第二十話 グランフェルト会戦(前編)
グランフェルト。
王都グランツハイム東方へ広がる広大な平原。
王都防衛の要であり、王国東西を結ぶ交通の要衝でもあるその地へ、二つの大軍が対峙していた。
ヴァルデン王国軍、およそ七万。
ルーシェ皇国軍、およそ十五万。
兵力差は二倍を超える。
朝靄の残る草原を、無数の軍旗が埋め尽くしていた。
風が吹く。
軍旗が揺れる。
軍馬が鼻を鳴らす。
誰も口を開かない。
これほどの兵力が真正面から激突する戦は、大陸史上でも例がなかった。
戦場には、張り詰めた静寂だけが広がっていた。
◇
ルーシェ皇国軍本陣。
高台から戦場全体を見下ろす男がいた。
皇帝ヴァレンティン九世。
その隣には、大司教ゲオルギウス・ヴァルタス。
そして一段前方。
戦場中央を見据える老将。
大将軍ドミトリー・コルサコフである。
「大陸最強」とまで謳われる、皇国随一の名将。
アウエンハーフェン攻略戦を指揮したほか、数々の遠征を成功へ導いてきた男だった。
ゲオルギウスが静かに口を開く。
「これだけの兵力差がありながら、敵は篭城ではなく野戦を選びましたか」
「愚かな判断ですな」
ヴァレンティン九世は僅かに首を振る。
「いや」
「ヴァルデンの王とて愚かではあるまい」
視線は戦場から動かない。
「何か策がある」
「だが」
皇帝は前方に立つ老将を見る。
「ドミトリーならば、いかなる策にも対応できよう」
ゲオルギウスも静かに頷いた。
「異端者アンディの奇策とやらも、本日まででしょうな」
ドミトリーは振り返らない。
ただ静かに命令を下す。
「中央歩兵」
「隊列を維持」
「魔術師団、予定位置へ」
「騎兵は待機」
「命令があるまで動くな」
「はっ!」
伝令が馬を走らせる。
命令は瞬く間に各部隊へ伝わった。
中央には弓歩兵。
その前へ大盾歩兵。
さらに最前列には魔術師団。
左右には騎兵。
中央後方には、アレクセイ・ドラゴミロフ率いる別働隊。
その隣には、副将セルゲイ・ヴォルコフ。
整然。
規律。
兵数だけではない。
この統率力こそが、大陸最強軍と恐れられる理由だった。
◇
一方、ヴァルデン王国軍最前線。
魔術師部隊の前で、アーデルは静かに敵陣を見据えていた。
隣にはロッティ。
ジーク。
安藤。
そして巨大な土のゴーレム、フィジコ。
アーデルはゆっくり息を吐いた。
「野戦投入魔術師十八名」
「王国中から集めても、この人数か」
苦笑だった。
「対する皇国は約五十」
「数だけ見れば勝負にならん」
ジークが肩を竦める。
「三倍近いな」
「正面から撃ち合えば押し負ける」
「ええ」
ロッティも頷いた。
「だからこそ」
アーデルの声は落ち着いていた。
「最初から全力で行く」
全員が顔を上げる。
「魔力を温存する必要はない」
「今回の魔術戦は長引かせない」
「敵へ考える時間を与えるな」
その言葉に、全員が静かに頷いた。
今回の作戦。
魔術師部隊は勝利する必要はない。
時間を稼げばいい。
安藤の土魔術が完成するまで。
その一点だけが役目だった。
「合図と同時に撃て」
「魔力は惜しむな」
「最後の一滴まで使え」
「アンディが動き出せば、戦いは次の段階へ移る」
アーデルは皆を見回した。
「だから安心して使い切れ」
「はい!」
全員の声が重なった。
◇
戦場中央。
両軍の魔術師たちがゆっくりと前へ出る。
そのさらに前では、大楯を構えた盾兵が壁のように並ぶ。
魔術師は軽装だった。
詠唱の妨げとなるため、金属性の鎧は身に着けられない。
ゆえに戦場では最も狙われやすい兵科でもある。
だから大盾歩兵が守る。
弓歩兵が援護する。
長槍兵が前線を支える。
魔術師だけでは戦えない。
すべての兵科が噛み合って初めて、その力を発揮する。
