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婚約破棄された公爵令嬢を辺境へ連れ帰ったら、俺の領地が王国で一番幸せになりました!?  作者: ぱるめりあ
第十部 アレンの国を取り戻す

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第105話 クレアの選択

 クレアは、いつも通り私の髪を整えた。


 朝の光が鏡へ差し込む。


 銀の髪を梳き、分け、後ろで留める。


「本日は、戦況会議の後に司法報告がございます」


「把握しています」


「昼食は会議室へ」


「必要ありません」


「用意いたします」


 以前と同じ会話。


 机の端には、政治犯の移送名簿が置かれていた。


 昨夜届いたものだ。


 北拘置所から王都刑務所へ、二十三名。


 移送時刻。


 護衛人数。


 経路。


 クレアは髪飾りを取るため、机の近くへ立った。


 名簿へ目を落とさなかった。


 少なくとも、鏡の中では。


「こちらの銀葉でよろしいですか」


「はい」


 彼女の手が一度だけ止まる。


 銀の葉。


 アレンが市場で選んだもの。


 今も、クレアが毎朝つける。


 その日の夕方、移送車が襲われた。


 正確には、戦闘ではない。


 橋の手前で車輪が外れ、護衛が修理している間に、拘束者十七名が姿を消した。


 鍵は壊されていない。


 替え鍵が使われた。


「情報漏洩です」


 治安官が報告する。


「移送計画を知っていた者は、十二名」


 名簿を作った役人。


 護衛指揮官。


 私。


 そして、私室へ出入りするクレア。


「十二名全員を拘束しますか」


「いいえ」


「聴取だけでも」


「証拠を集めてください」


 閲覧記録を確認する。


 名簿の封印は破られていない。


 しかし、紙の角に薄い糸が挟まっていた。


 青い糸。


 クレアの裁縫箱にあるものと同じ。


 偶然かもしれない。


 私は、彼女の一日の行動記録を求めた。


 朝の身支度。


 厨房の確認。


 救護室。


 午後、洗濯物の受け渡しで西門へ。


 移送計画が抵抗側へ届くには、十分な時間だった。


 翌日、別の拘束者移送を偽の時刻で記した。


 本当の計画は、私と治安局長だけが持つ。


 偽の名簿を、私室の机へ置いた。


 クレアは、いつも通り紅茶を運び、いつも通り書類へ布を掛けた。


 夜、抵抗側が偽の経路で待ち伏せした。


 確定した。


 治安局長が命令を待つ。


「情報提供者は、官邸内です」


「そうでしょう」


「一斉捜索を」


「不要です」


「閣下」


「私が調べます」


 治安官を下がらせる。


 逮捕命令書は、机の上に残った。


 対象者名は空欄。


 書けばよい。


 クレア・ベル。


 国家機密漏洩。


 政治犯逃亡幇助。


 大統領への背信。


 どれも成立する。


 私は、逮捕命令書のほかに、恩赦申請書も用意した。


 自首し、情報提供を認め、今後協力しないと誓えば、処刑を避けられる。


 クレアへ署名させるための文書。


 しかし、それは彼女に、救うことをやめろと命じる紙だった。


「恩赦の条件を変えますか」


 法務官が尋ねた。


「まだ決めていません」


「対象者は特定済みなのですか」


「いいえ」


 嘘をついた。


 大統領の嘘は、公文書の事実になる。


 私は申請書を引き出しへしまった。


 夜、クレアは私の髪を解いた。


 鏡の前。


 二人きり。


「移送中の拘束者が逃げました」


 私が言う。


「伺いました」


「十七名です」


「はい」


「その中には、暴力行為の証拠がない者もいました」


「はい」


「ですが、裁判前に逃がすことは違法です」


「はい」


 櫛が髪を通る。


 引っかからない。


 いつも通り、丁寧だった。


「名簿を見た者がいます」


「官邸には、多くの方が出入りします」


「私室へ入れる者は少ない」


「そうですね」


「青い糸が挟まっていました」


 クレアの手が止まる。


 一呼吸。


 また動く。


「裁縫室では、よく使う色でございます」


「そうですね」


 互いに、嘘をついた。


「仮に」


 私は鏡の中の彼女を見る。


「誰かが、無実かもしれない人々を救うために名簿を渡したのなら」


「はい」


