第107話 ガレスの停戦交渉
中立地帯に選ばれたのは、王都と北街道の境にある古い関所だった。
石造りの小さな建物。旗は外され、門も開け放たれている。
私の護衛は東側に。
抵抗軍の護衛は西側に。
互いに矢の届かない距離まで下がり、関所の中へ入ったのは私とガレスだけだった。
卓の上には、停戦案が二通置かれている。
私が用意したもの。
彼が持ってきたもの。
どちらにも、アレンの名はない。
「痩せたな」
ガレスが最初に言った。
「停戦交渉の冒頭として、適切ではありません」
「外交官じゃないんでな」
「存じています」
彼も痩せていた。
肩の古傷を庇う癖が強くなり、髪には白いものが混じっている。
それでも、私を見る目は昔と同じだった。
ハルフォード領の食堂で、アレンの無茶を叱っていた頃と。
「まず軍事条件を」
私は書類を開く。
「抵抗軍は王都北部から撤退。武器を登録し、指揮官を除く兵士には帰郷を認めます」
「指揮官は?」
「裁判です」
「俺もか」
「はい」
「処刑?」
「判決は裁判所が決めます」
ガレスは鼻で息を吐いた。
「まだ、そう言うのか」
「法を捨てたつもりはありません」
「議会を軍で解散しておいて?」
私は返さなかった。
「こちらの条件は単純だ」
彼は自分の案を押す。
「終身大統領制を廃止。議会を再招集。秘密警察を解体。政治犯を釈放。お前は公職を退く」
「国家が分裂します」
「今もう分裂してる」
「私が退けば、各地の軍閥が動きます」
「お前が残ってるから動いてる連中もいる」
「爆破組織は?」
「通常法で追う」
「間に合わなければ?」
「その時は責任を取る」
「死者は戻りません」
「知ってる」
ガレスの声が低くなる。
「あいつが戻らないことくらい、知ってる」
卓の上の紙が、風で少し鳴った。
「アレンの死を、無意味にできません」
「誰もそんなこと言ってない」
「私が退けば、彼が作った国は終わります」
「もう終わらせたのはお前だ」
胸の内側へ、刃が入る。
「二人で作った国を、今のお前が潰した」
「守るためです」
「守るって言えば、何をしても守ったことになるのか」
「私が止めなければ、学校も病院も」
「死んだ。知ってる」
ガレスは目を逸らさなかった。
「だからって、国中を檻に入れたら、次は誰も学校へ行けなくなる」
「危険を取り除けば、制限は解除します」
「いつだ」
「条件が整えば」
「その条件を決めるのもお前だろ」
私は書類を閉じた。
「この話は、議会でもしました」
「議会はもうない」
短い沈黙。
彼の言葉は、どれも正しいところを含んでいる。
けれど、正しさだけでは国は守れない。
「ハルフォード領は」
ガレスが話題を変えた。
私は顔を上げる。
「何ですか」
「春蒔きが終わった」
「報告は受けています」
「北畑の水路、また詰まった」
「修繕費は」
「金の話じゃない」
「では」
「村の連中が、全員で泥を掻き出した」
彼は窓の外を見る。
「お前が最初に見た水門も、まだ動いてる」
胸の奥に、泥の匂いが戻る。
大きすぎる長靴。
抜けた片足。
笑う子どもたち。
「学校は再開した。縫製室も」
「知っています」
「料理長は、今でもお前の皿を出す」
「不要です」
「毎日じゃない。祭りの日だけだ」
声が出ない。
「エドガー様の墓は、アレンの隣だ」
「知っています」
「家族肖像画も、そのまま階段にある」
「知っています」
「クレアが磨かせてる。お前のところにいるのに、手紙で細かく指示してる」
「彼女らしいですね」
「収穫祭は、今年もやる」
ガレスが続けた。
「誰が踊るのです」
「踊りたい奴が」
「私がいなくても?」
「お前がいないからやらない、じゃ、あいつが怒る」
「アレンは、祭りの予算を最初に削ろうとしました」
「知ってる。だから今年も皆で止めた」
口元が動きそうになる。
笑うことはできなかった。
「子どもたちは、お前が作った学校で勉強してる。お前を悪女だと言う親も、その学校へ通わせてる」
「矛盾していますね」
「人間はそういうもんだ」
「私を憎みながら、制度は使う」
「制度はお前だけのものじゃない」
その言葉は、痛いほど正しかった。
「水車も、学校も、税の仕組みも、皆が直しながら使ってる。お前が帰っても、全部お前のものにはならない」