やがて、両軍の距離が、互いの有効射程へ入った。
一瞬、風が止む。
静寂。
その直後だった。
「撃てぇぇぇぇっ!!」
アーデルの凛とした声が戦場へ響き渡る。
十八本の杖が、一斉に天へ向いた。
爆炎。
雷光。
氷柱。
暴風。
十八人とは思えないほど濃密な魔力が、皇国軍へ襲い掛かる。
ほぼ同時。
「放て!」
イワン・オルロフも号令を下した。
五十人近い魔術師たちが、一斉に詠唱を終える。
巨大な火球。
暴風。
雷撃。
氷槍。
空そのものが魔力の光で白く染まった。
そして、次の瞬間。
轟音とともに、両軍の魔術が真正面から激突した。
爆炎。
衝撃波。
土煙。
大地が震え、草原が揺れる。
グランフェルト会戦の火蓋が、今、切って落とされた。
◇
轟音が草原を揺らす。
爆炎。
雷光。
暴風。
氷槍。
無数の魔術が激突し、中央一帯は瞬く間に土煙へ包まれる。
熱風が兵士たちの頬を叩いた。
視界が白く霞む。
だが、誰一人として足を止めない。
「水壁!」
ロッティが杖を掲げた。
透明な水の壁が魔術師部隊の前へ立ち上がる。
直後。
皇国側から放たれた巨大な火球が激突した。
轟音。
大量の蒸気が吹き上がる。
熱気が辺りを包み込んだ。
「次が来ます!」
ロッティが叫ぶ。
その言葉通り、蒸気の向こうから今度は暴風が迫ってきた。
「散開!」
アーデルが鋭く命じる。
魔術師たちは左右へ飛び退き、風刃は地面を抉りながら後方まで駆け抜けた。
土と草が舞い上がる。
「第二列!」
「前へ!」
控えていた魔術師たちが駆け出した。
詠唱。
放つ。
すぐに後退。
入れ替わるように次の者が前へ出る。
十八人しかいないからこそ、一人たりとも遊ばせない。
アーデルの指揮の下、魔術師たちは機械のような正確さで前後を入れ替え続けた。
◇
一方、ルーシェ皇国軍。
イワン・オルロフは静かに戦況を見つめていた。
「相手は統制が取れている」
小さく呟く。
「数で勝る我らへ真正面から撃ち合いを挑んできた」
「愚策ではありませんか?」
副官が言う。
イワンは首を横へ振った。
「違う」
「あの女だ」
視線の先には、絶えず指示を飛ばすアーデルの姿があった。
「撃つ」
「下がる」
「前へ」
「魔術戦でこれほど部隊を滑らかに動かせる者は、大陸でも数えるほどしかおらん」
隣でミハイル・ヴォローニンも頷く。
「間違いありません」
「あの女が指揮を執っています」
◇
その時だった。
一人の王国魔術師が胸を押さえ、膝をついた。
敵の氷槍が脇腹を掠めていた。
「ぐっ……!」
血が流れる。
そのまま倒れ込んだ。
ロッティは迷わず駆け出した。
「シャルロット殿!」
護衛兵が叫ぶ。
しかし彼女は振り返らない。
負傷した魔術師の横へ膝をつく。
掌を傷口へ当てた。
「清き流れよ――」
柔らかな光が溢れる。
裂けた肉が閉じていく。
血が止まり始めた。
青年は驚いたように胸へ触れる。
「……動きます」
拳を握る。
肩を回す。
「まだ戦えます!」
ロッティは小さく微笑んだ。
「お願いします」
「はい!」
青年は杖を拾い上げ、再び前線へ駆けていく。
その姿を見届ける間もなく、
「ロッティ!」
アーデルの声が飛ぶ。
「右だ!」
「はい!」
ロッティはすぐに走り出す。
次の負傷兵の元へ。
回復役である彼女には、一瞬たりとも休む時間はなかった。
◇
ジークは巨大な火球を作り上げる。
「喰らえぇぇぇっ!」
轟音。
火球が敵魔術師部隊へ突っ込む。
数人の魔術師が吹き飛ばされた。
王国兵たちから歓声が上がる。
だが。
「風壁!」
イワン・オルロフが杖を掲げる。
暴風が巻き起こる。
火球は強引に逸らされ、その威力を大きく削がれた。
ジークは思わず舌打ちした。
