第十五話 竜の縄張り
北街道。
北海で水揚げされた魚介を積んだ荷車が、峠へ差しかかっていた。
木箱の中には、魚や貝、甲殻類が氷とともに詰められている。
王都では高値で売れる品ばかりだった。
「ここを越えれば王都まで一本道だ」
御者がそう言った、その時だった。
馬が突然足を止めた。
「どうした?」
手綱を引いても動かない。
耳を伏せ、山の上を見つめて震えている。
次の瞬間。
巨大な影が峠を覆った。
見上げるほど巨大な翼。
漆黒の鱗。
黄金色の瞳。
「ドラゴンだ!」
叫び声が響く。
「逃げろ!」
ドラゴンは大きく口を開いた。
喉の奥が赤く輝く。
熱が集まり、次の瞬間、灼熱の炎が街道を飲み込んだ。
荷車が燃え上がる。
木箱が弾け飛び、氷は一瞬で蒸気となった。
「荷は捨てろ!」
「命だけ守れ!」
商人たちは積み荷を放り出し、一斉に山を駆け下りる。
ドラゴンは追わなかった。
ただ、悠然と空を旋回し続ける。
まるで、
――ここから先へ来るな。
そう告げるかのように。
◇
数日後。
王都、ケラー食堂。
昼時を迎えた店内は、今日も満席だった。
「カルボナーラ一つ!」
「シュニッツェル追加です!」
「果実水お願いします!」
店員が店内を走り回る。
厨房ではヨハンとアンナが休む暇なく料理を仕上げていた。
「二番卓、クワトロフォルマッジです!」
「はい!」
開店から数日。
評判は職人街の外へも広がり始めていた。
商人。
兵士。
役人。
そして。
「悪くない」
窓際では、今日もハインリヒが静かに頷いている。
黒田が呆れたように笑った。
「また来てる」
「昼食だ」
「昨日も昼食だったろ」
「昨日も昼食だ」
「毎日じゃねぇか」
「偶然だ」
「どんな偶然だよ」
店内に笑いが広がる。
その隣では、グレタが紙袋を抱えていた。
「今日は二つです」
「エリーゼ殿下の分か?」
「はい」
「もう一つは?」
「私です」
黒田が吹き出した。
「結局自分も食うんだな」
「我慢は身体に悪いですから」
ロッティも思わず笑う。
その時だった。
ヨハンが厨房から出てきた。
少し困った表情をしている。
「アンディ様」
「どうした?」
「魚介が届きません」
安藤の表情が変わる。
「またか」
「はい」
ヨハンは静かに頷いた。
「魚介のカルパッチョ」
「パエリア」
「フィッシュバーガー」
「どれも人気なのですが……」
「もう材料がありません」
アンナも申し訳なさそうに頭を下げた。
「楽しみにして来られるお客様も多いので……」
ハインリヒが腕を組む。
「北街道だな」
「はい」
「商人から聞きました」
「峠にドラゴンが現れたそうです」
黒田が眉をひそめる。
「そんな話は聞いたな」
安藤が尋ねる。
「迂回路は?」
ロッティが首を横に振った。
「ありません」
「昨日、正式に調査命令が下されました」
「討伐の可否は、調査結果を見て決まります」
黒田が嫌な予感を覚える。
「……まさか」
ロッティは少し申し訳なさそうに笑った。
「アンディさんとクロダさんも、調査隊へ編入されています」
黒田は固まった。
「俺も?」
「はい」
「明日には正式な辞令が届くかと」
黒田は頭を抱えた。
「また勝手に決まってる……」
安藤は苦笑する。
「お前の隊は何でも屋だからな」
「便利屋じゃねぇか」
ロッティは笑ったが、すぐ表情を引き締めた。
