第十六話 暗殺者
夜の職人街は静かだった。
昼間は荷車と職人たちで賑わう石畳も、今は人影がまばらになっている。鍛冶場の火は落ち、木工所の扉も閉ざされていた。遠くから、酒場の笑い声がかすかに聞こえる。
安藤は一人、王城への帰り道を歩いていた。
今日も帰りは遅くなった。
ケラー食堂へ顔を出し、ガレスの工房へ寄り、道路工事について職人たちと話し込んでいたのだ。舗装の厚み、排水溝の勾配、荷車がすれ違える幅。そんな話をしているうちに、あっという間に夜になっていた。
ラルフたちは巡察任務のため別行動となり、王城までは一人で戻ることになっていた。
「働きすぎだな、俺」
苦笑しながら夜空を見上げる。
明日も早い。
朝から街道工事の現場へ行き、その後は財務大臣と資材配分の打ち合わせがある。午後にはロッティへ算術を教える約束もしていた。
忙しい。
けれど、悪くはなかった。
誰かが作ったものではなく、自分たちで国を変えていく感覚がある。
王都の夜は平和だった。
少なくとも、安藤はそう思っていた。
細い路地へ入った、その時だった。
前方に二人。
後方に二人。
音もなく、男たちが現れた。
黒い外套。
軽装の革鎧。
顔は布で覆われている。
剣士が二人。
魔術師が二人。
安藤は立ち止まった。
「……また強盗か?」
返事はない。
四人とも、一言も発しない。
ただ、ゆっくりと間合いを詰めてくる。
安藤は左右へ視線を走らせた。
脇道はない。
両側は石壁。
窓も高い。
逃げ場はなかった。
背筋へ冷たいものが走る。
強盗なら金を要求する。
脅しもする。
だが、この四人は違った。
殺す。
それだけが目的。
そんな静かな圧力だけが伝わってくる。
路地の入口近くを、酔客らしき男がふらつきながら歩いていた。
安藤は思わずそちらへ視線を向ける。
だが、男はこちらを見なかった。
四人の黒い外套にも、抜かれかけた剣にも気付かないまま、笑い声を漏らして通り過ぎていく。
前方の魔術師が杖を掲げた。
低い詠唱が路地へ響く。
「……認識阻害……」
続いて後方。
「……沈黙……」
安藤は目を細めた。
細かな言葉までは聞き取れない。
だが、魔術であることだけは分かる。
背中へ冷や汗が流れた。
(何だ……)
(何で俺なんだ)
魔物ではない。
ドラゴンでもない。
人間が、明確な意思を持って、自分を殺そうとしている。
しかも理由が分からない。
ライバル店の嫌がらせか。
いや、そんな生易しいものではない。
その時、後方の魔術師が突然、苦しそうに顔を歪めた。
「沈黙の魔術が……効かない」
安藤は思わず振り返る。
魔術師は膝をつきかけていた。
「魔力量が……異常だ」
沈黙。
次の瞬間。
「眠りへ切り替えろ」
もう一人が、思わず声を漏らす。
「情報が違う……」
その声を、命令した男が視線だけで制した。
安藤は理解した。
こいつらは、殺し慣れている。
戦って勝つ必要はない。
生き残る。
逃げればいい。
その一択だった。
杖を前へ突き出す。
「土壁!」
轟音。
石畳が割れ、大地が盛り上がる。
屋根を越える巨大な土壁が路地を塞いだ。
前方の二人が壁の向こうへ消える。
安藤は迷わず後ろを向く。
土壁によって前方の二人は分断できた。
残るは後方の二人。
そのうち魔術師は、なお膝をついたままだ。
突破するなら今しかない。
そう思った瞬間。
家々の窓が一斉に開いた。
「何だ今の音!」
「地震か!」
「いや、壁だ!」
「壁が出来てるぞ!」
認識阻害の魔術が掛かっていたとしても、この規模の土魔術までは隠せなかったのだろう。
安藤は内心で安堵する。
(気付いてくれた)
(街道巡察隊の兵舎は近い)
(衛兵が来る)
目の前の剣士が静かに剣を抜いた。
安藤も腰の木刀へ手を伸ばす。
鉄と木。
勝負になるとは思っていない。
だから、正面からは斬り合わない。
杖を地面へ向ける。
「揺れろ!」
石畳が大きく波打つ。
剣士の足が一瞬だけ浮いた。
その隙へ木刀を振る。
しかし、剣士は半歩だけ身を引いた。
木刀は空を切る。
(速い)
次の瞬間。
細身の剣が閃いた。
肩口。
脇腹。
二筋の赤い線が走る。
遅れて激痛が襲ってきた。
「ぐっ……!」
安藤は反射的に距離を取った。
傷口が焼けるように熱い。
浅い傷のはずなのに、嫌な熱が皮膚の奥へ染み込んでいく。
剣士は追いすぎない。
ゆっくり。
一歩。
また一歩。
一定の歩幅で間合いを詰めてくる。
