第十四話 ケラー食堂
「トマトがない」
王城の厨房。
長机の上には、試作料理の皿が並んでいた。
すでに試食は終わっている。
安藤は、黒板代わりの板の前に立っていた。
「いきなり絶望的だな」
黒田が言った。
「まだ絶望じゃない」
「いや、パスタもピッツァも、だいぶ制限されるだろ」
「されるな」
安藤は頷いた。
「だから考える」
ロッティが首をかしげる。
「トマト、ですか?」
「赤くてこう、酸味のある野菜だ。俺たちの世界では、よく使われていた」
「こちらにそういうのはありませんね」
「はい」
安藤は板に大きく書いた。
トマトなし。
「現代の料理を、そのまま持ち込むのは無理だ」
「でも、さっきのはどれも美味かったぞ」
黒田が言った。
「わたしは卵黄とチーズの、麺のやつ……」
「カルボナーラか」
安藤が言う。
「はい!」
「名前は覚えにくいけど、美味しいです!」
続いて、グレタが勢いよく手を挙げた。
「わたしは、白い甘味がよかったです」
「ブランマンジェ」
「ブランマンジェ!」
グレタは嬉しそうに繰り返した。
「あれは絶対に採用しましょう」
ヨハン・ケラーは、皿を見つめていた。
隣には妻のアンナ。
二人とも、まだ少し緊張している。
「ヨハンさん」
安藤が声をかけた。
「実際に作ってみて、どうだった?」
「味に驚きました」
「ですが、それ以上に……材料が、思ったより普通でした」
安藤は笑った。
この世界にあるもので、どこまでできるか。
トマトがない。
南方の油は高い。
胡椒はもっと高い。
卵も無限にはない。
魚介は北海の港から運ぶ必要がある。
香草も安定供給できるとは限らない。
それでも、作れるものはある。
「トマトなし縛り料理大会だな」
黒田が言った。
「だいたい合ってる」
ハインリヒが咳払いした。
「味の話は分かった」
「お」
黒田が目を丸くする。
「褒めるのか」
「味は良い」
「意外に素直だな」
「だが」
ハインリヒは、板を見た。
「それを店で出せるかは、別の話だ」
「そのための会議です」
安藤が言った。
「では、候補を出します」
◇
安藤が炭筆を持った。
「まず、パスタ料理」
板に文字が並んでいく。
カルボナーラ、ボンゴレビアンコ、ジェノベーゼ、白いラグーソース、イカ墨ソース、アーリオ・オーリオ。
「カルボナーラは採用だな」
黒田が言った。
「まだ決めてない」
「あれ美味かったぞ」
「それだけで決めない」
安藤は次の列を書いた。
「次、ピッツァ」
クワトロフォルマッジ、ボスカイオーラ、ビスマルク。
「白いピッツァだな」
黒田が言った。
「トマトなしでもいける」
「さっきの四種類のチーズのもの、とても美味しかったです」
ロッティが微笑む。
ハインリヒが眉を動かした。
「あれは二種類では駄目なのか」
「夢がない」
安藤が言った。
「店が潰れたら夢もないぞ」
「ぐっ」
黒田が腹を抱えて笑った。
「次、サラダとスープ」
シーザーサラダ、王都のガーデンサラダ、イモのポタージュ。
「王都のガーデンサラダって何だよ」
黒田が言う。
「王都近郊の野菜を使う」
「名前が雑じゃね?」
「分かりやすいだろ」
ロッティは、イモのポタージュの文字を見て頷いた。
「温かくて、お腹にもたまりますね」
「これは良い」
ハインリヒが言った。
「お。褒めた」
「芋は強い」
「食堂を潰さない話ばかりしている」
「もう顧問じゃん」
「誰が顧問だ」
「次、魚料理」
魚介のカルパッチョ、アヒージョ、魚の香草パン粉焼き。
「カルパッチョ、最初は驚きました」
ロッティが言った。
「生魚ですからね」
「でも、美味しかったです」
アンナも頷く。
「見た目も綺麗でした」
「貴族にも受けそうだな」
黒田が言う。
ヨハンは、魚の香草パン粉焼きの文字を見て口を開いた。
「あれは、作りやすいと思います」
「そうか」
「余ったパンを乾かして砕けば、衣にできます」
安藤は嬉しそうに頷いた。
「パン粉ですね」
「余ったパンにも使い道ができるのですね」