「今回の相手は普通のドラゴンではありません」
「エンシェントドラゴンではないか、と報告されています」
「エルダードラゴンよりさらに大型で、知能も高い上位種です」
店内の空気が変わる。
ハインリヒも真顔になった。
「それは厄介だな」
安藤は窓の外を見る。
荷車が王都の通りを行き交っている。
麦。
野菜。
肉。
酒。
本来なら北海から運ばれてくる魚介も、その列に加わっていたはずだった。
「街道が止まれば、物流が止まる」
安藤は静かに言う。
「物流が止まれば、商売も止まる」
ハインリヒが頷いた。
「物流は国の血管だ」
一頭のドラゴンの出現が、ヴァルデン王国の血流を止めていた。
◇
翌朝。
王城。
会議室の机には北街道一帯の地図が広げられていた。
宮廷魔術師長のアーデルが峠を指す。
「目的地はここだ」
「今回の目的は調査だ」
一同が顔を上げる。
「相手の力量を見極める」
「討伐できると判断した場合のみ、その場で討伐する」
「無理はしない」
「全員、生きて帰ることを最優先とする」
誰も異論はなかった。
アーデルは続ける。
「アンディ」
「はい」
「遮蔽物は任せる」
「一枚で足りると思うな」
「万一破られたら、すぐ次を築け」
「了解です」
「水魔術師」
「全員へ耐熱付与を行え」
「冷却を止めるな」
「炎は防げても、熱までは防げん」
「風魔術師は敏捷性付与」
「火魔術は牽制」
「近接はドラゴンが降りた時だけだ」
黒田が苦笑する。
「結局前衛じゃねぇか」
「嫌なら後ろでもいい」
「いや、行くけど」
少し笑いが起きた。
アーデルは選抜隊の面々を見回した。
「勘違いするな」
「英雄になる必要はない」
「死ぬな」
静かな言葉だった。
だが、その一言が、この作戦のすべてを表していた。
◇
昼過ぎ。
一行は北街道の麓にある村へ到着した。
馬を村へ預け、ここから先は徒歩で進む。
村長が深く頭を下げる。
「どうか、ご無事で」
アーデルは静かに頷いた。
「行くぞ」
山道へ足を踏み入れる。
鳥の声は聞こえない。
虫の音もない。
山全体が息を潜めているようだった。
黒田が小さく呟く。
「嫌な静けさだな」
その時だった。
山を揺るがす羽ばたきが響く。
全員が空を見上げた。
巨大だった。
漆黒の翼が太陽を隠し、黄金色の瞳が地上を見下ろしている。
エンシェントドラゴン。
「アンディ!」
「はい!」
「土壁!」
「了解!」
安藤が右手の杖を地面へ向ける。
轟音。
大地が盛り上がる。
高さ五メートルを超える巨大な土壁が一行の前へ築かれた。
ドラゴンが翼を大きく広げる。
アーデルが即座に叫ぶ。
「一枚では足りん!」
「複数築け!」
「了解!」
安藤は頷き、杖を振る。
左右へ。
さらに後方へ。
次々と土壁が隆起し、一行を囲むように複数の遮蔽物が築かれていく。
「水魔術!」
二人の水魔術師が詠唱を始める。
冷たい水が鎧や外套を濡らし、全員の身体を包み込んだ。
薄い水の膜が肌を覆い、熱気を和らげていく。
ロッティは一瞬で状況を理解した。
「周囲を冷やします!」
返事を待たず、右手に持つ杖を空へ掲げる。
澄んだ詠唱が山へ響いた。
ロッティの魔術に応え、大量の水が空中へ舞い上がる。
細かな霧となって戦場一帯へ広がっていく。
「風魔術!」
「敏捷性付与!」
風魔術師も続けて詠唱する。
身体が軽くなる。
黒田は思わず目を見開いた。
(……何だ?)