怒りもない。
焦りもない。
任務を遂行するためだけの足取りだった。
その無機質さが、何より恐ろしい。
安藤は歯を食いしばる。
まだ動ける。
まだ逃げられる。
安藤は木刀を構えた。
眼前に迫る剣士を迎え撃つ。
真正面から勝てる相手ではない。
それでも立つしかなかった。
剣が閃く。
木刀で受ける。
衝撃が腕へ突き抜けた。
二撃目。
受け流す。
三撃目。
再び肩口を浅く裂かれる。
剣士は一つの動作も無駄にしない。
追い詰める。
逃がさない。
それだけだった。
安藤は一瞬だけ視線を落とす。
石畳。
それしか見ていない。
「揺れろ!」
杖を叩き付ける。
石畳が大きく波打った。
剣士の体勢がわずかに崩れる。
その一瞬。
木刀が大きく横薙ぎに振り抜かれた。
鈍い音が路地へ響く。
木刀は剣士の側頭部を捉えた。
男はその場へ崩れ落ちた。
動かない。
進路は開けた。
あとは、この路地を抜けるだけ――。
安藤は駆け出した。
二歩。
その瞬間だった。
路地の出口に、一人の男が立っていた。
土壁の向こうに取り残されたはずの剣士だった。
(そんな……)
同時に背後から低い詠唱が響く。
「分解消去」
巨大な土壁が、ゆっくりと砂へ還り始める。
土壁はすぐには崩れない。
その間に、剣士は別の路地を回り込んでいた。
そして土煙の向こうに、先ほど命令を下していた魔術師が姿を現した。
逃げ道を塞がれ、再び挟み撃ちとなった。
剣士が踏み込んできた。
木刀で受ける。
重い。
腕が痺れる。
肩。
腕。
脇腹。
浅い傷が次々と増えていく。
傷は深くない。
それなのに、身体が思うように動かない。
傷口が焼けるように熱い。
指先がじわりと痺れていく。
(何だ……)
(血を流しすぎたのか……?)
違和感だけが募る。
剣士は一定の速度で迫ってくる。
焦らない。
急がない。
逃がさない。
ただ、それだけだった。
安藤は再び木刀を合わせる。
今度は反応がわずかに遅れた。
刃が腕を掠める。
「くっ……!」
膝が沈む。
視界が揺れた。
その時だった。
「アンディ殿!」
夜の路地へ怒声が響く。
闇の向こうから、街道巡察隊の外套が駆け込んできた。
続いて、いくつもの足音。
「衛兵だ!」
「こっちだ!」
家々から飛び出してきた職人たちの声も重なる。
魔術師は周囲を見回した。
認識阻害では、もはやこの騒ぎは隠し切れない。
一瞬だけ眉をひそめる。
「……想定外か」
そう呟くと、即座に判断を下した。
「撤退」
残っていた剣士が一歩前へ出る。
魔術師を逃がすため、道を塞ぐ。
魔術師は最後に短く呟いた。
「次の手へ移る」
小さな詠唱。
「隠蔽」
輪郭が夜闇へ溶けるように薄れていく。
衛兵が路地へ飛び込んだ時には、魔術師の姿はすでに闇へ紛れていた。
「逃がすな!」
ラルフが叫ぶ。
しかし、目の前の剣士が立ちはだかった。
鋼と鋼が激しくぶつかる。
一合。
二合。
三合。
暗殺者もまた一流だった。
だが、装備が違う。
ラルフは軍務院直属・街道巡察隊長として十分な武装を整えている。
一方、暗殺者は潜入任務のため最低限の軽装だった。
四合目。
ラルフの剣が、その差を突く。
剣士の胸を深々と貫いた。
男はなお一歩踏み出そうとした。
しかし、力尽き、その場へ崩れ落ちる。
絶命。
「アンディ!」
ラルフは剣を引き抜くと、すぐ安藤へ駆け寄った。
その頃、先ほど木刀で倒された剣士が小さく身じろぎした。
衛兵が素早く拘束する。
男はゆっくりと目を開いた。
そして笑う。
「へっ……」
歪んだ笑みを浮かべ、安藤を見る。
「臓腑は裂いた」
「刃には毒も塗ってある」
「あれは助からん」
そう言うと、自ら奥歯を強く噛み締めた。
「止めろ!」
衛兵が押さえ込む。
しかし間に合わない。
口から白い泡が溢れる。
全身が激しく痙攣する。
数秒後。
身体から力が抜けた。
動かない。
ラルフは険しい表情で息を吐く。
「服毒か……」
安藤の視界はそこで暗く途切れた。
◇
王城。
医務室。
安藤は寝台へ運び込まれた。
外套は血で染まり切っていた。
脇腹から流れる血が、白い寝台を赤く染めていく。
「回復魔術をかけろ!」
医師の声が飛ぶ。
二人の水魔術師が同時に詠唱を始めた。
淡い青白い光が安藤を包む。
しかし。
「止血できません!」
一人が叫ぶ。
「出血が止まりません!」
もう一人も傷口へ両手をかざしたまま首を振る。
「回復が追いつきません!」
