第108話 最後の戦い
「ガレス・ロークは必ず生け捕りにしてください」
私は三度目の命令を記した。
同じ文言。
同じ署名。
同じ印章。
最初の文書は総司令部へ。
二通目は騎馬伝令で前線指揮官へ。
三通目は予備経路として南側の連絡隊へ。
「殺害命令ではありません」
伝令へ念を押す。
「はい、大統領閣下」
「抵抗されても?」
「可能な限り拘束を」
「可能な限り、ではありません」
私は言い直す。
「殺さないでください」
伝令は一瞬だけ目を伏せた。
「承知しました」
彼は馬へ乗り、土煙の中へ消える。
王都郊外の空は、夕方前から灰色だった。
遠くで銃声が響く。
火薬の煙が畑を這い、旗の位置を隠している。
最後の大規模戦闘。
抵抗軍は北側の丘。
私の軍は街道と河岸。
戦況図の上では、線と印にすぎない。
「北連絡路が切断されました」
幕舎へ兵士が飛び込む。
「誰が」
「抵抗軍の騎兵です。伝令一名が負傷、文書は未達」
「別経路は」
「南は橋が落ちています」
「二通目は?」
「前線本部へ到着した可能性があります」
可能性。
私は机を押さえた。
「旗信号を」
「煙で見えません」
「鐘は」
「砲声に消されます」
「なら、別の伝令を」
「馬が不足しています」
「私の馬を使ってください」
兵士が息を呑む。
「閣下の退路が」
「必要ありません」
クレアが隣で外套を整えた。
「私の馬もございます」
「クレア」
「命令を届ける方が先です」
彼女は静かだった。
馬二頭が出る。
私は戦況図へ戻る。
前線からの報告は、実際より遅い。
丘を取った。
取り返された。
右翼が崩れた。
抵抗軍が民家を避けて迂回した。
こちらの兵も、畑へ火をつける命令を拒否した。
誰も完全には従わない。
それが、かつては国を救った。
今は、命令を届きにくくする。
「ガレスの位置は」
「北丘の中央部」
「負傷は?」
「不明です」
「降伏勧告を」
「すでに二度」
「もう一度」
声が硬くなる。
「私の名で」
「はい」
使者は白旗を持って出た。
戻ってきた時、旗には泥がついていた。
「返答は」
「武器を置くのは大統領府側が先だ、と」
ガレスらしい。
「生け捕り命令は伝えましたか」
「前線指揮官へは」
「本人には」
「近づけませんでした」
日が傾く。
銃声の間隔が短くなる。
抵抗軍が丘を下り、河岸の橋へ向かった。
こちらの前線指揮官は、突破を許せば王都への道が開くと判断した。
報告が届いた時には、すでに突撃命令が出た後だった。
「停止を」
「間に合いません」
「信号弾を上げてください」
「味方の攻撃合図と混同します」
「白旗を」
「前線では、抵抗軍の偽装と判断される恐れが」
どの手段にも欠点がある。
それでも命じる。
「全隊、射撃停止。ガレスを拘束せよ」
書記が筆を走らせる。
印章。
伝令。
馬。
命令は正しい形式で出る。
戦場では、人が倒れる方が速い。
前線から、負傷した伝令が担ぎ込まれた。
「文書は?」
私は彼のそばへ膝をつく。
右脚に血が滲んでいる。
「落として、いません」
彼は上着の内側から濡れた命令書を出した。
封は切れていない。
「どこで負傷を」
「北の林です。道が塞がれ、馬が倒れました」
「指揮官へ届かなかった?」
「申し訳、ありません」
「あなたの責任ではありません」
私は文書を受け取る。
印章は無傷だった。
正しい命令。
正しい経路。
正しい伝令。
それでも、到着しない。
「医師へ」
クレアが救護者を呼ぶ。
伝令は運ばれていく。
私は濡れた封筒を机へ置いた。
紙は、戦場より弱い。
命令は、人が運ばなければ何も変えない。
夕日が煙の向こうへ沈む直前、銃声が急に減った。
勝敗が決まった時の静けさだった。
「報告」
幕舎へ入った兵士の顔で、先にわかった。
「北丘を確保しました」
「ガレスは」
兵士は答えない。
「ガレス・ロークは」
「戦死を確認しました」
音が消える。
幕舎の布が風で揺れている。
クレアが私の腕へ触れた。
「命令は?」
声が自分のものに聞こえない。
「前線本部へは、戦闘終結後に到着しました」