今まで感じたことのない感覚だった。
足が驚くほど軽い。
視界まで広がったような気がする。
だが、それを考える暇はない。
ドラゴンが大きく口を開いた。
「来るぞ!」
轟音。
灼熱の炎が正面の土壁へ叩きつけられる。
炎は壁を越えられない。
しかし、熱だけは容赦なく押し寄せた。
壁の裏にいても熱い。
息を吸うだけで肺が焼けそうになる。
「冷却を止めるな!」
アーデルが叫ぶ。
二人の水魔術師は休むことなく詠唱を続けた。
ロッティも上空へ展開した霧を維持し続ける。
細かな水滴が降り注ぐ。
白い蒸気が立ち上る。
冷却を止めれば、たちまち熱に耐えられなくなる。
「火球!」
アーデル。
一拍遅れて。
「火球!」
ジーク。
火球はドラゴンをかすめる。
一発だけアーデルの火球が肩口へ命中した。
だが、ドラゴンはわずかに顔をしかめただけだった。
飛行は止まらない。
弓兵たちの矢も鱗に弾かれる。
「効いてねぇ!」
黒田が叫ぶ。
「相手も決め手がない」
安藤が言う。
「土壁がある限り、炎は届かない」
ドラゴンは翼を傾け、大きく回り込む。
「右だ!」
アーデルが叫ぶ。
安藤はすでに杖を振っていた。
轟音。
進路を塞ぐように、新たな土壁が大地からせり上がった。
ドラゴンは反対側へ回る。
そこにも土壁。
さらに高度を変える。
また土壁。
黄金色の瞳が細くなる。
何度位置を変えても、人間へ炎が届かない。
ドラゴンは低く唸った。
やがて翼をゆっくり閉じる。
「降りるぞ!」
アーデルが叫ぶ。
巨大な身体が地面へ降り立った。
山が震える。
「近接!」
ラルフ、ルーカス、黒田が一斉に飛び出す。
その瞬間だった。
(えっ? 速い!)
黒田は自分でも驚いた。
足が勝手に前へ出る。
景色が流れる。
ラルフより前へ。
ルーカスより前へ。
気付けば、ドラゴンの目前だった。
「クロダ!」
ラルフが怒鳴る。
「前に出すぎだ! 戻れ!」
ドラゴンの巨大な爪が振り下ろされる。
黒田は反射的に身体をひねった。
ほとんど無意識だった。
爪は紙一重で空を切る。
地面が砕け、土煙が舞い上がる。
黒田は数歩後ろへ飛び退いた。
(……今の、避けたのか?)
アーデルはその動きを見逃さなかった。
(敏捷性付与にしても……動きが速すぎる)
だが考える暇はない。
「深追いするな!」
「一度下がれ!」
三人は土壁の陰まで後退する。
ドラゴンは静かに彼らを見つめていた。
やがて、山へ響く低い声が聞こえた。
『……実に珍しい』
誰も意味が分からない。
ドラゴンは安藤を見る。
『土の異世界人』
続いて黒田へ視線を移す。
『風の異世界人』
黄金色の瞳が黒田を静かに見据えた。
『お前は風に好かれている』
黒田は眉をひそめた。
「何だよ、それ」
ロッティが驚く。
「ドラゴンが……」
アーデルも目を見開いた。
「二人とも、言葉が分かるのか?」
安藤が頷く。
「召喚された時に付与された『言語理解』です」
「どうやら人間以外にも通じるみたいですね」
ドラゴンは再び安藤を見た。
『土の異世界人』
『答えよ』
『なぜ我が山へ入る』
安藤が口を開こうとした、その時だった。
黒田が槍を地面へ突き立てる。
「待て」
一歩。
また一歩。
黒田は誰よりも前へ歩き出した。
ラルフが息を呑む。
しかし、今度は止めなかった。
黒田はドラゴンの正面まで歩く。
「俺たち」
「喧嘩しに来たわけじゃねぇ」
ドラゴンは黙って黒田を見つめる。
山を吹き抜ける風だけが、二人の間を通り過ぎた。
◇
ドラゴンは黙って黒田を見つめる。
山を吹き抜ける風だけが、二人の間を通り過ぎた。
『風の異世界人』
『話せ』
黒田は肩の力を抜いた。
「別に、おまえを殺したいわけじゃねぇ」
「けどな」
「この街道が止まると、困る奴が山ほどいる」
ドラゴンは静かに聞いている。
