あなたの国を守ったのではありません」
息が詰まる。
「あなたが帰ってこない世界を、力ずくで止めようとしただけでした」
アレンは黙って聞いていた。
「私は、悲しいと言えばよかった」
何度も拭っても、涙は止まらない。
「寂しいと。怖いと。あなたに会いたいと。それだけを言えばよかった」
「うん」
「公爵令嬢でなくてもよかった。国を導く者でなくてもよかった。誰かの希望でなくてもよかった」
声が崩れる。
「私は、ただあなたの妻でいたかった」
アレンが唇を噛んだ。
「朝、あなたが淹れた紅茶を飲みたかった」
「うん」
「市場で、また似合うかどうかもわからない髪飾りを選んでほしかった」
「……あれは、似合ってた」
「雨漏りの音を聞きながら、狭い部屋で眠りたかった」
「うん」
「仕事から帰ったあなたに、おかえりと言いたかった」
私は両手で顔を覆った。
「それだけで、よかったのです」
長い沈黙があった。
やがて、アレンが小さく言った。
「俺も、それがよかった」
私は顔を上げる。
「国を変えたことも、皆と作ったものも、なかったことにはしたくない」
「はい」
「でも、最後まで立派でいなきゃいけないとは思ってなかった」
彼は困ったように笑った。
「セラが疲れたと言ったら、休ませたかった。泣いたら、隣にいたかった。何もできない日だって、帰ってきてほしかった」
聞いたことのある言葉だった。
あの日、熱を出して何もできなくなった私に、アレンがくれた居場所。
私はその居場所を、彼が死んだあと、自分から捨てた。
「どうして、もっと早く言ってくれなかったのですか」
「言ったつもりだった」
「足りません」
「ごめん」
あまりにも、いつものアレンだった。
私は泣きながら笑った。
笑ったのは、彼を失ってから初めてだった。
アレンの視線が、私の髪へ向いた。
「髪、結ってもらったんだな」
息を呑む。
「見えるのですか」
「うん」
「外からは、ただの一つ結びにしか見えないはずです」
「内側だけ、結婚式の日と同じだ」
私は髪へ触れようとした。
身体のない場所なのに、指先には小さな編み目がある気がした。
「クレアが」
「うん」
「アレン様だけには、分かっていただけます、と」
アレンは目を細めた。
「クレアらしいな」
「彼女は、私の罪を許しませんでした」
「うん」
「それでも、愛された記憶まで処刑される必要はないと言ってくれました」
「そうだな」
「本当に、分かったのですね」
「分かったよ」
アレンの手が髪へ伸びる。
触れることはできない。
それでも、結婚式の朝のように、彼の指が白い花の位置を確かめる仕草をした。
「きれいだ」
たった一言だった。
私はまた泣いた。
花嫁の私を褒められたからではない。
処刑衣を着て死んだ私を、美しいと言われたからでもない。
彼が、クレアの残した編み目を見つけてくれたからだった。
「アレン」
「うん」
「あの日」
声が震える。
「あなたが撃たれた日、私の声は聞こえていましたか」
彼は黙った。
私は怖くなった。
「帰ろうと、何度も言いました。家へ帰れば間に合うと。あなたの名前を呼んで、叫んで……」
「聞こえてた」
世界が止まる。
「最後まで?」
「最後まで」
「では、私が」
「セラの声が、最後に聞こえた」
胸を押さえる。
あの日から、ずっと知りたかった。
私の声は届いたのか。
彼は一人で死んだのではなかったのか。
「帰りたかった」
アレンが言う。
「セラと家へ帰りたかった」
「私も」
「約束、守れなかったな」
「謝らないでください」
「でも」
「あなたは、私を守ってくれました」
涙で彼の輪郭が揺れる。
「帰れなかったのは、あなたのせいではありません」
「セラも、自分一人のせいにするなとは言えない」
彼は苦しそうに眉を寄せた。
「セラが選んだことは、セラの責任だ」
「はい」
「でも、俺を愛したことまで罪にするな」
私は唇を震わせた。
「その愛を使って、人を傷つけました」
「それは、セラがしたことだ」
「はい」
「でも、俺がセラを愛したことは、俺がしたことだ」
アレンはまっすぐ私を見る。
「それは俺の人生だ。セラにも、誰にも、なかったことにはさせない」
白い場所へ、色が戻った気がした。
ほんの一瞬。
朝の食堂。
欠けた陶器のカップ。
湯気の向こうで書類を読むアレン。
窓の外の畑。
雨漏りを受ける桶。
焼きすぎたパン。
食卓の向こうから聞こえる、ただいま。
すべて、もう戻らない。
戻してはいけない時間だった。
それでも、確かに存在した。
「あなたの紅茶を、何度も淹れました」