「その者は、私を裏切ったのでしょうか」


 クレアは櫛を置いた。


「国の命令には、背いたことになります」


「私には?」


「お答えしてよろしいのですか」


「はい」


「見捨てないために、背くこともございます」


 鏡の中で目が合う。


「逃げた者の中には、実際に抵抗勢力へ加わった人もいます」


「はい」


「武器を取るかもしれない」


「はい」


「その結果、兵士が死ぬかもしれません」


「存じております」


「それでも?」


「裁判もなく消えるよりは」


 クレアの声が少し震えた。


「選ぶ機会を、残したかったのです」


「あなたが決めることではありません」


「はい」


「私が決めることでも、ないのかもしれません」


 言葉が落ちた。


 クレアは櫛を持ったまま、目を伏せた。


「誰を見捨てないのですか」


「政治犯の方々を」


 言葉が落ちる。


 直接、認めてはいない。


 それでも、十分だった。


「そして、セラフィーナ様を」


「私を?」


「誰も救わず、ただおそばにいるだけでは、私はあなたを見捨てたことになります」


 胸が痛む。


「逮捕される可能性は」


「存じております」


「逃げなかった」


「明朝のお支度がございます」


「それだけですか」


「夕食も召し上がっていただかなくては」


 私は机を見る。


 空欄の逮捕状。


 筆を取れば、彼女はこの部屋から消える。


 治安局へ渡せば、尋問される。


 私が監督を命じても、完全には守れない。


 無実の青年の遺体が浮かぶ。


「クレア」


「はい」


「明日も、ここへ?」


「はい」


「名簿があっても?」


「必要な方へお食事を運びます」


 答えになっていない。


 これからも続けるという答えだった。


「私は、止めなければなりません」


「はい」


「大統領として」


「はい」


「でも、命令できません」


 クレアは何も言わず、私の髪へ銀の葉を置いた。


 夜なので、外すはずの髪飾り。


「これは」


「明朝、忘れないように」


 私たちは、また習慣の話へ戻る。


 逮捕状へ名前は書かなかった。


 代わりに、私室の捜索を禁じる命令を出した。


 理由は、大統領府の機密保護。


 治安局は従った。


 その夜、私は寝台へ入っても眠れなかった。


 隣室で、クレアが衣服を畳む音がする。


 逃げようと思えば、今夜でも逃げられる。


 彼女は逃げない。


 私も逮捕しない。


 互いに、明日も同じ部屋にいることを選んでいる。


 政治では決裂し、生活では離れられない。


 その矛盾を解く法律は、どこにもなかった。


 机の上の逮捕状は、夜のうちに湿気で少し反っていた。


 私は火へ入れようとし、やめた。


 破棄すれば、彼女を見逃した証拠を消すことになる。


 残せば、いつでも名前を書ける。


 空欄のまま、引き出しへ戻した。


 クレアは、その動作を鏡越しに見ていた。


 何も言わなかった。


 翌朝、クレアはいつも通り私を起こした。


 朝の身支度で、彼女は私の袖口を縫い直した。


「ほつれております」


「昨日はありませんでした」


「お気づきでなかっただけです」


 針が布を通る。


 壊れたところを見つけ、黙って直す。


 以前から同じだった。


 今は、その手が国の綻びも私に隠れて縫っている。


 私は止めない。


「おはようございます、セラフィーナ様」


「おはようございます」


 彼女は紅茶を一杯置く。


 その袖の内側に、小さく折られた紙があることへ、私は気づいた。


 見なかった。


 紅茶を飲み終えると、クレアはカップを下げた。


 袖の紙も、もう見えない。


「本日は、牢獄の寝具交換日です」


「そうですか」


「新しい毛布を運びます」


「名簿は必要ですか」


 一瞬の沈黙。


「人数だけで足ります」


「では、人数だけを」


 私は名簿を渡さなかった。


 彼女も求めなかった。


 それでも別の方法を探すだろう。


 主従の形だけは、まだ崩れていない。


 その内側で、私たちは別の国を選び始めていた。


 昼前、戦況室から急報が届く。


「封鎖地域へ侵入した商隊を捕らえました」


「所属は」


「モロー商会です」


 報告官が息を整える。


「アニエス・モロー本人を拘束しました」

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