「北海の魚が王都へ届かない」
「商人も困る」
「料理人も困る」
「客も困る」
「国まで困る」
『それは人間の都合だ』
「そうだ」
黒田はあっさり認めた。
「だから、おまえの話も聞く」
ドラゴンは少しだけ目を細めた。
『……土の異世界人』
『お前も同じか』
安藤が一歩前へ出る。
「私も同じです」
「理由を聞かせてもらえませんか」
しばらく沈黙が続いた。
やがてドラゴンは空を見上げる。
『我は永く眠っていた』
『数百年』
『目覚めた時には、人間が山を歩いていた』
低い声が山へ響く。
『ここは元より我が縄張り』
『人間が後から来た』
安藤と黒田は顔を見合わせる。
なるほど、と安藤は思った。
人間から見ればドラゴンが現れた。
ドラゴンから見れば、人間が勝手に縄張りへ入り込んでいた。
見えている景色が違うだけだった。
「だったら」
黒田が口を開く。
「山はおまえのものでいい」
ドラゴンは黙って聞いている。
「俺たちは山へ入らないよう知らせる」
「それでも迷い込んだ奴がいたら、追い返してやってくれ」
「食うなよ」
ドラゴンは鼻を鳴らした。
『金属を纏った人間など旨くない』
黒田は思わず笑う。
「だよな」
場の空気が少しだけ和らいだ。
「一つ提案があります」
安藤はドラゴンの背後に続く山並みへ視線を向けた。
「あの尾根の向こう側です」
「山腹を掘って、新しい道を造ります」
「お互いの縄張りを分けましょう」
ドラゴンは山並みへ視線を向ける。
『人間は山を削るのか』
「削ります」
「ただし、あなたの眠る場所には近づきません」
「街道も、村も襲わないと約束してくれるなら」
「俺たちも約束を守ります」
長い沈黙。
風だけが吹き抜ける。
やがてドラゴンは静かに頷いた。
『よかろう』
『その道を使え』
『だが、我が眠る地へ入るな』
「約束する」
安藤は頷いた。
黒田も笑う。
「交渉成立だな」
◇
その日のうちに工事が始まった。
安藤の土魔術が山肌を削り、岩盤を押し広げていく。
天然の空洞を見つけると、それを利用しながら道筋を延ばした。
崩れやすい場所には木材を組み、支柱を立てる。
入口付近は石を積み上げ、落石を防ぐ。
村人たちも加わり、新しい街道は少しずつ形になっていった。
二日後。
トンネルは開通した。
その先には北海が広がっていた。
潮の香りが風に乗る。
漁船が港へ戻り、新鮮な魚介が次々と水揚げされていく。
「これで魚が届くな」
黒田が笑う。
安藤も海を眺めながら頷いた。
「物流が戻る」
「国の血管が、また動き出す」
◇
三日後。
ケラー食堂。
厨房には久しぶりに魚介が並んでいた。
「カルパッチョ、お待たせしました!」
「魚介のパエリアです!」
「フィッシュバーガーになります!」
店内は歓声に包まれる。
ヨハンが笑う。
「ようやく戻ってきました」
アンナも胸をなで下ろした。
「これで安心です」
グレタは嬉しそうに包みを抱える。
「エリーゼ殿下も喜びますね」
「今日も二人分か?」
黒田が笑う。
「もちろんです」
「一つはエリーゼ殿下の分」
「もう一つは私と、この子の分です」
グレタはお腹へ手を添えて微笑んだ。
店内に穏やかな笑みが広がった。
窓際ではハインリヒが静かに頷く。
「やはり物流は国の血管だ」
その言葉に安藤も頷いた。
「一本の街道が止まるだけで、国全体が影響を受ける」
「逆に言えば」
「一本の道を通せば、多くの人が助かる」
黒田は笑って肩をすくめる。
「ドラゴン退治じゃなくて、土木工事だったな」
「アンディらしい」
その時だった。
遠くの山から、低い咆哮が響いた。
二人は顔を上げる。
敵意は感じない。
黒田は小さく笑った。
「またな」
山の向こうから、もう一度だけ咆哮が返ってきた。
それはまるで、新しい隣人への返事のようだった。