ロッティが言う。
ハインリヒが小さく頷いた。
「悪くない」
「出た。財務大臣の悪くない」
黒田が言う。
「最高評価だな」
「黙れ」
「次、肉料理」
黒田が身を乗り出した。
「待ってました」
パテ・ド・カンパーニュ、シュニッツェル、子牛のカツレツ、煮込みハンバーグ、ソーセージ盛り合わせ。
「シュニッツェル採用」
黒田が言った。
「まだ決めてない」
「美味かったぞ」
「肉は裏切らない」
「炭水化物も裏切らない」
「全部裏切らないな」
ロッティは少し笑った。
「煮込みハンバーグも、食べやすかったです」
「固い肉も使えます」
ヨハンが言った。
「ひき肉にすれば、かなり工夫できます」
ハインリヒが頷く。
「ソーセージは、この国の料理にも近い。抵抗は少ないだろう」
「ほんとに詳しいな」
黒田が言う。
「財務大臣だからだ」
「それ関係あるか?」
「ある」
「次、大皿料理」
魚介のパエリア、ガレット。
「パエリア」
黒田が言った。
「あれも美味かった」
「大鍋で作れるのが強いな」
安藤が言う。
ハインリヒは短く言った。
「完全に港頼みだ」
「はい」
「流通が止まったら困る」
「はい」
「その場合の代替を考えろ」
「考えます」
黒田が苦笑する。
「おっさん、流通に厳しいな」
「店を続けるなら当然だ」
「次、パン系」
ハンバーガー、フィッシュバーガー、ホットドッグ、クロワッサン、バゲット。
黒田が胸を張った。
「ハンバーガーは絶対売れるだろ」
「売れるとは思う」
安藤が言う。
「でも、パンの形を揃える必要がある」
「肉や魚の仕込みも要る」
「揚げ物も増える」
ハインリヒが続けた。
「全部、工程が増える」
ロッティが板を見る。
「でも、手で持って食べられる料理は便利ですね」
安藤が言う。
「職人や荷運びの人には向いている」
「俺も、いつかハンバーガー屋やるわ」
黒田が言った。
「黒田屋?」
「それはダサい」
「黒田健太郎だから、ケンタバーガーか」
「やめろ」
「次、甘味」
グレタが姿勢を正した。
「ここが本番です」
「違う」
ハインリヒが言った。
「でも、甘味は人を幸せにします」
「利益率は悪くないな」
安藤は板に書いていく。
フレンチトースト、パンケーキ、蜂蜜チーズケーキ、プリン、ブランマンジェ。
「ブランマンジェ!」
グレタが即座に言った。
「採用です!」
「まだです」
「さっき一番美味しかったです」
「それはあなたの感想です」
「みんな美味しいと言っていました」
ロッティが控えめに手を挙げる。
「私も、あれ好きですよ」
グレタが勝ち誇った。
「ほら!」
ハインリヒは腕を組んだ。
「甘味は一品だ」
「え」
「一品にしろ」
「蜂蜜チーズケーキもあります」
「一品だ」
「プリンも」
「一品だ」
グレタはこの世の終わりのような顔をした。
黒田が肩を震わせる。
「甘味担当、敗北」
「まだ負けていません」
「最後に飲み物」
エール、果実水、薄めた葡萄酒。
◇
安藤が書き終えると、板は料理名で埋まっていた。
パスタ。
ピッツァ。
サラダ。
スープ。
魚料理。
肉料理。
大皿料理。
パン。
甘味。
飲み物。
どれも、作れないわけではない。
どれも、先ほどの試作は美味しかった。
しかし、トマトがない。
それでも、ここまでできた。
だから、夢が広がる。
ヨハンは、板を見上げていた。
最初は驚いていた。
途中から、嬉しそうだった。
今は、少し青ざめていた。
アンナも、苦笑している。
ハインリヒが、ゆっくり立ち上がった。
「メニュー多いわ」
全員が止まった。
「これだと厨房が死ぬ」
黒田が吹き出した。
「厨房が死ぬって何だよ」
「死ぬものは死ぬ」
ハインリヒは板を指した。
「料理人が覚えきれん」
「仕込みが増える」
「食材の種類が増える」
「保存場所が足りん」
「余れば捨てる」
「注文がばらければ、提供も遅れる」
「客は待つ」
「店は回らん」
「結果、潰れる」
安藤は黙った。
黒田も頷いた。
「そらそうだわな」
ロッティも小さく頷く。