「帰れば、支配しないと?」
「帰ったらまず畑の泥を踏め。政治はその後だ」
私は窓の向こうの街道を見た。
この道は、ハルフォードへ続いている。
馬を走らせれば、数日で着く。
それでも、王都より遠い。
「帰ってこい」
その言葉だけが、関所の石壁へ残った。
「停戦条件として?」
「家族としてだ」
「私は、大統領です」
「だから何だ」
「国を置いて帰れません」
「国を置くんじゃない。国を返すんだ」
「誰へ」
「生きてる奴らへ」
ガレスは身を乗り出した。
「ハルフォードに残ってる連中は、お前が帰れば全部許すとは言わん」
「当然です」
「怖がる奴もいる。怒ってる奴もいる。身内を秘密警察に取られた奴もいる」
私は指を組む。
「なら、なおさら帰れません」
「違う」
彼は首を振った。
「帰って、怒られろ」
「……何ですか」
「謝れ。話せ。黙って石を投げられろ。それでも逃げるな」
「それで、死者が戻りますか」
「戻らん」
「では」
「戻らないから、生き残った奴らのところへ戻るんだろうが」
声が荒くなる。
昔、アレンを叱っていた時と同じだった。
「エドガー様の墓へ行け。肖像画の前で飯を食え。クレアに髪を梳かせろ。俺に文句を言わせろ」
「あなたは、敵軍の指揮官です」
「そうだよ」
ガレスは笑わなかった。
「それでも、家族だった」
胸が痛む。
「私が降伏すれば、アレンの死も、私がここまでしたことも、すべて無意味になります」
「無意味でいいだろ」
思わず立ち上がった。
「何を」
「間違った犠牲に意味をつけるために、次の犠牲を増やすな」
ガレスも立つ。
「アレンの死に、国を壊す意味なんか持たせるな」
「私は彼を守れなかった」
「俺もだ」
「だから、二度と」
「二度と失敗しない人間なんかいない!」
関所の外で護衛が動く。
ガレスは手を上げ、止めた。
私の護衛も、合図を待つ。
「俺たちは失敗する」
彼は続けた。
「間に合わない。間違える。守れないこともある」
「それを、受け入れろと?」
「一人で全部防げると思うなって言ってる」
アレンも、同じことを言っただろうか。
考えてはいけない。
死者の言葉を作ってはいけない。
「私は、責任者です」
「セラフィーナ」
彼は、愛称を使わなかった。
誰も使えない名前を、避けた。
「責任者でも、人間だ」
「人間だから、迷いました」
「迷っていい」
「その一日で、子どもが死にました」
声が震える。
「私が帰る準備をした日です。警備が緩み、学校と病院が襲われた」
「因果は確定してない」
「可能性はあった」
「だから一生、帰らないのか」
「帰れません」
「待ってる奴がいても?」
「待つ必要はありません」
「勝手に決めるな」
ガレスは卓を回り、私の前へ来た。
護衛の距離が遠い。
ここには、アレンの幼なじみと、その妻しかいない。
「あいつのいない家でも、俺たちは帰らなきゃならない」
呼吸が止まる。
初めてハルフォードへ着いた日。
南向きの部屋。
花。
家族の皿。
おかえりなさい。
ただいま。
すべてに、アレンがいた。
「無理です」
声が小さくなる。
「無理でも帰るんだ」
「アレンがいない」
「知ってる」
「玄関にも、食堂にも、寝室にも」
「知ってる」
「なら、どうして家と呼べるのです」
ガレスの目に涙が浮かぶ。
「残った奴がいるからだ」
私は首を振った。
「アレンのいない場所を、家とは呼べません」
言葉にした瞬間、自分が何を失ったか理解した。
家を建物ではなく、人との関係として教えてくれた彼。
その彼を失った後、私は彼以外の関係を家から消した。
ガレスは目を閉じた。
しばらくして、卓へ停戦案を戻す。
「交渉は決裂だな」
「はい」
「次は戦場で会う」
「あなたを殺させません」
「命令が届けばな」
彼は扉へ向かう。
「ガレス」
振り返らない。
「生け捕りにするよう、全軍へ命じます」
「勝手にしろ」
扉の前で、彼は一度だけ止まった。
「俺は、お前を殺せとは命じてない」
「……ありがとうございます」
「礼を言うな。腹が立つ」
彼は外へ出た。
私は一人、関所の中へ残る。
卓の上には、署名されなかった停戦案が二通。
帰る道も、閉じたままだった。




