第106話 アニエスの商隊
アニエスは、手を縛られて王宮へ入った。
衣服には泥がつき、頬に浅い傷がある。
それでも、背筋は伸びていた。
「拘束を解いてください」
私が命じると、護衛官が迷う。
「大統領閣下。反乱支援の容疑者です」
「この部屋には武器も出口もありません」
縄が解かれる。
アニエスは赤くなった手首を擦った。
「久しぶりね」
「はい」
友人同士の再会には、冷たすぎる部屋だった。
卓の上には、押収品の目録がある。
小麦粉。
乾燥豆。
塩。
包帯。
乳児用の布。
武器はない。
「封鎖地域へ、許可なく物資を運びましたね」
「運んだわ」
「大統領命令への違反です」
「知ってる」
「抵抗勢力の支配地域です」
「そこに住んでる人まで、抵抗兵じゃない」
「物資が軍へ渡る可能性があります」
「子どもの口へ入る可能性もある」
アニエスは目録を指で叩いた。
「北地区では、パンの値段が三倍。塩は市場から消えた。病院は包帯を洗って使ってる」
「大統領府の配給許可を申請すれば」
「三度出した。三度とも保留」
「安全確認が」
「確認してる間に腹は減るの」
彼女の声が強くなる。
「市場で母親が、豆を一粒ずつ数えてた。子どもが二人いるから、同じ数に分けるために」
私は目録へ視線を落とす。
「封鎖は、抵抗軍への兵站を断つためです」
「その兵站って言葉の中に、夕食も入ってる」
「軍と民間の流通が分離されていません」
「分ける仕組みを作るって提案した」
「抵抗側が大統領府の監督を拒否しました」
「あなたが許したパンだけ食べろって?」
「安全を確認した物資です」
「食べ物に忠誠を誓わせないで」
沈黙する。
彼女は、昔から数字の後ろに人を見た。
最初にハルフォード領へ来た時も、倉庫の湿気より先に、運ぶ人の休憩を決めた。
「商隊には、抵抗側の連絡文書もありました」
「市場の必要量と通行可能な道よ」
「軍が使える情報です」
「商人にも必要な情報」
「ガレスと連絡を?」
「してる」
否定しない。
「マリアンヌ様とも」
「してる」
「大統領府を倒すために?」
「議会を戻すために」
「同じです」
「違うわ」
アニエスはまっすぐ私を見る。
「あなたを殺したい人たちは、商隊へ入れてない」
「なぜ」
「友達だから」
あまりに簡単な答えだった。
「友人が、私の命令を破るのですか」
「友達だから、破るの」
彼女は笑わない。
「昔、あなたが私とアレンの距離を契約書で決めようとしたの、覚えてる?」
胸の奥に、遠い食堂の灯りが戻る。
「嫉妬を税率のように扱いました」
「クレアに、税制問題じゃないって言われた」
「はい」
「あの頃のあなた、面倒だったけど、話は聞いた」
「今も聞いています」
「聞いて、全部却下してる」
言葉が止まる。
「アレンなら、って言うつもりはない」
アニエスが続ける。
「死人に答えを言わせるのは卑怯だから」
「はい」
「だから私が言う。今のあなたは間違ってる」
「食料を通せば、抵抗軍も強くなります」
「飢えさせれば、民間人が先に死ぬ」
「では、どうすれば」
「停戦して、第三者立会いで配給路を作る」
「抵抗側は武装解除を」
「あなたは議会を戻す」
「受け入れられません」
「でしょうね」
彼女は疲れたように息を吐く。
「裁判へ送れば、反乱支援で死刑を求められます」
「知ってる」
「怖くないのですか」
「怖いわよ」
「なら、なぜ本人が商隊に」
「若い子だけ行かせて、自分は安全な帳場にいるの、嫌だったから」
アレンに似ている。
そう思い、口にしなかった。
似ているという言葉で、彼女の選択を別の人のものにしたくない。
「商隊の者は?」
「雇われた御者と護衛。目的を知って参加した人もいる。知らなかった人もいる」
「分けて審理します」
「そうして」
「食料は押収します」
「民間人へ配って」
「大統領府の管理で」
「それでも、腐らせるよりいい」
