表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/15

第十一話 アウエンハーフェン

 アイゼンブルクを発った巡幸隊は南東へ進んでいた。


 黒々とした鉱山の景色はすでに遠い。


 窓の外には広大な畑が広がっていた。


 風が吹く。


 麦が波のように揺れる。


 まだ青い部分も残っている。


 だが全体は少しずつ黄金色へ変わり始めていた。


「もうすぐ収穫ですね」


 王族用馬車の窓から外を眺めながら、エリーゼが言った。


「はい」


 グレタが頷く。


「今年は豊作になりそうです」


 エリーゼは嬉しそうに麦畑を見つめていた。


 王宮の中では見られない景色だ。


 巡幸へ出るようになってから、彼女は以前より窓の外を見るようになった。


「収穫祭も近いですね」


「今年は各地とも期待しているでしょう」


 グレタが微笑む。


 王都の開墾地。


 街道沿いの新農地。


 各地の治水工事。


 結果が出るのは、もうすぐだった。


     ◇


 昼過ぎ。


 アウエンハーフェンが見えてきた。


 大河沿いに築かれた城塞都市だった。


 高い城壁。


 巨大な倉庫群。


 川を行き交う船。


 そして、その向こうに広がる果てしない畑。


「わあ……」


 エリーゼが小さく声を漏らす。


 丘陵地帯には葡萄畑も広がっていた。


 整然と並ぶ支柱。


 青々と茂る葉。


 秋を待つ葡萄。


「綺麗ですね」


「収穫前ですからな」


 騎士の一人が答えた。


「あと数週間もすれば、一面黄金色になります」


 馬車が城門へ近づく。


 そこには一人の男が待っていた。


 ベルンハルト・フォン・アウエ。


 アウエ侯である。


 五十代後半。


 痩せ型。


 白髪交じり。


 武人というより学者に見える。


 だが、その立ち姿には長年王国を支えてきた重臣の風格があった。


「王女殿下」


 ベルンハルトは深く頭を下げる。


「よくぞお越しくださいました」


「ベルンハルト卿」


 エリーゼも微笑んだ。


「お久しぶりです」


 ベルンハルトは顔を上げる。


 そしてしばらくエリーゼを見つめた。


「……お顔色が良くなられましたな」


 その言葉にエリーゼは少し驚いたような顔をした。


「そう見えますか?」


「はい」


 ベルンハルトは頷く。


「王妃殿下に手を引かれ、この地へお越しになっていた頃を思い出します」


「覚えていてくださったのですね」


「当然です」


 ベルンハルトは即答した。


「殿下は王国の宝ですから」


 打算ではない。


 本心だった。


 だからこそ重みがある。


 エリーゼは少し照れたように笑った。


     ◇


 最初に案内されたのは船着き場だった。


 荷役人たちが忙しく働いている。


 穀物袋。


 木材。


 樽。


 様々な荷が絶えず運び込まれていた。


 川岸には大小様々な船が並んでいる。


「街道も大切です」


 ベルンハルトは大河を見つめる。


「ですが、まだまだ物流の主役は船です」


 安藤は頷いた。


「だろうな」


「荷馬車一台で運べる量には限界があります」


「ですが船は違う」


「王都のパンは、この川を通って運ばれております」


 黒田が感心したように川を見る。


「見た目以上に重要なんだな」


「この川が止まれば王都も飢えます」


 ベルンハルトは静かに言った。


 安藤は川を見つめた。


 道路。


 橋。


 港。


 運河。


 倉庫。


 頭の中で線が繋がっていく。


「どうしました?」


 ロッティが聞く。


「いや」


 安藤は答えた。


「やっぱり港が欲しいなと思って」


「増やさないでください」


「まだ何もしてない」


「顔がしてます」


 ロッティは断言した。


 安藤は否定できなかった。


     ◇


 その日の夜。


 領主館では盛大な晩餐会が開かれた。


 長い卓。


 並ぶ料理。


 焼いた鳥肉。


 川魚。


 チーズ。


 野菜の煮込み。


 そして葡萄酒。


「これうまいな」


 黒田が杯を掲げる。


 ベルンハルトは少し嬉しそうに笑った。


「我が領の葡萄酒です」


「レオーネ産も有名ですけどね」


 グレタが言う。


「確かに」


