第十一話 アウエンハーフェン
アイゼンブルクを発った巡幸隊は南東へ進んでいた。
黒々とした鉱山の景色はすでに遠い。
窓の外には広大な畑が広がっていた。
風が吹く。
麦が波のように揺れる。
まだ青い部分も残っている。
だが全体は少しずつ黄金色へ変わり始めていた。
「もうすぐ収穫ですね」
王族用馬車の窓から外を眺めながら、エリーゼが言った。
「はい」
グレタが頷く。
「今年は豊作になりそうです」
エリーゼは嬉しそうに麦畑を見つめていた。
王宮の中では見られない景色だ。
巡幸へ出るようになってから、彼女は以前より窓の外を見るようになった。
「収穫祭も近いですね」
「今年は各地とも期待しているでしょう」
グレタが微笑む。
王都の開墾地。
街道沿いの新農地。
各地の治水工事。
結果が出るのは、もうすぐだった。
◇
昼過ぎ。
アウエンハーフェンが見えてきた。
大河沿いに築かれた城塞都市だった。
高い城壁。
巨大な倉庫群。
川を行き交う船。
そして、その向こうに広がる果てしない畑。
「わあ……」
エリーゼが小さく声を漏らす。
丘陵地帯には葡萄畑も広がっていた。
整然と並ぶ支柱。
青々と茂る葉。
秋を待つ葡萄。
「綺麗ですね」
「収穫前ですからな」
騎士の一人が答えた。
「あと数週間もすれば、一面黄金色になります」
馬車が城門へ近づく。
そこには一人の男が待っていた。
ベルンハルト・フォン・アウエ。
アウエ侯である。
五十代後半。
痩せ型。
白髪交じり。
武人というより学者に見える。
だが、その立ち姿には長年王国を支えてきた重臣の風格があった。
「王女殿下」
ベルンハルトは深く頭を下げる。
「よくぞお越しくださいました」
「ベルンハルト卿」
エリーゼも微笑んだ。
「お久しぶりです」
ベルンハルトは顔を上げる。
そしてしばらくエリーゼを見つめた。
「……お顔色が良くなられましたな」
その言葉にエリーゼは少し驚いたような顔をした。
「そう見えますか?」
「はい」
ベルンハルトは頷く。
「王妃殿下に手を引かれ、この地へお越しになっていた頃を思い出します」
「覚えていてくださったのですね」
「当然です」
ベルンハルトは即答した。
「殿下は王国の宝ですから」
打算ではない。
本心だった。
だからこそ重みがある。
エリーゼは少し照れたように笑った。
◇
最初に案内されたのは船着き場だった。
荷役人たちが忙しく働いている。
穀物袋。
木材。
樽。
様々な荷が絶えず運び込まれていた。
川岸には大小様々な船が並んでいる。
「街道も大切です」
ベルンハルトは大河を見つめる。
「ですが、まだまだ物流の主役は船です」
安藤は頷いた。
「だろうな」
「荷馬車一台で運べる量には限界があります」
「ですが船は違う」
「王都のパンは、この川を通って運ばれております」
黒田が感心したように川を見る。
「見た目以上に重要なんだな」
「この川が止まれば王都も飢えます」
ベルンハルトは静かに言った。
安藤は川を見つめた。
道路。
橋。
港。
運河。
倉庫。
頭の中で線が繋がっていく。
「どうしました?」
ロッティが聞く。
「いや」
安藤は答えた。
「やっぱり港が欲しいなと思って」
「増やさないでください」
「まだ何もしてない」
「顔がしてます」
ロッティは断言した。
安藤は否定できなかった。
◇
その日の夜。
領主館では盛大な晩餐会が開かれた。
長い卓。
並ぶ料理。
焼いた鳥肉。
川魚。
チーズ。
野菜の煮込み。
そして葡萄酒。
「これうまいな」
黒田が杯を掲げる。
ベルンハルトは少し嬉しそうに笑った。
「我が領の葡萄酒です」
「レオーネ産も有名ですけどね」
グレタが言う。
「確かに」
ベルンハルトは頷いた。
そして少しだけ杯を掲げた。
「モンレーヴ産も結構」
「カスティア産も結構」
「ですが――」
穏やかに笑う。
「我らのアウエ産の葡萄酒も負けてはおりません」
その口調だけは少し熱かった。
「ずいぶん自信あるな」
安藤が笑う。
「農民も醸造家も一年かけて作るのです」
ベルンハルトは静かに言った。
「領主として、自慢くらいはしたくなります」
その言葉にエリーゼも微笑んだ。
ベルンハルトは昔からこういう人だった。
派手ではない。
だが領民のことをよく見ている。
だから王家からも信頼されている。
「また知らない国が増えたな」
黒田が葡萄酒を飲みながら言った。
「確かに増えた」
安藤も頷く。
ロッティが無言になる。
嫌な予感がした。
「……王国周辺の地理については、後で説明します」
静かな声だった。
「何だよ」
「嫌な予感しかしない」
黒田が言った。
グレタが吹き出す。
アウエンハーフェンの夜は静かに更けていった。
◇
翌朝。
巡幸隊はアウエンハーフェンを発った。