「現実的ではありませんね」
ハインリヒはヨハンを見た。
「ケラーよ」
「は、はい」
「これを全部、毎日作れるか」
ヨハンは板を見た。
皿を見た。
アンナを見た。
もう一度、板を見た。
「……死にます」
黒田がまた吹き出した。
「本人が言った」
ハインリヒは満足そうに頷いた。
「だから、厨房が死ぬ」
「なら、削りましょう」
安藤は炭筆を置いた。
「どこまで」
ハインリヒが聞く。
「半分以下に」
「甘い」
「え」
「三分の一以下だ」
「厳しい」
「開店初月から潰したいのか」
「いえ」
「なら削れ」
安藤は、板の端に新しく書いた。
一、安い。
二、腹にたまる。
三、うまい。
四、早い。
五、材料が安定する。
六、真似できる。
ハインリヒが眉を動かした。
「最後は何だ」
「真似できる、です」
「秘伝にしないのか」
「しません」
ヨハンが驚いた顔をする。
「よろしいのですか?」
「ああ」
「他の店に真似されたら……」
「むしろ、真似してほしい」
安藤は板を見た。
「この店だけが儲かればいいわけじゃない」
「王都のあちこちで似た料理が出る」
「家庭でも作る」
「パン屋が別の工夫をする」
「肉屋が新しい挽き肉を売る」
「チーズ職人が張り切る」
「魚屋が港に注文を増やす」
「そうなった方が、国は豊かになる」
ハインリヒは腕を組んだ。
「店の利益は」
「利益も出します」
「必ず出せ」
「はい」
「潰れた成功例など、誰も真似しないからな」
「分かっています」
黒田が笑う。
「おっさん、完全に経営顧問じゃん」
「誰が顧問だ」
「昼飯担当大臣」
「黙れ」
ロッティが笑った。
グレタもつられて笑った。
アンナも、少しだけ笑った。
ヨハンは、まだ不安そうだった。
けれど、その顔には、先ほどまでとは違う色があった。
怖い。
だが、やってみたい。
そんな顔だった。
◇
「最後に」
黒田がにやりと笑う。
「店の名前だな」
安藤は迷わず言った。
「ヴァルク食堂」
一瞬、静まり返る。
黒田がゆっくり顔を上げた。
「……アンディ」
「ん?」
「アンディアンディ」
厨房に笑いが広がる。
「違う」
安藤は苦笑した。
「どうせならヴァルクだ。貨幣の名前を借りよう」
「新しい制度を生活の中に定着させるなら、こういうところから始めるのも一つの方法だろ」
ハインリヒが腕を組んだ。
「理にはかなっている」
「ほら」
「だから乗るなって」
黒田が笑う。
「お前、そのうちヴァルク劇場とか、ヴァルク温泉とか作りそうだな」
「悪くない」
「乗るなって!」
ロッティがくすりと笑う。
「王都食堂……」
そこまで言って、ヨハンとアンナを見た。
二人は、どこか申し訳なさそうに立っていた。
「あっ」
ロッティの表情が、ふっと柔らかくなる。
「ケラー食堂、というのはいかがでしょう」
静かになった。
「このお店はお二人のお店です。だから、お二人のお名前がいいと思います」
ヨハンは目を見開いた。
「私たちの……」
アンナも小さく口元を押さえる。
安藤は少しだけ板を見つめた。
ヴァルク食堂。
制度を広める。
その考え自体は間違っていない。
でも、この店は、政策ではない。
一組の夫婦が、新しく人生を始める場所だ。
安藤はすぐに頷いた。
「それがいい」
黒田が笑う。
「引っ込めるの早いな」
「良い案が出たなら固執せず、そっちを採用する」
「それでいい」
ハインリヒも短く頷いた。
「では、ケラー食堂で」
安藤は板へ、大きく書いた。
ケラー食堂。
ヨハンは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
アンナも続いて頭を下げる。
黒田は板を見て満足そうに頷いた。
「うん」
「こっちの方が、ずっといい名前だ」
◇
開店初日。
朝の空気は、まだ少し冷たかった。
ヨハンは、何度も厨房を見回していた。
鍋。
皿。
包丁。
椅子。
昨日確認したものを、もう一度確かめる。
「落ち着いてください」
アンナが苦笑した。
