第六話 甘味と医術
朝。
窓から差し込む光で、安藤は目を覚ました。
遠くで鐘の音が鳴っている。
もう、この音で起きる生活にも少し慣れてきていた。
異世界へ来てからは、大学時代よりよほど忙しい。
土魔術。
教材作り。
道路整備。
王女の治療。
工房での試作。
気づけば、毎日何かしら働いていた。
治療用魔道具で魔力供給を行うため、安藤は変わらずエリーゼと同室で寝起きしている。
とはいえ、王女用の天蓋付き寝台と、床へ敷かれた簡易寝具では、身分差がそのまま形になっていた。
目を覚ますたび、自分が王女と同じ部屋で寝起きしていることを思い出す。
隣では、エリーゼがぼんやりと天井を見ている。
手首には銀の腕輪。
安藤の魔力を供給するための治療用魔道具だった。
「……おはようございます」
「おはよう」
安藤は軽く伸びをする。
エリーゼの顔色は、少し悪かった。
「調子悪いのか?」
エリーゼは小さく頷く。
「このところ、少し」
「食欲もあまりなくて……」
そこへ、グレタが朝食を運んできた。
胸元では、小さな牛角型のネックレスが揺れている。
先日、黒田が街で買っていたものだった。
「……似合ってますね」
エリーゼが小さく言った。
グレタが少し慌てる。
「えっ」
「こ、これは、その……」
耳が赤い。
安藤は苦笑した。
「クロダ、こういうとこ本当マメだよな……」
テーブルへ置かれた朝食は、ほとんど手が付かなかった。
パン。
薄いスープ。
果実水。
エリーゼは数口食べただけで、匙を置いてしまう。
グレタが不安そうに目を伏せた。
「最近、本当に食が細くて……」
◇
部屋を出たあと。
王女付き侍女マルガレーテ・ヴァイス――グレタは、小さく息を吐いた。
「魔力欠乏症の方は、以前より落ち着いているのですが……」
隣では、メイド長ヘルミーナ・ラングが腕を組んでいる。
四十代。
厳格そうな女性だった。
「食べられなければ、体力が持ちません」
そこへ、王宮執事長フリードリヒ・クラウゼンが現れる。
「王女殿下のご様子は?」
「あまり芳しくありません」
執事長は静かに息を吐いた。
「アンディ殿へ相談してみましょう」
「彼は、我々の知らぬ知識を数多く持っている」
グレタが小さく頷く。
「はい」
「それに……姫様も、アンディ様とは少し楽しそうですから」
◇
「王宮の飯、そんなに美味しくないのか?」
黒田が聞いた。
「いや、普通に美味いぞ?」
「肉も多いし」
「でも味付けが単調なんだよな」
安藤は頷く。
「香辛料が弱い」
「胡椒がないだけで、かなり印象変わる」
グレタが首を傾げた。
「こしょう?」
「辛い香辛料」
「南方では高級品ですね」
グレタが答える。
「レオーネ自由都市同盟を経由した輸入品だとか」
安藤は少し考える。
香辛料そのものが贅沢品。
そういう時代なのだ。
「……厨房借りるか」
「え?」
「食べやすいもの作る」
グレタが少し驚いた顔をした。
「アンディ様、お料理を?」
「そこまで得意じゃない」
「一人暮らししてた時に、自炊してた程度です」
黒田が笑う。
「でもこいつ、自炊だけは妙に真面目だったからな」
◇
王宮の厨房は、朝から戦場だった。
「鍋が足りません!」
「そっち焦げてるぞ!」
「肉を運べ!」
怒号。
湯気。
炭火。
忙しなく動く料理人たち。
その中心で。
「弱火! 弱火です!」
安藤が叫んでいた。
「だから、その火を弱く!」
「最初からそう言ってください!」
料理人たちが混乱している。
焼く。
煮る。
燻製。
保存。
この世界の料理文化は、そちらへ発達していた。
繊細な温度管理という概念が薄い。
「なんで菓子作るだけで、鍛冶場みたいになってんだよ……」
黒田が呆れる。
「料理って思ったより、手間も技術もいるんだよ」
安藤は鍋を見ながら答えた。
そこへ、壮年の男が近づいてくる。
王宮料理長。
ベルンハルト・ケーラー。
五十代後半。
大柄。
腕も太い。
職人そのもの、という顔だった。
「本当に、姫殿下のお身体に良いのですな?」
「保証はできません」
安藤は正直に答える。
「でも、今より身体へ入る栄養は増えます」
「喉も通りやすい」
「卵と乳を使うので、身体を作る材料にもなります」
「甘くすれば、食欲が落ちていても食べやすい」
「体力が落ちている人には、こういう“食べられる栄養”が大事なんです」
ベルンハルトは黙る。
やがて。
「砂糖はどうします」
「あるんだ」
「南方輸入品です」
ベルンハルトは鼻を鳴らした。
「王侯貴族でも、祝い事くらいでしか使いません」
「やはりそうか……」
「その代わり、ヴァルデンには蜂蜜があります」
木壺が持ち上がる。
黄金色の液体が、とろりと揺れた。
「森が多い国ですからな」
「蜂蜜……いいな」
安藤は少し笑った。
「それ使いましょう」
◇
数時間後。
厨房には甘い香りが漂っていた。