目的地は南のリッターシュタット。
王国でも有数の騎士の街である。
空は高く晴れ渡っていた。
昼過ぎ。
小川のほとりで休憩が取られる。
馬は水を飲み、騎士たちは装備を点検していた。
エリーゼは馬車近くに用意された椅子へ腰掛けている。
以前なら考えられないことだった。
だが今はこうして外の空気を楽しめる。
「さて」
ロッティが言った。
嫌な予感がした。
「昨日の続きです」
「来た」
黒田が即答した。
「やっぱり来たな」
「何の話だ?」
安藤が聞く。
「地理です」
ロッティは地面へしゃがみ込んだ。
その辺に落ちていた棒を拾う。
「覚えていただきます」
「テスト出る?」
「出ます」
「終わった」
「最初から始まってません」
ロッティは即答した。
グレタが吹き出す。
シャハトも小さく笑っていた。
「では」
ロッティは地面へ線を引く。
「ここがヴァルデン王国です」
簡単な地図が描かれる。
「おお」
黒田が感心した。
「先生っぽい」
「先生です」
「先生なのか」
「今日は先生です」
ロッティは胸を張った。
さらに西へ線を引く。
「こちらがモンレーヴ王国」
「昨日のワインの国か」
「ワインの国ではありません」
「違うのか」
「違いませんけど違います」
意味不明だった。
グレタが笑っている。
「北東にはエーレンベルク王国があります」
ロッティが続ける。
「王国の同盟国ですね」
シャハトが言った。
ロッティが頷く。
「正解です」
「芸術が盛んで、王家同士の縁戚も多い」
「その通りです」
「おお」
黒田が驚く。
「先生が褒めた」
「わたしだって褒めます」
ロッティは不満そうだった。
「シャハトさんは勉強していますから」
「お前も見習え」
安藤が言う。
「何で俺だけなんだ」
「お前だからだ」
全員一致だった。
黒田は納得していない顔をした。
「南にはレオーネ自由都市同盟があります」
ロッティはさらに地図を描く。
「グレタさんのその、ネックレスの産地ですね」
「ああ」
黒田が頷く。
「角のやつか」
「角のやつ言わないでください」
グレタが抗議した。
「お気に入りなんですから」
「悪い悪い」
「本当に思ってます?」
「たぶん」
「思ってませんね」
即答だった。
周囲から笑いが起きる。
「さらに南西」
ロッティは続ける。
「カスティア聖王国があります」
「ここも葡萄酒で有名です」
「なるほど」
安藤が頷く。
「昨日の話はそういうことか」
「やっと繋がりましたか」
ロッティが呆れた。
「最後に王国の東」
ロッティの表情が少し真面目になる。
地面へ長い線を引く。
「ルーシェ皇国です」
その名前に、ジークが僅かに視線を上げた。
「大国ですね」
シャハトが言う。
「交易量も大きい」
「はい」
ロッティは頷く。
「ですが軍事力も強大です」
「国境勤務は人気がありません」
ジークが付け加えた。
「魔獣も多いですし」
「なるほど」
安藤は地面の地図を見下ろした。
王国。
同盟国。
自由都市同盟。
宗教国家。
少しずつ世界が広がっている。
「覚えましたか?」
ロッティが聞く。
「たぶん」
安藤は即答した。
「覚えてませんね」
「何で分かる」
「顔です」
ロッティは断言した。
そして。
「アンディさんまで」
少しだけ呆れたように言う。
「俺は……いずれ帰るし」
安藤は何気なく答えた。
「覚えなくてもいいかなって」
その瞬間。
ロッティの手が止まった。
棒の先が地面を軽くなぞる。
「……」
風が吹いた。
誰も何も言わない。
「……そうでしたね」
ロッティは小さく呟いた。
そして地図を消すように棒を払う。
「続けます」
いつもの声だった。
だが少しだけ。
ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
エリーゼはそんなロッティの横顔を見ていた。
何かを言おうとして。
結局何も言わなかった。
その時だった。
「上だ!」
見張りの騎士が叫ぶ。
全員が反射的に空を見上げた。
青空を横切る六つの影。
「何だあれ……魔獣か?」
黒田が目を細める。
「いや」
ジークが立ち上がった。
「グリフォンです」
空気が一変した。
ヴォルフラムの怒声が響く。
「散開!」
◇
休憩中だった騎士たちが一斉に動いた。
馬を下げる。
荷車を寄せる。
弓兵が前へ出る。
槍兵が左右へ展開する。
誰一人として迷わない。
何度も訓練された動きだった。
安藤は思わず息を呑んだ。
「すごいな」
思わず口から漏れる。
「この国、意外とちゃんと軍隊やってるな」
「意外とは何ですか」
ジークが言った。
「失礼ですよ」
そう言いながらも視線は空から離さない。
すでに杖を構え、詠唱を始めている。
上空には六体。
獅子の身体。
巨大な翼。