私は言った。
「同じ茶葉を量り、同じ時間だけ待って、同じカップへ注ぎました」
「うん」
「けれど、一度も同じ味になりませんでした」
アレンは少し考えた。
「俺、湯が沸くまで、いつも玄関の音を聞いてた」
「玄関?」
「セラが帰ってくるかもしれないから」
息が止まった。
「茶葉を蒸らしてる間も、今日は何を話そうか考えてた」
「そんなことを」
「だから、茶葉だけ同じでも無理だったんだな」
アレンは照れたように笑った。
「紅茶の味じゃなくて、セラを待ってた時間の味だった」
私はもう、まともに息をすることもできなかった。
「会いたかったのです」
「うん」
「毎日、会いたかった」
「俺も」
「朝も、夜も、目を閉じるたびに」
「俺もだよ」
「一度だけでいいから、もう一度名前を呼んでほしかった」
アレンが私を見る。
「セラ」
短い名前。
彼だけが私へくれた名前。
役に立たなければ愛されないと思っていた少女を、家へ迎え入れてくれた名前。
「はい」
「セラ」
「はい」
「好きだよ」
その言葉は、国を救わなかった。
罪を消さなかった。
死者を戻さなかった。
ただ、私一人を泣かせた。
「私も、あなたを愛しています」
「知ってる」
「今も」
「うん」
「これから先があるのなら、その先でも」
アレンは少し悲しそうに笑った。
「先があるかは、わからない」
「はい」
「ここがどこかも、俺にはわからない」
「はい」
「永遠に一緒にいられるとも言えない」
正直な人だった。
最後まで、都合のよい奇跡を約束しない。
そのことが、彼を信じられる理由だった。
私はもう一度、手を伸ばした。
今度は抱きつこうとしない。
ただ、指先だけを近づける。
アレンも手を伸ばす。
二つの輪郭が、白い光の中で重なる。
触れない。
そう思った。
けれど、一瞬だけ。
指先へ、ひどく懐かしい温度が返った気がした。
春の日差しよりも弱く。
紅茶のカップよりも短い。
確かめようとすれば消えてしまうほど、かすかな温度。
「触れましたか」
「わからない」
「私もです」
「でも」
アレンは、指先を離さないまま言った。
「届いた」
私は頷いた。
「はい」
白い光が強くなる。
アレンの輪郭が、端から透け始めた。
「嫌です」
言葉が先に出た。
「まだ、何も話していません」
「たくさん話したよ」
「足りません」
「俺も足りない」
「では、行かないでください」
アレンは答えなかった。
肩が光へ溶ける。
私は必死に指を伸ばす。
「また、私を置いていくのですか」
「置いていくんじゃない」
「同じです」
「違う」
アレンは、消えかけた顔で笑った。
「今度は、俺も行き先がわからない」
「怖くないのですか」
「怖いよ」
その返事に、涙が溢れた。
怖いのに、怖くないふりをしない。
弱いまま、私の前へ立ってくれる。
私が愛したアレンだった。
「でも、俺は一度、セラを見つけた」
「王都の夜会で」
「うん」
「大勢の中から?」
「うん」
「なら、次も?」
問いかけた声は、祈りだった。
アレンは、最後まで私から目を逸らさなかった。
「また、いつか。きっと」
約束ではない。
保証でもない。
それでも、私たちが未来へ向けて残せる、たった一つの願いだった。
「今度こそ、必ずあなたを見つけます」
「俺も探す」
「私の方が先です」
「負けないよ」
ほんの少しだけ、昔のように笑い合った。
その笑顔まで、光へ溶けていく。
「次に会えたら」
私は叫ぶ。
「最初に、何と言えばよいですか」
アレンの声は、もう遠い。
「セラが決めていい」
「では」
私は涙を拭わなかった。
「ただいま、と言います」
アレンの姿が、ほとんど見えなくなる。
「何度離れても、何も覚えていなくても、あなたを見つけて、必ずただいまと言います」
最後に残った彼の瞳が、優しく細められた。
「じゃあ俺は、おかえりって言う」
指先の温度が消える。
アレンの輪郭が、白い光へほどけていく。
今度は背中を向けなかった。
最後の最後まで、私を見ていた。
「アレン」
「うん」
「愛しています」
「俺も」
彼の姿が消えた。
白い場所に、私一人が残る。
けれど、もう返事のない孤独ではなかった。
罪は消えない。
私が奪った命も、壊した国も、傷つけた人々も戻らない。
私は赦されたとは言えない。
それでも、愛されていなかったことにはならない。
アレンが私を愛した時間は、私の罪によって書き換えられるものではない。
クレアが残した編み目が、まだ髪の内側にある気がした。
アレンが見つけてくれた。