「押し返したか……!」
アーデルも静かに敵陣を見据える。
「やはり、向こうにもいるな」
「化け物が」
魔術師同士の実力差は小さくない。
しかし皇国側にも、王国側に劣らぬ実力者が存在していた。
◇
爆炎が止まない。
雷が走る。
風が唸る。
土煙の中では、盾兵たちが必死に魔術師を守っていた。
「前を向け!」
「盾を下げるな!」
皇国兵も、王国兵も、互いに一歩も引かない。
倒れた者の代わりに、すぐ次の兵が前へ出る。
それは魔術師も同じだった。
前線では、誰一人として自分の命だけを考えてはいない。
時間を稼ぐ者。
仲間を守る者。
傷を癒やす者。
敵を撃ち抜く者。
それぞれが、自らの役割を果たし続けていた。
◇
その激戦の中で、ただ一人、安藤だけは動かなかった。
フィジコの後ろで静かに目を閉じる。
耳元では爆発が続いている。
悲鳴が響く。
兵士が倒れる。
それでも安藤は微動だにしない。
アーデルが一度だけ振り返る。
安藤と目が合う。
互いに小さく頷いた。
王国中の魔術師たちが命を懸けて稼ぐ時間。
そのすべては、一人の青年へ託されていた。
◇
魔術戦は、なお激しさを増していた。
爆炎が大地を焼く。
雷鳴が轟く。
暴風が草原を薙ぎ払う。
両軍の最前線では、魔術師たちが一歩も譲らず撃ち合いを続けていた。
「第三列、前へ!」
アーデルの指示が飛ぶ。
魔力を使い果たした魔術師が後退する。
代わって新たな魔術師が前へ出る。
十八人しかいない。
だからこそ、一人の無駄も許されない。
全員が歯車となり、部隊は寸分違わぬ動きを見せていた。
◇
皇国軍魔術師部隊。
ミハイル・ヴォローニンは戦場を見つめながら、拭い切れない違和感を覚えていた。
「……おかしい」
イワン・オルロフが横目で見る。
「何だ」
「アーデルハイトです」
「あの女、明らかに飛ばし過ぎています」
ミハイルは眉をひそめた。
「魔力消費の配分が異常です」
「あのような撃ち方では、全員が魔力切れを起こします」
イワンは静かに答えた。
「焦っているのではないか」
「いえ」
ミハイルは首を振る。
「あの女ほどの魔術師が、そんな初歩的な失敗をするとは思えません」
「まるで――」
一度、言葉を切る。
「魔力を使い切っても構わない、と考えているかのようです」
その瞬間だった。
ミハイルの視線が止まる。
「……!」
戦場中央。
一人の黒髪の青年が、ゆっくりと前へ歩いていた。
その後ろには、巨大な土の巨人。
「アンディ……!」
思わず声が漏れる。
「やはり来たか!」
◇
安藤は静かに最前線へ歩み出る。
その後ろを、フィジコが一歩も離れず追従する。
左手には巨大な盾。
右手には大剣。
全身を土色の装甲で覆った巨体は、それだけで圧倒的な存在感を放っていた。
王国兵たちは自然と道を開ける。
「アンディ殿だ……」
「始まるぞ」
兵士たちの表情が引き締まる。
アーデルは安藤を一瞥しただけで、再び前を向いた。
「予定どおり」
「全員、アンディを守れ」
「はい!」
誰一人として迷わない。
ここから先は、すべてが事前の作戦どおりだった。
◇
皇国軍。
ミハイルは血相を変えた。
「イワン様!」
「あの黒髪の魔術師です!」
「最優先で仕留めてください!」
イワンが細く目を開く。
「あれが例の土魔術師か」
「はい!」
「私が遭遇した時には、あのような巨大ゴーレムはいませんでした」
「何かあります!」
「絶対に詠唱を許してはいけません!」
イワンは即座に判断した。
「弓歩兵!」
「先頭を狙え!」
「あの黒髪の魔術師を最優先で討て!」
「一斉射撃!」
◇
次の瞬間。
無数の矢が空を覆った。
まるで黒い豪雨だった。
数百本もの矢が、一斉に安藤へ降り注ぐ。
だが。
ドォンッ!!
