第103話 大統領セラフィーナ
「権限を返還してください」
日没後の議場で、議長が告げた。
不信任決議は発効している。
法に従えば、私はこの場で印章を置き、国家指導者の席を退かなければならない。
「移行委員会が行政を引き継ぎます」
「委員の半数は、治安局の機密情報へアクセスできません」
「必要な範囲を開示してください」
「開示の選別に、何日かかりますか」
「時間がかかっても、法を通すべきです」
「次の襲撃は待ちません」
議場の外から、軍靴の音が響いた。
一列ではない。
正面玄関、側廊、記録庫、通信室。
議事堂を囲むすべての入口へ、軍務局の兵士を配置している。
命令書には、治安確保と記した。
武装した群衆から議員を守るため。
公文書の破棄を防ぐため。
理由は一つずつ正しかった。
けれど、扉の内側から見れば、議会を包囲する軍にしか見えない。
「議員の退場を認めてください」
議長が言う。
「周辺の安全を確認した後に」
「誰が確認するのです」
「軍務局です」
「あなたの命令を受けた軍が?」
答える前に、廊下で鍵が回った。
議員の一人が扉へ向かう。
取っ手は動かない。
「これは保護ですか。拘束ですか」
「外で衝突が起きています」
「議員を守るために、議員を閉じ込める?」
剣は抜かれていない。
誰も殴られていない。
それでも、採決を行う者が外へ出られず、記録を運ぶ者が兵士の許可を求めた瞬間、制度は止まった。
「セラフィーナ様」
マリアンヌ様が議席から降りる。
「今すぐ軍を戻してください」
「できません」
「議会は、あなたを解任しました」
「議会は、危機の最中に指揮系統を切ろうとしています」
「あなたを止めるためです」
「私を止めれば、国が止まります」
言ってから、胸の奥が冷えた。
自分と国家を、同じものとして扱った。
ヴィクトルを裁いた法廷で、私はその誤りを指摘した。
「同じではありません」
マリアンヌ様の声が震える。
「あなたがいなくても、アルヴェリアは続きます」
「アレンがいなくなった後、何が起きたか見たでしょう」
「だからこそ、誰か一人へ国を預けてはいけないのです」
議場の入口にクレアが立っていた。
いつもの黒い服。
いつものように整えられた髪。
私の帰郷用の荷物を、最後まで捨てなかった人。
「クレア」
「はい」
「私を止めに来たのですか」
「お戻りいただくために参りました」
「どこへ」
「この扉の外へ。法の内側へ。ハルフォードへ」
紅茶道具。
家族肖像画。
南向きの部屋。
壁際に積まれた箱が、一瞬だけ目の前へ浮かんだ。
「今、戻れば、次の襲撃を止められません」
「お一人で止める必要はございません」
「皆で決めて、間に合わなかった」
「お一人で決めて、無実の方が亡くなりました」
クレアは視線を逸らさない。
「どちらも失敗です」
「だから、失敗しない仕組みが必要なのです」
「今の仕組みは、失敗しないためではございません」
静かな声だった。
「セラフィーナ様が、失敗を認めなくてよい仕組みです」
息が止まる。
「退室してください」
二人は動かなかった。
「逮捕なさいますか」
マリアンヌ様が尋ねる。
「しません」
「では、残ります」
「命令です」
すでに解任された国家指導者の命令。
それでも兵士が二人、扉の内側へ入った。
「触れないでください」
私は兵士を止める。
「お二人は、ご自分で出てください」
マリアンヌ様の目から涙が落ちた。
「これが、最後のお願いです」
「私もです」
彼女は一歩近づく。
「国を守るために、国へ戻ってください」
「できません」
クレアが深く一礼した。
「明朝のお支度は、いかがいたしましょう」
問いの意味がすぐにはわからなかった。
「まだ、私のそばに?」
「おります」
「なら、なぜ」
「おそばにいることと、正しいと申し上げることは別でございます」
クレアはマリアンヌ様の手を取り、議場を出た。
兵士たちは道を開けた。
私は二人を逮捕しない。
処刑もしない。
ただ、私へ反対する二人を、決定の場から退けた。
議場に残った者たちへ向き直る。
「現行の共和政は、責任を分散させました」
私は用意していた文書を開いた。
「平時には、それが権力の濫用を防ぎます。しかし危機の最中には、決定を遅らせ、誰も最後の責任を負わない状態を生みました」