私が確かに花嫁だったことを。
誰かの帰りを待ち、誰かに帰りを待ってもらったことを。
私の輪郭も、少しずつ光へほどけていく。
怖くはなかった。
次の場所があるかは、わからない。
同じ時代に生まれるかも。
同じ姿で会えるかも。
もう一度名前を覚えていられるかも。
何一つ、約束されていない。
それでも私は、彼を探す。
今度は国を背負わず。
正しさを証明しようとせず。
ただ一人の女性として。
愛する人を見つけるために。
そして、いつか再び彼の前へ帰れたなら。
今度こそ、君に、もう一度ただいまを。
(完)
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
『婚約破棄された公爵令嬢を辺境へ連れ帰ったら、俺の領地が王国で一番幸せになりました!?』は、題名だけを見れば、婚約破棄から始まる辺境改革と恋愛の物語です。
実際、物語の前半では、アレンとセラフィーナが一緒に食卓を囲み、泥にまみれ、失敗し、笑いながら、小さな領地を少しずつ変えていきます。パンが一枚増えること。学校へ通えること。失敗しても帰ってきてよいと言ってもらえること。
この作品における「幸福」は、華やかな地位や大きな成功ではなく、そうした日常の中にありました。
そして、だからこそ、その幸福が失われた後を描きたいと思いました。
アレンを失ったセラフィーナは、最初から悪人になったわけではありません。彼を愛し、彼の作った国を守りたいと願い、二度と同じ悲劇を起こしたくないと考え続けました。
その願いは、決して偽物ではありません。
けれど、正しい願いから始まったとしても、恐怖によって他人の声を聞かなくなり、迷うことを弱さだと思い、一人で正しさを決めるようになれば、いつか大切なものそのものを壊してしまう。
セラフィーナの転落は、愛が消えたからではなく、愛だけが残ってしまったから始まりました。
彼女は最後まで、アレンを愛していました。
だからといって、彼女の罪が許されるわけではありません。
本作で最も大切にしたかったのは、その二つを同時に成立させることでした。
愛は、人を救うことがあります。
同時に、愛を理由に他人の自由や命を奪えば、それは免罪符にはなりません。
セラフィーナ自身が裁判でその事実を認め、責任から逃げなかったことは、彼女に残された最後の誠実さだったと思います。
一方で、私は彼女から、アレンに愛されていた事実まで奪いたくはありませんでした。
最終話で彼女に返されたものは、失われた人生でも、壊れた国でも、赦しでもありません。
ただ一つ。
彼女が確かに愛されていたという事実だけです。
それは罪を消しません。
犠牲になった人々を戻しません。
永遠の再会も保証しません。
けれど、それでも彼女が最後に「ただいま」と言える場所を、ほんの一瞬だけ残したいと思いました。
アレンとセラフィーナの物語を通して描きたかったのは、「帰る場所」についての物語でもあります。
帰る場所とは、建物ではありません。
そこに誰かがいて、自分の失敗も弱さも含めて、帰ってきてよいと言ってくれること。
アレンは、その場所をセラフィーナに与えました。
セラフィーナは、それを失ったあと、国全体を巨大な「安全な場所」に作り替えようとしました。
しかし、誰も自由に出入りできず、誰も本音を言えない場所は、もう家ではありませんでした。
幸福を守るために自由を奪う。
失敗を防ぐために迷う権利を奪う。
帰る場所を守るために、帰ってくる人を拒む。
その矛盾の果てに、彼女はすべてを失いました。
前半の明るさと、後半の悲劇は、別々の物語ではありません。
パンが一枚増えた喜びも、最後の白い虚空も、すべて同じ問いにつながっています。
人は、誰かを幸せにするために、どこまで他人の人生を決めてよいのか。
正しさは、誰のためにあるのか。
愛する人を失ったあとも、その人が大切にしていたものを守るとは、どういうことなのか。
この物語を読み終えたあと、少しでもそんなことを考えていただけたなら、作者としてこれ以上うれしいことはありません。
アレンとセラフィーナ。
クレア、マリアンヌ、ガレス、アニエス。
ハルフォード領で生きた人々。
そして、彼らの長い物語を最後まで見届けてくださった皆様へ、心から感謝申し上げます。
どうか皆様にも、帰ったときに「おかえり」と言ってくれる場所がありますように。
そして、自分から誰かへ「おかえり」と言える人でありますように。
最後まで、本当にありがとうございました。