鋭い嘴。
グリフォンだった。
「馬を狙います」
ジークが短く言う。
「近付けさせるな!」
ヴォルフラムの命令が飛ぶ。
「はっ!」
騎士たちが応じた。
先頭の一体が急降下する。
弓兵が矢を放った。
グリフォンは翼を傾けて回避する。
だが、その動きこそが狙いだった。
「今です!」
ジークが杖を向ける。
火球。
轟音。
一体目が炎に包まれた。
悲鳴を上げながら地面へ墜落する。
二体目。
三体目。
騎士たちが位置を取り。
逃げ道を塞ぎ。
ジークが撃ち落とす。
鮮やかな連携だった。
「三体……」
黒田が思わず呟く。
「強ぇな」
「王国屈指のエース魔術師ですから」
ジークは当然のように答えた。
「騎士団との連携も慣れています」
「模擬戦で何度もやっていますので」
◇
残る三体。
そのうち一体が低空から突っ込んでくる。
「ロッティ!」
安藤が叫んだ。
「はい!」
ロッティが杖を構える。
冷気が集まる。
「氷槍!」
鋭い氷の槍が放たれた。
翼を貫かれたグリフォンが悲鳴を上げる。
飛行姿勢が崩れた。
巨体が地面へ落下する。
騎士たちが一斉に駆け寄った。
槍が突き立てられる。
動かなくなった。
「やった!」
ロッティが声を上げる。
「見事です」
ジークが頷いた。
ロッティは少し嬉しそうだった。
◇
残る二体。
そのうち一体が馬車へ向かう。
「アンディ! そっちへ行った。馬車を守れ」
黒田が叫ぶ。
「分かってる!」
安藤が杖を地面へ突いた。
轟音。
大地が盛り上がる。
巨大な土壁。
馬車の前へ出現する。
グリフォンは避けられなかった。
激突。
鈍い音が響く。
翼が折れる。
首が曲がる。
地面へ転がった。
一同が沈黙した。
「……」
「……」
グリフォンはまだ痙攣している。
生きていた。
「まだ生きてるな」
黒田が槍を拾う。
「まだ生きてるな」
「じゃあ俺の獲物か」
「どうぞ」
黒田は近付いた。
槍を突き下ろす。
グリフォンが動かなくなる。
「討伐!」
騎士たちが歓声を上げた。
黒田は死体を見る。
安藤を見る。
また死体を見る。
「これ九割お前だろ」
「俺は壁作っただけだ」
「壁が凶悪なんだよ」
黒田は死体を見下ろす。
「俺ごっつぁんゴールじゃねぇか」
近くの騎士が吹き出した。
◇
残る一体。
上空へ逃げようとする。
「右翼前進!」
ヴォルフラムの命令。
騎士たちが動く。
「弓兵展開!」
進路を塞ぐ。
矢が放たれる。
グリフォンが翼を傾けた。
逃げ場を失った巨体が旋回する。
「そこだ」
ヴォルフラムが槍を投げた。
槍は一直線に飛ぶ。
一閃。
鋼の穂先が喉を貫いた。
巨体が地面へ落ちる。
「あそこから投げて届くのかよ」
黒田が呟く。
「団長ですから」
ジークが当然のように答えた。
戦闘は終わった。
◇
その日の野営地は安藤が作った。
土塁。
排水溝。
焚き火の区画。
見張り台。
馬留め。
短時間で形になっていく。
騎士たちはもう驚かない。
慣れてしまった。
「毎回思うけどおかしいだろ」
黒田だけが言った。
「そうか?」
「そうだよ」
◇
夜。
治療の時間だった。
天幕の中。
寝具が並んでいる。
左から。
グレタ。
エリーゼ。
安藤。
ロッティ。
「俺そこ?」
「治療のためです」
ロッティが言った。
「治療のためです」
エリーゼも言う。
「治療ですね」
グレタも頷いた。
満場一致だった。
安藤は諦めた。
灯りが落ちる。
外では虫の声が聞こえている。
少しして。
エリーゼが口を開いた。
「今日も楽しかったですね」
誰も否定しない。
収穫前の景色。
アウエンハーフェン。
ベルンハルト。
葡萄酒。
グリフォン。
色々あった一日だった。
「前は」
エリーゼが静かに言う。
「この時間になると苦しかったんです」
誰も口を挟まない。
「息が苦しくて」
「眠るのも怖くて」
ロッティが目を伏せる。
グレタも黙って聞いていた。
エリーゼは少し微笑む。
「でも」
そして皆を見る。
「今日みたいな日が続けばいいなと思います」
静かな声だった。
誰もすぐには答えなかった。
外では虫の声が聞こえている。
しばらくして。
「続くんじゃないか?」
安藤が言った。
「治療も順調そうだし」
エリーゼは嬉しそうに笑った。
「そうですね」
そこで一度言葉を切る。
「……できれば、長く続いてほしいです」
ロッティが僅かに顔を上げた。
エリーゼは何でもないような顔をしている。
だが、その言葉が誰に向けられたものなのか、ロッティには分かった。
安藤だけは気付いていない。
「今は皆さんと話せます」
静かな声だった。
安藤は答える。
「それは良かった」
「はい」
エリーゼは嬉しそうに頷いた。
王女ではない。
どこにでもいる年頃の少女の笑顔だった。
少なくとも今夜だけは。




