第十八話 侵食されゆく王国
アウエンハーフェン。
ヴァルデン王国最大の穀倉地帯を守る城塞都市は、炎と黒煙に包まれていた。
城壁の上では弓兵たちが矢を放ち続ける。
だが、城外を埋め尽くすルーシェ皇国軍の兵力は、あまりにも多い。
轟音。
巨大な破城槌が城門へ叩き付けられる。
兵士が叫ぶ。
「城門が持ちません!」
ベルンハルト・フォン・アウエは静かに前を見据えた。
白髪交じりの髪を風が揺らす。
長年この地を守り続けてきた辺境伯だった。
「慌てるな」
落ち着いた一言だけで、兵たちの表情が変わる。
ベルンハルトは剣を抜いた。
「ここで食い止める」
「一刻でも長く、敵を足止めしろ」
「その時間が王国を救う」
「はっ!」
兵たちが一斉に応じた。
その時だった。
皇国軍の後方。
一人の土魔術師が静かに杖を掲げる。
「分解消去」
淡い光が城門を包み込む。
石材が軋み始める。
鉄の蝶番が悲鳴を上げる。
兵士たちが息を呑んだ。
「王都での暗殺未遂……」
「報告にあった新たな土魔術か!」
ベルンハルトは歯を食いしばる。
城門は内側から石材で補強していた。
だが、「分解消去」は、その補強ごと崩していく。
やがて、巨大な城門は耐えきれず崩れ落ちた。
「槍兵、前へ!」
「盾を構えろ!」
崩れた城門へ、一斉に兵が雪崩れ込む。
激しい金属音が響いた。
槍と剣がぶつかり合う。
叫び声。
悲鳴。
血飛沫。
狭い城門では数の優位は生かせない。
ヴァルデン兵は必死に耐え続けた。
しかし――。
「右から回り込め!」
「押し込め!」
皇国軍の怒号が響く。
重装歩兵が前進する。
盾ごと押し潰す勢いだった。
ベルンハルトは剣を振るう。
一人。
二人。
三人。
皇国兵が倒れる。
それでも次々と新手が押し寄せた。
「閣下!」
若い騎士が叫ぶ。
「もはや持ちません!」
ベルンハルトは一瞬だけ空を見上げた。
黒煙の向こう。
青空がわずかに見える。
この景色も、今日で終わるのか。
そう思った。
静かに息を吐く。
「王都へ伝令は出したな」
「はい!」
「ならば十分だ」
ベルンハルトは小さく笑った。
「泣くな」
若い騎士が目を見開く。
「王国は、まだ負けておらん」
ベルンハルトは剣を構え直した。
「私は最後まで、この城の領主でいる」
剣を構える。
「アウエンハーフェン辺境伯」
「ベルンハルト・フォン・アウエ」
「ここより一歩たりとも通さん!」
雄叫びとともに敵陣へ踏み込む。
最後の突撃だった。
城門前で激戦が続く。
やがて、その姿は皇国兵の波へ飲み込まれていった。
◇
夕刻。
アウエンハーフェン陥落。
その報は、王都ヴァルデンへ向けて、一頭の伝令馬とともに駆け出していた。
王城、謁見の間。
重苦しい空気が流れていた。
扉が勢いよく開く。
「急報です!」
伝令の声に、その場にいた全員が振り向く。
騎士は息を切らしながら片膝をついた。
「アウエンハーフェンが陥落しました!」
謁見の間が静まり返る。
「……ベルンハルト卿は」
国王ルドルフ四世が静かに問う。
伝令は深く頭を下げた。
「壮絶な戦いの末……討ち死にされたとのことです」
誰も言葉を発しなかった。
ベルンハルト・フォン・アウエ。
長年にわたり西方を守り続けた忠臣である。
王は静かに目を閉じた。
「そうか……」
その一言だけだった。
しかし、その声音には深い悲しみが滲んでいた。
謁見の間の隅。
王女エリーゼは俯いたまま動かない。
静かに唇を噛み締めていた。
安藤はその様子に気付き、ゆっくりと歩み寄る。
「エリーゼ様……」
返事はない。
やがて、小さな声が漏れた。
「巡幸で訪れたばかりでした」
安藤は黙って耳を傾ける。
「母が生まれ育った町です」
「皆さん、本当に温かく迎えてくださいました」