フィジコが一歩前へ出る。
巨大な盾を構えた。
ガガガガガガガガッ!!
矢が盾へ次々と突き刺さる。
一本も通さない。
盾は瞬く間に黒い矢で埋め尽くされた。
「防ぎ切った!」
「全部だ!」
皇国軍から驚愕の声が上がる。
◇
「第二射!」
再び号令が響く。
今度は左右へ散らし、盾を避けるように矢が放たれた。
その一本が、ロッティを狙う。
「っ!」
ロッティが身を固くする。
しかし。
キィィンッ!!
フィジコの大剣が閃いた。
飛来した矢を、正確無比に弾き飛ばす。
一矢。
二矢。
三矢。
四矢。
まるで未来が見えているかのように、一本残らず打ち払っていく。
ロッティは思わず笑みを浮かべた。
「ありがとう、ベルちゃん」
フィジコは答えない。
ただ黙って主人の前へ立ち続ける。
◇
その横では、ジークが吠えた。
「こっちは任せろ!」
巨大な火球が皇国軍の弓歩兵へ突き進む。
轟音。
弓歩兵たちが散り散りに飛び退く。
その隙を逃さず、王国魔術師たちも一斉に魔術を撃ち込んだ。
「撃て!」
「撃ち続けろ!」
「アンディ殿へ近付けるな!」
アーデルの号令が響く。
誰一人として魔力を惜しまない。
それどころか、限界を超えて杖を振るっていた。
魔力切れなど問題ではない。
今、この瞬間だけ守り切ればいい。
そのためだけに、王国中の魔術師がここへ集められたのだから。
◇
そして、安藤はゆっくりと目を閉じた。
深く息を吸う。
右手に握った杖を静かに前へ差し出す。
低く。
重く。
長い詠唱が始まった。
その声は戦場の喧騒の中にあっても、不思議なほど静かに響いていた。
足元の土が、小さく震え始める。
誰もまだ、その意味を知らない。
だが、王国軍の者たちは皆、息を潜めて、その瞬間を待っていた。
ゴゴゴゴゴ……
大地が低く唸り始めた。
草が揺れる。
兵士たちは思わず足元を見た。
「地震か……?」
「いや、違う……」
「土が……動いている!」
安藤は詠唱を続けていた。
額から汗が流れる。
これほど広範囲へ土魔術を行使するのは、彼にとっても初めてだった。
それでも止めない。
止めるわけにはいかなかった。
◇
皇国軍最前線。
ミハイル・ヴォローニンの顔色が変わる。
「まずい!」
「何が起きる!」
イワン・オルロフが怒鳴る。
「分かりません!」
「ですが、あの男は普通の土魔術師ではありません!」
「止めなければ!」
イワンは即座に命じた。
「魔術師隊!」
「最大火力!」
「詠唱中のあの男を吹き飛ばせ!」
数人の魔術師が一斉に杖を掲げる。
炎。
雷。
風。
氷。
膨大な魔力が収束していく。
その瞬間だった。
「撃たせるな!」
アーデルの怒号が響く。
王国側の魔術師たちも最後の魔力を振り絞る。
巨大な爆炎。
暴風。
雷撃。
残る魔力のすべてを敵最前列へ叩き込んだ。
皇国軍魔術師部隊は再び爆炎と土煙に包まれる。
◇
「今だ!」
ジークが叫ぶ。
巨大な火球が敵の弓歩兵へ突き刺さった。
轟音。
隊列が乱れる。
ロッティは負傷兵へ回復魔術を施しながら叫んだ。
「前を維持してください!」
「あと少しです!」
王国側の魔術師たちは、すでに魔力切れ寸前だった。
息は荒い。
杖を握る腕も震えている。
それでも誰一人として持ち場を離れない。
全員が理解していた。
守るべき時間は、あとわずかだということを。
◇
そして、安藤は最後の一節を唱え終えた。
ゆっくりと目を開く。
杖の先端を大地へ向けた。
「土よ――」
一瞬、戦場から音が消えたように感じられた。
次の瞬間。
ドォォォォォォォォォン!!