医師が傷口を確認する。
その表情が変わった。
「深い……内臓まで達している」
さらに傷口を調べ、顔色を失う。
「……毒だ」
「しかも見たことがない毒だ」
医務室に緊張が走る。
「通常の蛇毒ではありません」
「この速度では、成人であっても十分も持たないでしょう」
誰も言葉を失った。
その時だった。
安藤が激しく咳き込む。
「ごほっ!」
大量の血が口から溢れた。
寝台へ赤い飛沫が散る。
医務室の空気が凍り付く。
さらに。
腕。
首筋。
頬。
皮膚の色がゆっくりと黒ずみ始めていた。
医師は安藤の瞳孔を確認し、脈を測る。
静かに首を振る。
「毒が全身へ回っています」
「こうなってはもはや手遅れです」
誰も言葉を続けられなかった。
その時、医務室の扉が勢いよく開いた。
「アンディさん!」
ロッティだった。
息を切らしながら寝台へ駆け寄る。
そして、立ち尽くした。
血塗れの寝台。
青白い顔。
黒く変色し始めた皮膚。
かすかな呼吸。
「そんな……」
膝から崩れ落ちる。
震える手で安藤の手を握った。
冷たい。
いつも温かいその手が、氷のように冷え切っていた。
「アンディさん……」
「アンディさん!」
返事はない。
ロッティの瞳から涙が溢れる。
「嫌です……」
「お願いです……」
「死なないでください……」
涙が止まらなかった。
アーデルが静かに口を開く。
「ロッティ」
振り返る。
いつもの厳しい表情だった。
「お前も回復魔術に加われ」
「魔力が尽きるまで続けろ」
ロッティは何度も頷いた。
涙を拭い、杖を握る。
「……はい!」
澄んだ詠唱が医務室へ響く。
水の魔力が安藤の身体へ流れ込んでいく。
時間だけが過ぎていく。
誰も口を開かない。
ただ必死に魔力を送り続ける。
やがて、裂けていた傷口が、ゆっくりと閉じ始める。
止まらなかった出血も、少しずつ弱まっていく。
水魔術師たちが顔を見合わせた。
「止まってきた……」
「回復速度が上がっている?」
医師も驚きを隠せない。
「なぜだ……」
アーデルは静かに安藤を見つめた。
「……魔力量か」
「回復魔術は、対象へ魔力を流し込む魔術だ」
「普通なら受け止めきれぬ魔力も、この男なら受け止められる」
「その膨大な魔力が、治癒を加速させているのだろう」
「それ以外に説明がつかん」
誰も異論を挟めなかった。
前例のない現象だった。
「続けろ」
アーデルの一声で、水魔術師たちは再び詠唱を始めた。
再び魔力が流れ込む。
黒ずんでいた皮膚の色が、少しずつ元へ戻り始める。
呼吸も落ち着いていく。
医師が大きく息を吐いた。
「峠は越えました」
医務室にいた全員が安堵の息を漏らす。
ロッティだけは、なお安藤の手を握ったまま静かに泣いていた。
どれほど時間が経ったのだろう。
安藤の指先がわずかに動く。
「アンディさん?」
ゆっくりと瞼が開く。
ぼんやりと天井を見上げる。
やがてロッティの顔を認めた。
「何で……泣いてるんだ……」
かすれた声だった。
ロッティは涙を拭うこともできない。
「馬鹿です……」
安藤は乾いた唇をわずかに動かした。
「それより……水をくれ」
「口の中が……血だらけだ」
一瞬、医務室が静まり返る。
そして、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
ロッティは泣き笑いのような表情で何度も頷く。
「本当に……馬鹿です」
慌てて水差しへ手を伸ばした。
その様子を見ながら、水魔術師たちもようやく肩の力を抜く。
アーデルだけは表情を変えなかった。
静かに衛兵へ視線を向ける。
「襲撃者たちは」
衛兵は姿勢を正した。
「魔術師一人は取り逃がしました」
「魔術師一人を拘束しております」
「剣士一人は、ラルフ隊長との交戦で死亡しました」
「剣士一人は、服毒して自害しました」
アーデルは小さく頷く。
「一人残っているなら十分だ」
静かに衛兵を見据える。
「心配するな」
「口は、こちらで開かせる」
「精神魔術なら容易い」
その一言に、医務室の空気がわずかに張り詰めた。
誰も異論を挟まない。
アーデルは踵を返す。
静かに扉が閉まる。
医務室には、安堵と疲労だけが残った。
そして、その場にいた誰もまだ知らなかった。
この夜の襲撃が、一人の土魔術師を狙った暗殺未遂では終わらず、ヴァルデン王国と宗教国家ルーシェ皇国を巻き込む戦いの幕開けとなることを。