一瞬だけ笑みが浮かぶ。
しかし、その笑みはすぐに消えた。
「もう……失われてしまいました」
静寂が流れる。
安藤は静かに口を開こうとした。
その時だった。
エリーゼは涙を拭い、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、まだ悲しみは残っている。
だが、王族としての強さも宿っていた。
「……取り返しましょう」
その声は震えていた。
それでも、確かな意志があった。
安藤は力強く頷く。
「はい」
「必ず」
二人の短い言葉だけが交わされる。
その様子を見ていた王は、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
「アウエンハーフェンは、亡き王妃が生まれ育った土地でもある」
静かな声だった。
だからこそ、怒りが伝わる。
「余はルーシェ皇国へ、正式な抗議の書簡を送る準備を進めていた」
「アンディ暗殺未遂について、謝罪と賠償を求めるためだ」
一拍置く。
「だが、もはやその必要はない」
王は玉座の肘掛けを強く握った。
「これは外交問題ではない」
「戦争だ」
その一言が、謁見の間へ重く響いた。
アーデルが静かに口を開く。
「陛下」
「皇国軍は、この勢いのまま西進を続けるものと思われます」
ヴォルフラムも続く。
「王都まで進軍を許すわけにはまいりません」
王はゆっくりと頷いた。
「直ちに軍議を開く」
「全軍へ召集をかけよ」
「はっ!」
重臣たちが一斉に頭を下げる。
王都全体が、戦時体制へ移ろうとしていた。
◇
一方、その頃――。
アウエンハーフェン城。
領主の居室には、静かな空気が流れていた。
窓の外では、皇国兵たちが城壁の補修を進めている。
戦闘の熱気だけが、まだ城内へ残っていた。
部屋の中央では、一人の男が姿勢を正して立っている。
ミハイル・ヴォローニン。
かつてアンディ暗殺部隊を率い、唯一生還した土属性魔術師だった。
部下を失い、任務にも失敗した責任を問われ、しばらく謹慎処分となっていた。
ようやくその処分が解かれ、この戦争から軍へ復帰したのである。
だが、その表情に安堵はない。
皇国軍は、緒戦を制した。
それでも、胸の奥には拭えない不安が残っていた。
(暗殺計画は完璧だった)
心の中で呟く。
(認識阻害)
(沈黙)
(眠り)
(逃走経路まで用意した)
(それでも失敗した)
あの異世界人だけは、常識が通用しなかった。
精神魔術ですら通じなかった。
部下は精神干渉の反動で倒れた。
そして、あの土魔術。
同じ土属性魔術師だからこそ分かる。
あれは、自分の知る土魔術の延長には存在しない。
思い返すだけで背筋が冷えた。
扉が開く。
部屋の空気が一変した。
入ってきたのは、一人の壮年の男だった。
イワン・オルロフ。
ルーシェ皇国宮廷魔術師団総監。
皇国における魔術師最高責任者である。
ミハイルは直ちに背筋を伸ばした。
「イワン様」
イワンは静かに椅子へ腰掛ける。
「謹慎の明けた最初の任務が勝ち戦とは、貴様も運が良いな」
「はっ」
「汚名を晴らす機会をいただき、感謝の念に堪えません」
イワンはしばらく黙っていた。
やがて口を開く。
「では聞こう」
「異世界人について、補足したいことがあるそうだな」
ミハイルは即座に答えた。
「ございます」
「あのアンディという土属性魔術師だけは、通常の土属性魔術師とは別物とお考えください」
イワンは眉一つ動かさない。
ミハイルは続ける。
「魔力量は常識外れです」
「精神魔術は、どれも効果がありません」
「そして、土魔術の規模が我々とは違います」
「近接戦闘であれば、いくらか対処は可能です」
「ですが、土魔術を戦争へ利用された場合――」
「我が軍は甚大な損害を受けます」
