第102話 議会の不信任
「国家指導者セラフィーナ・ローゼンフェルトを解任する」
議長が決議文を読み上げた。
暫定議会の議場には、空席が目立っていた。
拘束を恐れて欠席した者。
治安局の監視下にある者。
それでも、採決に必要な人数は集まっている。
「非常権限を直ちに議会へ返還し、治安調査局を司法監督下へ置く」
私の前には、辞任書式が一枚置かれていた。
署名すれば、今日で終わる。
「賛成、八十七」
議長が数を確認する。
「反対、五十二。棄権、十一」
不信任は可決された。
傍聴席から歓声は上がらない。
外には治安官がいる。
議員も、市民も、それを知っている。
議場へ入る前、私は三つの選択肢を提示されていた。
即時辞任。
不信任決議への異議申立て。
非常権限による決議停止。
法務官は、最後の選択肢へ赤い線を引いた。
「形式上は可能ですが、憲法の精神に反します」
「形式上、可能なのですね」
「緊急時の一時停止権です。自らの解任を止めるための条項ではありません」
私はその紙を折り、胸元へ入れた。
使うとは言わなかった。
捨てもしなかった。
「発言を求めます」
私は立った。
議長が少し迷い、許可する。
「無実の青年が死亡した責任を、否定しません」
議場が静まる。
「治安調査局の職員が違法な拷問を行い、記録を偽造した。責任者は裁かれました」
「組織は残した」
議員の一人が言う。
「はい」
「なぜです」
「現在も武器の流入と爆破計画が続いているからです」
「一人の無実を殺しても?」
「許されません」
「なら廃止を」
「廃止によって失われる命もあります」
ざわめきが広がる。
「その論理では、何人死ねば廃止するのですか」
「人数で決めません」
「誰が決める?」
「私が責任を負います」
自分の口から出た言葉に、議場の空気が変わった。
以前、ヴィクトルも同じように言った。
誰かが決めなければならない。
自分が責任を負う。
だから権限が必要だと。
「責任を負うとは、解任決議へ従うことではありませんか」
法務官が尋ねた。
「国家を危険へ戻すことが責任とは思いません」
「それを判断するのが、議会です」
「議会は機密情報を持っていません」
「提出を拒んだのは、国家指導部です」
「漏洩の危険があります」
「では、我々は何を基に監督するのですか」
答えはある。
限定公開。
独立監察。
期限付きの秘密指定。
以前の私は、それらを設計しただろう。
今は、どれも遅く見える。
「爆破犯は、監督手続きが終わるまで待ちません」
「議会も、次の死者が出るまで待てません」
反対側の議員が、青年の写真を掲げた。
印刷工房で撮られた小さな肖像。
黒い指で、照れたように笑っている。
「彼は、爆破犯ではなかった」
「承知しています」
「承知して、同じ組織を残すのですか」
「改めました」
「権限を増やして」
言葉が詰まる。
再編命令で職員は増えた。
監察も増えた。
組織全体は大きくなった。
「セラフィーナ様」
マリアンヌ様が立つ。
公的な議場で、私的な呼称を使った。
「今なら、まだ戻れます」
「危険は残っています」
「危険がなくなる日は来ません」
「なら、守り続ける必要があります」
「一人で?」
「最終責任者は必要です」
「兄も、そう考えました」
議場が静まる。
私は彼女を見る。
目には涙がある。
「私は、あなたを敵として解任するのではありません」
マリアンヌ様は続けた。
「あなたを、法の中へ戻すためです」
「法が人を守れない時は?」
「変えます。皆で」
「その間の死者は?」
「一人で決めても、死者は出ました」
青年の肖像が視界に残る。
反論できない。
それでも、退けば次の学校が燃える光景が浮かぶ。
私は、辞任書式へ目を落とした。
署名欄。
印章欄。
法に従って退く、最後の手続き。
「決議の効力は、いつからですか」
「本日の日没です」
議長が答える。
「それまでに権限移譲文書へ署名してください」
「署名しなければ?」
「不法占拠となります」
不法。
私が、国の法の外へ出る。
「日没までに署名されなければ、議会は行政機関へ直接命令を出します」
議長が続ける。
「軍、治安局、財務局は、あなた個人ではなく共和国へ忠誠を負います」
「現場が二つの命令を受ければ混乱します」
「だから、退いてください」
「私が退けば、治安局は命令系統を失います」
「暫定責任者を任命済みです」
「経験が足りません」
「経験が足りない者を育てるためにも、権限を渡す必要があります」
アレンが王位を拒んだ時も、同じ話をした。
自分の次を考えられない仕組みは、国を守らない。
その言葉を、私は覚えている。
覚えていて、なお退けなかった。
「日没まで、考えます」
議員たちが息を吐いた。
まだ、私が従うと思っている。
議場を出る時、反対票を投じた議員が私へ頭を下げた。
「私は、あなたを憎んでおりません」
「では、なぜ」
「信じたいから、退いていただきたいのです」
信頼を理由に権限を渡すのではなく、信頼を守るために権限を返せと言う。
以前なら、理解できた。
会議を終え、控室へ戻る。
クレアが外套を受け取った。
「お戻りになりますか」
「どこへ?」
「ハルフォードへ」
壁際には、以前まとめた帰郷用の箱が残っている。
封を切られていない。
「今、退けば」
私は言う。
「治安局は解体されます」
「司法監督へ移るだけかと」
「捜索が遅れます」
「はい」
「人が死ぬかもしれません」
「はい」
「私が残れば、また無実の人が死ぬかもしれない」
「はい」
クレアは、答えを選ばない。
「何を選んでも、失敗するのですね」
「失敗しない方は、おられません」
アレンが使っていた椅子が、執務机の向こうにある。
署名すれば、私は退ける。
ハルフォードへ帰り、墓前で自分の失敗を認めることもできる。
けれど同時に、アレンの国が私なしで続くことを認めなければならない。
彼を失った後、私が守り続けたつもりのものが、私を必要としていないと。
それは制度として正しい。
感情だけが、耐えられなかった。
彼は、失敗を認めて戻る道を残した。
私は、戻ることを敗北に感じ始めている。
窓の外では、市民が鐘の数を数えていた。
私が署名するかどうかを、国全体が待っている。
日が傾く。
軍務局から、封書が届いた。
『議会周辺の治安確保計画。指示を請う』
決議を受けて、群衆が集まり始めている。
軍を出せば、議会へ圧力をかけることになる。
出さなければ、衝突が起きるかもしれない。
「警備だけを」
私は書いた。
『議会の出入口を確保。武器持ち込みを禁止。議員の安全を保護する』
さらに一行。
『国家指導部の命令なく、議事堂から文書を搬出させない』
筆が止まる。
議会の記録を、私の管理下へ置く命令だ。
削除しようとした。
日没の鐘が、最初の一音を鳴らした。
私は辞任書へ署名しなかった。
代わりに、軍務局の命令書へ印章を押した。