大地そのものが盛り上がる。
皇国軍の目前。
高さ二メートルほどの土壁が、轟音とともに横一線へ伸びていく。
左へ。
右へ。
さらに左へ。
さらに右へ。
その長さは、やがて両軍の視界を超えた。
地平線の彼方まで。
まるで大地へ一本の境界線が刻まれたようだった。
「何だこれは!」
「敵が見えん!」
「前方が塞がれたぞ!」
皇国軍最前列は、一気に混乱へ包まれる。
◇
ドミトリー・コルサコフは土壁を見据えた。
僅かに目を細める。
「……なるほど」
副官が駆け寄る。
「大将軍!」
「これでは前進できません!」
ドミトリーは即座に命じた。
「慌てるな」
「常軌を逸した規模だが、所詮は土だ」
「石造りの城壁ほど堅くはない」
その声は落ち着いていた。
「土属性魔術師を前へ」
「『分解消去』を開始せよ」
「大盾歩兵を前へ出し、魔術師を守れ」
「弓歩兵も援護に回せ」
「騎兵はこのまま後方で待機」
「敵の次の一手を見極める」
「はっ!」
伝令が馬を走らせる。
さすがは、大陸最強と謳われる名将だった。
未知の戦術にも取り乱さない。
敵は土魔術師を使い、奇策を用いてきた。
ならば冷静に対処すればいい。
兵力はこちらが倍以上ある。
敵が何を仕掛けてこようとも、その都度押し返せば済む。
ドミトリーはそう判断していた。
◇
一方、土壁のこちら側では、すべてが予定どおりに進んでいた。
アーデルが杖を掲げる。
「魔術師部隊、後退!」
「弓歩兵、前へ!」
魔力を使い切った魔術師たちが一斉に下がる。
代わって弓歩兵たちが前へ走る。
安藤は右手をかざした。
土が盛り上がる。
緩やかな坂道が土壁の内側へ次々と作られていく。
「登れ!」
弓歩兵たちは一斉に駆け上がった。
土手の頂上。
高所を確保した王国弓歩兵は、壁の向こうで最前列へ集まり始めた皇国軍魔術師と大盾歩兵へ、一斉に矢を浴びせようと構える。
「放てぇぇぇ!」
無数の矢が空を覆う。
高低差を利用した一斉射撃だった。
最前列に出たままの、軽装の皇国魔術師たちが次々と矢に倒れていく。
「ぐあっ!」
「魔術師を守れ!」
盾兵たちが慌てて前へ飛び出す。
ドミトリーの命令どおり、重装歩兵と盾兵が最前列へ押し寄せ、すぐに隊形を立て直し始めた。
◇
その頃、土壁の左右の果てでは、ヴォルフラム・アイゼン率いる左翼の槍騎兵が、壁沿いに一気に外側へ展開していた。
「急げ!」
「まだ敵には見えていない!」
ラルフが叫ぶ。
軍馬が草原を駆け抜ける。
黒田は前だけを見据えていた。
「思った以上だ……」
思わず漏れる。
横一線に続く巨大な土壁。
敵軍の視界を完全に遮り、自分たちの動きだけを隠している。
これほど大規模な土魔術を目の当たりにしたのは、黒田も初めてだった。
「これなら行ける」
小さく呟く。
隣を走るルーカスが笑った。
「アンディ殿らしい」
「派手なことをやる」
ラルフも口角を上げる。
「だから俺たちは走るだけだ!」