「ミハイル」
イワンが静かに遮った。
「それは任務失敗の弁明か」
一瞬、部屋が静まり返る。
ミハイルは唇を噛んだ。
「そのような弁明はいたしません」
「私は事実だけを申し上げております」
イワンは静かに立ち上がった。
「ならば、その損害を未然に食い止めよ」
ミハイルは答えられなかった。
「次の戦場で、働きを見せてもらう」
それだけ言い残し、部屋を出ていく。
扉が閉まった。
ミハイルは拳を強く握り締める。
「……誰も」
小さく呟く。
「誰も、あの男の恐ろしさを理解していない」
その言葉は、誰にも届かなかった。
◇
その頃――。
ルーシェ皇国軍、本陣。
軍用天幕の中央には、大陸全土を描いた巨大な地図が広げられていた。
その前へ立つ男。
ルーシェ皇国皇帝ヴァレンティン九世である。
その前へ、大将軍ドミトリー・コルサコフが片膝をついた。
「陛下」
「アウエンハーフェンを予定どおり陥落させました」
皇帝は静かに頷く。
「損害は、想定の範囲内です」
「敵将ベルンハルト・フォン・アウエも討ち取りました」
ヴァレンティン九世は地図へ視線を落としたまま尋ねる。
「この先にも、いくつか砦はございます」
「しかし、アウエンハーフェンほどの規模ではありません」
「唯一、東部防衛の要リッターシュタットがございます」
「攻略には相応の日数を要するかと」
皇帝は地図を見たまま言った。
「不要だ」
将軍たちが顔を上げる。
「リッターシュタットは放置せよ」
「王都を落とせば、自ずと降る」
「……御意」
「このまま西進すれば、王都まで我が軍を阻み得る勢力はございません」
皇帝は短く頷いた。
「次は王都ヴァルデンか」
「はっ」
将軍たちの表情には安堵が浮かぶ。
しかし、ヴァレンティン九世だけは笑わなかった。
「まだ戦は終わっておらぬ」
「慢心で兵を失う将に、明日はない」
「西進を継続する」
「補給だけは怠るな」
「兵站が止まれば、勝てる戦も勝てぬ」
「はっ!」
将軍たちは一斉に頭を下げた。
誰一人、異を唱える者はいなかった。
◇
エーレンベルク王国。
王都リヒテンフェルス。
山肌へ階段状に築かれた白亜の古都は、「芸術の都」として大陸中へ名を知られている。
山々に囲まれた王城には、穏やかな音楽が流れていた。
白い大理石で造られた回廊。
色鮮やかな壁画。
歴代国王の肖像画。
大広間の奥では、異国から招かれた演奏家たちが静かに弦を奏でている。
その穏やかな空気を破るように、一人の伝令が謁見の間へ駆け込む。
玉座へ跪く。
「ヴァルデン王国より急使が到着いたしました」
演奏が止まる。
国王レオポルト五世は静かに書簡を受け取った。
封蝋を解き、一通り目を通す。
その表情がゆっくりと引き締まった。
「……アウエンハーフェンが陥落したか」
重臣たちの間へ緊張が走る。
宰相が静かに尋ねた。
「参戦要請ですかな」
「ああ」
レオポルトは短く答えた。
宰相が口を開く。
「敵の進路を考えれば、次はヴァルデンの王都、グランツハイムでしょう」
軍務大臣が地図を広げた。
「このままヴァルデン王国が敗れれば、我が国は単独で、皇国の脅威と対峙しなくてはならなくなります」
別の大臣が首を横へ振る。
「ですが、今参戦すれば皇国との全面戦争は避けられません」
重苦しい沈黙が流れた。
レオポルトは窓の外へ目を向ける。
遠くには雪を頂いた山々が見える。
静かな国だった。
この景色を戦火で失うわけにはいかない。
「ルーシェ皇国は我が国の安全保障上、最大の脅威である」
「そして、ヴァルデンは我が国にとって、かけがえのない友邦だ」
一拍置く。
「だが、だからといって」
「ここで軽々しく兵を失うわけにはいかぬ」
「我が国が攻められた時、守る術まで失うことになる」