「そう言われてもな……」
そこへ、安藤たちがやって来る。
「おはようございます」
「お、おはようございます!」
黒田が店内を見回した。
「いい店になったな」
「ありがとうございます」
「緊張してる?」
「はい」
「そりゃするよな」
黒田が笑う。
「俺なら逃げる」
「お前は逃げるな」
安藤が突っ込む。
少しだけ、ヨハンの肩の力が抜けた。
◇
「開店です」
アンナが扉を開ける。
最初の客は、荷車を引く男だった。
「ここ、新しい店か?」
「はい」
ヨハンは深呼吸して答える。
「おすすめは?」
一瞬だけ迷う。
だが、すぐに決めた。
「四種類のチーズを使った白いピッツァ、クワトロフォルマッジはいかがでしょう」
「じゃあ、それで」
窯で焼き上がる香りが店内へ広がる。
男は黙って食べた。
最後まで何も言わない。
ヨハンの心臓が痛いほど鳴る。
皿を空にした男は、
「うまかった」
それだけ言って立ち上がった。
「また来る」
ヨハンは、その言葉を何度も頭の中で繰り返していた。
◇
昼前になると、少しずつ客が増え始めた。
鍛冶屋。
木工職人。
兵士。
荷運び人。
「カルボナーラ一つ!」
「ポタージュお願いします!」
「シュニッツェル追加!」
ヨハンとアンナ、給仕らは休む暇なく動く。
注文を間違えそうになる。
皿を置く場所を迷う。
それでも、少しずつ流れができていく。
「もう一杯、果実水」
「はい!」
黒田が小さく笑った。
「午前中より動けてる」
「慣れてきたな」
安藤も頷いた。
◇
昼を過ぎる頃。
店の外には、五、六人ほどの列ができていた。
「少し待つか」
「美味いなら待つよ」
その列の最後尾に、一人の男が並ぶ。
「あれ?」
兵士が振り返る。
「財務大臣閣下?」
本当だった。
ハインリヒが腕を組んで並んでいる。
店員が慌てて飛び出す。
「閣下、どうぞこちらへ」
「順番だ」
「ですが」
「順番だ」
後ろの職人が恐縮して頭を下げた。
「先にどうぞ」
「いや」
ハインリヒは首を振る。
「私は客だ」
その一言で、列が少し和んだ。
黒田が店の中から笑う。
「また来てる」
「視察だ」
「昨日も視察だったぞ」
「今日も視察だ」
「昼飯だろ」
「視察だ」
安藤が肩をすくめる。
「初日から常連ですね」
「違う」
「何が違うんですか」
「今日は回転率を見る」
「食べながら?」
「食べながらだ」
◇
夕方。
厨房の食材は、ほとんど使い切っていた。
「売り切れか」
黒田が棚を見る。
「少し残した」
ヨハンが言う。
「全部売り切れるより、このくらいが安心です」
ハインリヒが頷いた。
「初日としては正しい」
「珍しく褒めた」
「褒めてはいない」
「いや、褒めてる」
ロッティが笑う。
「今日は何度も『悪くない』と仰っていました」
ハインリヒは少しだけ咳払いした。
◇
閉店後。
店の前を掃除しながら、ヨハンは看板を見上げた。
ケラー食堂。
まだ誰も知らない名前。
けれど、今日は何人もの客が、この名前を口にした。
「ケラー食堂で食べよう」
「また来よう」
そんな言葉が、店の中に残っていた。
「アンディ様」
ヨハンが振り返る。
「ありがとうございました」
「いや」
安藤は笑う。
「大変なのはこれからだよ」
「はい」
ヨハンも笑った。
その顔は、王都郊外の村で出会った頃とは、まるで違っていた。
料理人の顔だった。
黒田が肩を叩く。
「前の店の先輩、悔しがるぞ」
ヨハンは少し考え、
笑った。
「まだです」
「え?」
「二号店を出してからです」
黒田が吹き出した。
「言うようになったなぁ」
アンナも笑う。
ロッティも嬉しそうだった。
安藤は静かに店を見上げる。
誰かが食べる。
誰かが作る。
誰かが運ぶ。
誰かが育てる。
誰かが働く。
金は、人から人へ流れていく。
国が豊かになるというのは、きっとこういうことなのだ。
夕暮れの王都に、小さな灯がともる。
ケラー食堂。
その灯は、一軒の食堂だけではなく。
この国の、新しい産業の始まりでもあった。