「二通目は」
「伝令が途中で負傷し、文書は回収されました」
「三通目」
「落橋で迂回中でした」
「口頭命令は」
「現場指揮官へ届きませんでした」
私は立っている。
倒れない。
質問を続ける。
「誰が撃ったのですか」
「複数の兵です。ガレス隊長が退路を守り、投降勧告を拒否したため」
「殺せと命じた者は」
「特定の殺害命令はありません」
「現場指揮官は」
「突破阻止を命じました」
私が直接殺したのではない。
私は生け捕りを命じた。
何度も。
経路も増やした。
それでも、彼は死んだ。
「遺体を」
言葉が詰まる。
「丁重に扱ってください」
「はい」
「抵抗軍の負傷者も同じです」
「はい」
「捕虜へ報復をしないように」
「承知しました」
兵士が退室する。
私は戦況図を見る。
北丘の印が、こちらの色へ変えられている。
勝利。
王都への道は守られた。
ガレスは死んだ。
何も同じ紙へ書くべきではない。
日没後、私は遺体の確認へ行こうとした。
「おやめください」
前線指揮官が止める。
「損傷が」
「本人だと確認したのですね」
「はい。部下二名と、抵抗軍の捕虜が」
「なら、私も」
「セラフィーナ様」
クレアの声。
生者の誰も、短い名前では呼ばない。
私は幕舎の入口で止まった。
「顔は、見られますか」
指揮官は答えに詰まる。
「はい。ただ」
「なら、見ます」
白布を開く。
ガレスの顔。
眉間にいつもの皺がある。
眠っているようには見えない。
戦って、苦しみ、死んだ顔だった。
「命令が、遅れました」
私は言った。
彼は返さない。
「あなたは、帰らなかった」
返さない。
「私も」
その先を言えなかった。
布を戻す。
指揮官は謝罪しようとした。
「あなた個人へ、殺人の責任を押しつけません」
私は遮る。
「命令系統と戦況を調査してください」
「はい」
「ですが、戦争継続を決めた責任は、私にあります」
声にした。
記録官が筆を止めた。
「そのまま書いてください」
夜、遺品確認の幕舎へ入った。
剣。
擦り切れた手袋。
水筒。
アレンの旧い守備隊章。
血のついた布袋。
無名の兵士が一つずつ並べている。
「これが、胸元から」
小さな紙片が差し出された。
折りたたまれ、端は泥で黒い。
血も染みている。
私は両手で受け取った。
開く。
家族肖像画の写しだった。
大きな絵を、簡単な線で写したもの。
お父様。
アレン。
私。
クレア。
ガレス。
アニエス。
マリアンヌ様。
全員の顔が、傷の間からわかる。
「いつから持っていたのですか」
「わかりません」
兵士は答える。
「防水布に包まれていました」
私の顔の上へ、赤い染みがある。
ガレス自身の血かもしれない。
アレンの顔は、折り目で半分に分かれている。
私は指で紙を伸ばした。
「捨ててください、と言われた物は」
「ありません」
「手紙は?」
「ございません」
言葉はない。
遺言も。
ただ、肖像画だけ。
敵になっても、家族を持っていた。
私は彼を家から消したのに。
彼は、私を消さなかった。
「大統領閣下」
「少し、一人にしてください」
兵士が下がる。
クレアは残った。
何も言わない。
「私が殺したのではありません」
口から出る。
クレアは答えない。
「生け捕りを命じました」
「はい」
「三通も」
「はい」
「届かなかった」
「はい」
「なら、私の命令ではありません」
「はい」
肯定されるたび、逃げ道がなくなる。
「それでも、私の戦争です」
クレアの指が、私の肩へ触れる。
「はい」
私は紙片を胸へ抱いた。
泣き声は出なかった。
涙だけが、泥の上へ落ちる。
「ガレス」
呼んでも返事はない。
アレンと同じ。
皆、返事をしなくなる。
幕舎の外で、馬が駆け込む音がした。
「緊急報告!」
兵士が扉の前で叫ぶ。
「抵抗軍の別働隊が王都外門を突破! マリアンヌ・アルヴェリアが王宮へ入城しました!」
私は肖像画の紙片を折り直す。
捨てない。
胸元へ入れる。
ガレスが持っていた場所と同じところへ。
「王宮へ戻ります」
クレアが外套を持つ。
最後の一人が、私を止めに来る。