「なんだ、なにやら良い匂いがしておるな!?」
扉が勢いよく開く。
国王ルドルフ四世だった。
「陛下!?」
料理人たちが慌てる。
王は厨房を見回し、皿の上の淡い黄色い菓子へ目を留めた。
「それはなんだ」
「卵と乳を蒸した菓子です」
安藤が答える。
「名前はプリン」
「ぷりん?」
王は興味深そうに腕を組む。
「毒ではないのだな?」
「さっき俺が食べました」
黒田が答える。
「そうか。では安全だな」
基準が雑だった。
王は匙を口へ運ぶ。
そして。
「甘い!」
「なんだこれは!」
「菓子が舌の上で溶けるぞ!」
目を丸くする。
その隣では、卵液へ浸したパンが鉄板で焼かれていた。
「あと、こっちはフレンチトーストです」
「固くなったパンでも食べやすくなります」
王が驚いた顔をした。
「古いパンを使うというのか?」
「その方が卵液をよく吸いますので」
「そちらも早く寄越せ」
王が当然のように言う。
「これから焼きますので」
「ならば待つ」
厨房スタッフたちが慌ただしく動き回る。
「焦がすな!」
「火が強い!」
「卵液追加だ!」
◇
エリーゼの部屋。
グレタが慎重に皿を運ぶ。
「姫様」
「どうぞ」
エリーゼは銀匙を手に取った。
ぷるりと揺れる。
一口。
沈黙。
そして。
「……甘い」
小さな声だった。
だが、その瞬間、グレタが涙ぐんだ。
「姫様……!」
「グレタ?」
「姫様が、ちゃんと召し上がっておられる……!」
ここ数日、数口で匙を置いていた王女が、自分からもう一口食べている。
それだけで、グレタには十分だった。
「……美味しいです」
エリーゼは静かに言った。
「これなら、いくらでも食べられます」
安藤は少しだけ安堵する。
病気を治したわけじゃない。
だが、食べられなければ、人間は弱っていく。
「さっきの厨房といい、みんな『エリーゼのために』って感じだな」
黒田が口を開く。
「おまえそれ、ベートーヴェンの曲だろ」
「正解!」
「異世界で通じると思うなよ」
安藤は呆れて返した。
◇
「甘い!」
「美味い!」
「これは危険だな……」
王はまだ、焼きたてのフレンチトーストを頬張っていた。
「それ何枚目ですか。陛下は減量してください」
安藤が真顔で言った。
場が静まる。
「余に減量しろと申すか?」
「はい」
「あと運動不足です」
王が思わず腹を隠した。
「魔術も馬車も便利ですけど、身体動かさないと太ります」
「まず歩いてください」
「王に歩けと!?」
「あと階段」
「階段?」
「上って下りる」
「それだけか?」
「継続すると違います」
安藤は続ける。
「肉だけ食ってれば強くなるわけじゃないんです」
「偏ると身体が壊れる」
「卵、乳、野菜、豆も必要です」
ベルンハルトが腕を組む。
「戦場では、とにかく肉を食わせろと言われますがな」
「俺たちの世界には、“医食同源”って考え方がありました」
安藤は静かに言った。
「食事と健康は、切り離せないって意味です」
部屋の空気が少し変わる。
「戦で敵の刃に倒れるより、病気や栄養失調で死ぬ兵士の方が多かった時代もありました」
「食事というのは、それくらい重要なんです」
ヘルミーナが感心したように呟く。
「食にも、そこまで理があるのですね……」
「長い時間かけて積み上げた知識なので」
王は少し黙る。
そして。
「……あれの母親もな」
静かな声だった。
エリーゼが目を伏せる。
「身体が弱かった」
「魔力欠乏症ではなかったが、若いうちに病で死んだ」
王は娘を見る。
「だから余は」
「どうしても、こやつだけは助けたいのだ」
その声だけは、王ではなく父親だった。
◇
夜。
エリーゼの部屋。
安藤は机の上の石塊へ指先を向けた。
石が軋むような音を立て、少しずつ形を変えていく。
髪。
瞳。
輪郭。
やがて、小さな胸像が完成した。
「これは……わたくしです」
エリーゼの表情が明るくなる。
「はい」
「土魔術で作ってみました」
窓辺へ置かれた胸像は、土とは思えないほど精巧だった。
「こんな顔をしていたんですね」
エリーゼは静かにそれを見つめる。
「俺からは、そう見えています」
少し沈黙が続く。
やがてエリーゼは、小さく呟いた。
「わたくし、最近ずっと下ばかり見ていました」
安藤は静かに聞いている。
「鏡を見るのも、少し嫌だったんです」
エリーゼは胸像を見る。
「でも」
「少しだけ、前を向けそうです」
安藤は少し照れ臭そうに笑った。
「……なら、良かったです」
窓の外では、夜風が揺れている。
遠くで鐘の音が鳴った。
厨房では、今も料理人たちが議論を続けている。
「蒸す……?」
「卵を固める……?」
「蜂蜜をそこまで使うのか?」
新しい知識。
新しい技術。
たった一つの菓子でも、世界は少し変わる。
安藤は静かに思う。
食べることは、生きることだった。
そして、誰かと食べることで、少しだけ前を向けるのだ。