会話が、昔の商談のようになっている。
条件を詰める。
互いに譲れない線を確認する。
違うのは、失敗すれば銀貨ではなく命を失うこと。
「アニエス」
「何?」
「抵抗をやめてください」
「できない」
「国外へ逃げれば」
「商隊を残して?」
「あなたの身柄だけでも」
「それを今、捕まえた側が言うの?」
小さく笑う。
すぐに消える。
「あなたを嫌いになれたら、楽だったわ」
目が熱くなる。
大統領として、泣くべきではない。
友人としてなら、泣いてよいのかもしれない。
「私も、今でもあなたを友人だと思っています」
アニエスの唇が震えた。
「じゃあ、帰して」
「できません」
「そうよね」
「処刑もしません」
「それは、友達だから?」
「処刑が必要な罪ではないと判断します」
「嘘が下手になったわね」
私は判決案を開いた。
モロー商会のうち、封鎖突破に使用された資産を没収。
国内営業許可を取り消す。
アニエス・モローを、アルヴェリア国外へ永久追放。
再入国した場合は拘束する。
「追放先で商売を続ける権利は?」
アニエスが尋ねた。
「相手国の法に従う限り、妨げません」
「国内の従業員は」
「反乱支援へ関与していない者は処罰しません」
「倉庫の食料は」
「価格を査定し、没収分以外は家族へ」
「帳簿は燃やさないで」
「公的証拠となる部分以外は返します」
彼女は一つずつ確認した。
自分が二度と戻れない国で、残される人々が暮らせるように。
「最後まで商人ですね」
「あなたも、最後まで数字で人を守ろうとしてる」
「守れていますか」
「守ってる人もいる。壊してる人もいる」
彼女は目を逸らさなかった。
「両方、本当よ」
「国外追放です」
彼女の顔から色が消える。
「家も、商会も、全部?」
「私有財産のすべてではありません。家族へ残す分と、従業員への賃金は保護します」
「私は戻れない」
「はい」
「ハルフォードにも?」
「国境内です」
「あなたのお墓参りにも来られないのね」
「私は、まだ生きています」
「知ってる」
アニエスは目を逸らさない。
「だから言ったの」
追放は、釈放ではない。
彼女が作った商人同盟。
歩いた市場。
笑った食堂。
家族肖像画のある屋敷。
すべてへ、二度と帰れない。
「出国まで三日。護衛をつけます」
「監視でしょ」
「安全のためです」
「同じ言葉ばっかり」
アニエスは立ち上がる。
扉の前で振り返った。
「食料は、本当に配って」
「約束します」
「友達として?」
「大統領として」
「そこが、今のあなたなのね」
「一つだけ、私物を持っていっていい?」
「何ですか」
「家族肖像画の写し」
王都の商会に、小さな複製があると聞いていた。
アレン。
私。
クレア。
ガレス。
マリアンヌ様。
アニエス自身。
「許可します」
「大統領として?」
「友人としてです」
初めて、役職ではない言葉を使った。
アニエスは泣かなかった。
「それなら、ありがとう」
彼女は扉へ向かう。
扉が閉じる。
私は一人で判決文へ署名した。
クレアが入ってくる。
「アニエス様は」
「国外追放です」
「そうですか」
彼女は何も責めない。
それが、もっと痛かった。
出国日の朝、アニエスは王都の西門を通った。
私は見送りには行かなかった。
報告書には、馬車一台、私物二箱、肖像画一枚とある。
国境を越えた時刻まで記されていた。
最後の欄には、『振り返らず』と、誰かが余計な一言を書いていた。
私はその一文を消さなかった。
夕刻、アニエスの商隊から押収した食料を、封鎖地域の民間配給所へ送る命令を出した。
大統領府の印章をつけて。
彼女が運んだパンは届く。
彼女自身は、二度と帰れない。
夜、軍務局から白旗に包まれた書状が届いた。
差出人はガレス。
『停戦交渉を申し入れる。場所と時刻を指定してくれ』
私は追放判決の隣へ、その手紙を置いた。