誰も反論しない。
それが現実だった。
レオポルトは再び書簡へ目を落とす。
「軍議を開く」
「主だった者を集めよ」
「皆で知恵を出し合い、我が国にとって最善の道を探ろうではないか」
「ヴァルデンを見捨てぬ道も含めてな」
大臣たちは静かに頷いた。
エーレンベルク王国でもまた、ヴァルデン王国の命運を左右する決断が始まろうとしていた。
◇
ヴァルデン王国。
王城、軍議の間。
大きく広げられた地図を囲み、王と重臣たちが集まっていた。
西部には赤い駒。
ルーシェ皇国軍。
その最前線は、アウエンハーフェンを示している。
王が静かに口を開く。
「状況を報告せよ」
ヴォルフラムが一歩前へ出た。
「皇国軍はアウエンハーフェンを拠点とし、更なる西進の準備を進めています」
「兵力は、なお健在」
「侵攻は継続されるものと思われます」
王は静かに頷いた。
「エーレンベルク王国へは」
ハインリヒが答える。
「既に救援を要請しております」
「返答は、まだありません」
再び沈黙が流れる。
その空気を破るように、黒田が一歩前へ出た。
「陛下」
「俺は戦います」
王が視線を向ける。
黒田は真っ直ぐ前を見据えていた。
「俺は、この国へ残ると決めました」
「だったら、この国を守るのは当然です」
少し笑う。
「俺の居場所ですから」
その一言に、王は静かに頷いた。
「頼もしい」
黒田は照れくさそうに頭を掻く。
王は今度は安藤へ目を向けた。
「アンディ」
「お前は客人だ」
「戦う義務はない」
「無理強いもしない」
部屋が静まり返る。
全員が安藤の返答を待っていた。
安藤はゆっくりと地図へ目を落とす。
アウエンハーフェン。
ベルンハルト卿。
エリーゼの涙。
ロッティ。
フィジコ。
残ると決めた黒田。
短い間だった。
それでも、この国には守りたいものが増えていた。
静かに顔を上げる。
「送還の魔術には、国家予算級の魔石が必要になります」
「王国が滅びれば」
「帰れる保証もなくなる」
一拍置く。
穏やかに笑った。
「やれるだけ、やりますよ」
王は静かに頷く。
「協力に感謝する」
「ヴァルデン王国へ、その力を貸してほしい」
「はい」
「任せてください」
黒田と安藤が同時に答えた。
ハインリヒが静かに口を開いた。
「陛下」
「一つ、大きな問題があります」
ハインリヒは静かに地図を閉じる。
「今年は豊作でした」
「ヴァルク紙幣による納税も順調です」
「王国の税収は、かつてないほど改善しております」
「財政だけを見れば、今年は過去最高と言っても差し支えありません」
王は静かに頷く。
「それは承知している」
ハインリヒは続けた。
「それ以前より抱えていた商人への未払いも、今回の税収で大半を返済いたしました」
「平時であれば、それで十分でした」
一拍置く。
「ところが、戦争は想定しておりませんでした」
王も静かに頷く。
「続けよ」
ハインリヒは苦い表情を浮かべる。
「武器」
「鎧」
「食料」
「軍馬」
「荷馬車」
「戦争となれば、あらゆる物資を急ぎ調達しなければなりません」
部屋が静まり返る。
やがてハインリヒは、小さく息を吐いた。
「再び商人たちへ借り入れを願い出るしか……」
その声には迷いがあった。
戦争となれば、商人たちも貸し倒れを恐れる。
高い利息を要求されるかもしれない。
あるいは、誰一人応じない可能性すらあった。
沈黙。
その静寂を破ったのは、安藤だった。
「借りる必要はありません」
全員の視線が集まる。
安藤は静かにハインリヒを見た。
「ヴァルデン王国には、通貨発行権があります」
一瞬、誰も言葉の意味を理解できなかった。
安藤は穏やかな口調のまま続ける。
「ヴァルク紙幣を増発しましょう」
軍議の間が、水を打ったように静まり返った。