「壁の終わりまで、一気に抜けるぞ!」
「おう!」
槍騎兵たちは速度を緩めない。
土壁そのものが敵の視界を遮っている。
まだ皇国軍は、この展開に気付いていなかった。
◇
右翼でも同じだった。
コンラート・フォン・ヘルヴィッツ率いる槍騎兵が、壁沿いに大きく回り込む。
「速度を落とすな!」
「壁の終わりまで一気に走る!」
「はっ!」
兵たちが応じる。
誰も迷わない。
事前に何度も確認した手順どおりだった。
合図はただ一つ。
安藤が築いた、この巨大な土壁。
それだけで七万の軍勢が、同じ時計を見ているかのように動いていた。
◇
そして、左右に展開した槍騎兵が、それぞれ土壁の終端へ到達する。
皇国軍の側面が、初めて視界へ入った。
「敵だ!」
「側面だ!」
皇国兵が叫ぶ。
だが、もう遅い。
ヴォルフラムは剣を抜いた。
「突撃!」
コンラートも槍を掲げる。
「ヘルヴィッツ騎士団、我に続け!」
左右から王国の槍騎兵が一斉に皇国軍の横腹へ襲い掛かった。
◇
すべては、開戦前から打ち合わせていた通りだった。
安藤が横一線に長大な土壁を築く。
それを確認した両翼の槍騎兵は、壁沿いに展開し、敵の側面へ回り込んで急襲する。
開戦前から決められていた手順だった。
アーデルは敵陣の混乱を見届け、小さく息を吐いた。
「頃合いだ」
土手の上へ展開していた弓歩兵へ向け、杖を振る。
「全員、下がれ!」
号令とともに弓歩兵たちは一斉に土手を駆け下りる。
魔術師たちも、はるか後方へと退避する。
その中央には、なお安藤だけが立っていた。
杖の先端を地面へと向け、静かに詠唱を続けている。
アーデルが小さく笑う。
「最後の仕上げだ」
次の瞬間だった。
轟音。
横一線に築かれていた巨大な土手が、一斉に崩れ始めた。
土煙が舞い上がる。
崩れ落ちた土は緩やかな斜面となり、騎兵でも十分に駆け抜けられる道へ変わっていく。
安藤は分解消去のような高度な土魔術は使えない。だが、自ら築いた土壁を崩すことくらいなら容易だった。
大きさに比例して大量の魔力消費を伴うが、こちらの制限も安藤とは無縁だ。
目の前の視界が、一気に開けた。
その先には、なお混乱の収まらないルーシェ皇国軍。
最前列には軽装の魔術師と、それを盾で守る歩兵のみ。
左右では、ヴォルフラム率いる槍騎兵と、コンラート率いる槍騎兵が、敵陣の側面で激しくぶつかり合っていた。
敵の視線は左右へ引き寄せられている。
今度は正面。
主力の重騎兵は今まさに、突撃の態勢を整えていた。
ルドルフ四世は剣を高く掲げる。
「全軍!」
王の声が戦場へ響き渡る。
「敵を蹂躙せよ!」
一拍。
「――突撃!!」
「おおおおおおおおおっ!!」
数万の雄叫びが大地を震わせた。
槍が前へ突き出される。
軍馬が一斉に駆け出す。
中央。
左翼。
右翼。
三方向から、ヴァルデン王国軍が雪崩のように敵陣へ襲い掛かる。
グランフェルト会戦。
王国の命運を懸けた総攻撃が、ついに始まった。