「だから議会を廃止するのですか」
議長が問う。
「停止します」
「期限は」
「国家が安定するまで」
「期限のない停止は、廃止と同じです」
「最終責任者を一人に定めます」
「それを独裁と呼びます」
「呼称で、死者は減りません」
議長は、共和国議員の徽章を外した。
「その責任者を、誰が解任するのです」
「国家が安定した後、新しい憲法を制定します」
「それまで、誰もあなたを止められない?」
「止められることで判断が遅れれば、制度の意味がありません」
私の答えに、議場が静まり返った。
「王政へ戻すつもりですか」
別の議員が尋ねる。
「いいえ」
私は即座に答えた。
「血統へ統治権を戻しません。王冠も世襲も復活させない」
「では、何を作るのです」
「共和国大統領職です」
議員たちが顔を見合わせる。
これまでの国家指導部は、議会に選ばれ、議会の監督を受ける合議制だった。
私はその上に、一人の最終決定者を置く。
「大統領は行政、軍事、立法に関する最終決定権を持ちます。任期は、国家非常事態の終結まで」
「終結を認定するのは?」
「大統領府です」
「つまり、あなた自身だ」
「責任を他者へ移さないためです」
「選挙は?」
「非常事態の間は行いません」
「不信任は?」
「国家機能を停止させるため、凍結します」
一つずつ答えるたび、共和国という名前の内側が空になっていく。
私は王を名乗らない。
それでも、王より強い権限を自分へ集めている。
「議会を解散します」
解散命令へ署名した。
「憲法上の議会権限を停止し、非常大統領府へ移管します」
「法的根拠はありません」
議長が言う。
「国家存続のための非常措置です」
「不信任で権限を失った者が、自分へ新しい権限を与えるのですか」
「移行の空白を作らないためです」
「その説明を、後世は何と呼ぶでしょう」
私は答えなかった。
議長は徽章を机へ置く。
金属の小さな音がした。
それだけで、議会の終わりが現実になった。
役人が、新しい敬称を確認した。
「公文書では、大統領閣下と」
「はい」
「就任式は」
「不要です」
「国民投票は」
「治安回復後に制度全体を問います」
いつになるかは言わない。
王冠も祝宴もない。
必要なのは、すべての命令が一つの机から出ることだけ。
私はそれを、虚飾のない責任と呼んだ。
誰も歓声を上げなかった。
兵士も。
役人も。
沈黙の中で、共和国は名だけを残し、形を変えた。
各省庁へ命令書を送る。
議会予算の凍結。
裁判官任命権の大統領府への移管。
軍の宣誓文の変更。
「共和国と国民ではなく、大統領へ忠誠を誓わせますか」
軍務官が尋ねた。
「国民と共和国を守る大統領へ、です」
「大統領が共和国に反した場合は」
問いが途中で止まる。
「そのような事態を起こさないため、私が全責任を負います」
答えになっていない。
軍務官は、それ以上問わなかった。
議員たちは一人ずつ退場させた。
拘束はしない。
ただし、議事堂への再入場を禁じる。
扉へ大統領府の封印を貼った。
中には、未審議の法案と、市民から届いた請願書が残る。
紙は破られていない。
読まれる場所だけがなくなった。
夜、私はアレンの旧執務室へ移った。
机も、窓辺の椅子も、そのまま残してある。
彼が王になることを拒んだ後に使っていた椅子。
私は何度も、その背へ手を置いた。
座ったことはない。
彼の席だったから。
今夜、椅子を引く。
木が床を擦る。
ゆっくり腰を下ろした。
机の高さが変わる。
窓の外が、彼の見ていた角度になる。
引き出しには、短く削られた古い鉛筆があった。
考え込むと噛む癖があり、持ち手へ歯形が残っている。
私はそれを握った。
彼の答えを作らない。
死者を、自分の正しさへ利用しない。
そう決めていた。
けれど私は、彼が拒んだ権力を、彼の椅子から使う。
街路に白い布が一枚、掲げられていた。
降伏の印ではない。
議会解散へ抗議する旗。
別の窓にも。
さらに遠くにも。
私は視線を机へ戻した。
解散命令。
大統領就任宣言。
軍の忠誠書。
すべて、私の手元にある。
誰も決定を遅らせない。
誰も、私の判断を覆さない。
空の部屋で、私は呟いた。
「これで、もう二度と失敗しません」
窓の外で、白い旗が増えていた。