 ベルンハルトは頷いた。


 そして少しだけ杯を掲げた。


「モンレーヴ産も結構」


「カスティア産も結構」


「ですが――」


 穏やかに笑う。


「我らのアウエ産の葡萄酒も負けてはおりません」


 その口調だけは少し熱かった。


「ずいぶん自信あるな」


 安藤が笑う。


「農民も醸造家も一年かけて作るのです」


 ベルンハルトは静かに言った。


「領主として、自慢くらいはしたくなります」


 その言葉にエリーゼも微笑んだ。


 ベルンハルトは昔からこういう人だった。


 派手ではない。


 だが領民のことをよく見ている。


 だから王家からも信頼されている。


「また知らない国が増えたな」


 黒田が葡萄酒を飲みながら言った。


「確かに増えた」


 安藤も頷く。


 ロッティが無言になる。


 嫌な予感がした。


「……王国周辺の地理については、後で説明します」


 静かな声だった。


「何だよ」


「嫌な予感しかしない」


 黒田が言った。


 グレタが吹き出す。


 アウエンハーフェンの夜は静かに更けていった。


     ◇


 翌朝。


 巡幸隊はアウエンハーフェンを発った。


 目的地は南のリッターシュタット。


 王国でも有数の騎士の街である。


 空は高く晴れ渡っていた。


 昼過ぎ。


 小川のほとりで休憩が取られる。


 馬は水を飲み、騎士たちは装備を点検していた。


 エリーゼは馬車近くに用意された椅子へ腰掛けている。


 以前なら考えられないことだった。


 だが今はこうして外の空気を楽しめる。


「さて」


 ロッティが言った。


 嫌な予感がした。


「昨日の続きです」


「来た」


 黒田が即答した。


「やっぱり来たな」


「何の話だ?」


 安藤が聞く。


「地理です」


 ロッティは地面へしゃがみ込んだ。


 その辺に落ちていた棒を拾う。


「覚えていただきます」


「テスト出る?」


「出ます」


「終わった」


「最初から始まってません」


 ロッティは即答した。


 グレタが吹き出す。


 シャハトも小さく笑っていた。


「では」


 ロッティは地面へ線を引く。


「ここがヴァルデン王国です」


 簡単な地図が描かれる。


「おお」


 黒田が感心した。


「先生っぽい」


「先生です」


「先生なのか」


「今日は先生です」


 ロッティは胸を張った。


 さらに西へ線を引く。


「こちらがモンレーヴ王国」


「昨日のワインの国か」


「ワインの国ではありません」


「違うのか」


「違いませんけど違います」


 意味不明だった。


 グレタが笑っている。


「北東にはエーレンベルク王国があります」


 ロッティが続ける。


「王国の同盟国ですね」


 シャハトが言った。


 ロッティが頷く。


「正解です」


「芸術が盛んで、王家同士の縁戚も多い」


「その通りです」


「おお」


 黒田が驚く。


「先生が褒めた」


「わたしだって褒めます」


 ロッティは不満そうだった。


「シャハトさんは勉強していますから」


「お前も見習え」


 安藤が言う。


「何で俺だけなんだ」


「お前だからだ」


 全員一致だった。


 黒田は納得していない顔をした。


「南にはレオーネ自由都市同盟があります」


 ロッティはさらに地図を描く。


「グレタさんのその、ネックレスの産地ですね」


「ああ」


 黒田が頷く。


「角のやつか」


「角のやつ言わないでください」


 グレタが抗議した。


「お気に入りなんですから」


「悪い悪い」


「本当に思ってます?」


「たぶん」


「思ってませんね」


 即答だった。


 周囲から笑いが起きる。


「さらに南西」


 ロッティは続ける。


「カスティア聖王国があります」


「ここも葡萄酒で有名です」


「なるほど」


 安藤が頷く。


「昨日の話はそういうことか」


「やっと繋がりましたか」


 ロッティが呆れた。


「最後に王国の東」


 ロッティの表情が少し真面目になる。


 地面へ長い線を引く。


「ルーシェ皇国です」


 その名前に、ジークが僅かに視線を上げた。


「大国ですね」


 シャハトが言う。


「交易量も大きい」


「はい」


 ロッティは頷く。


「ですが軍事力も強大です」


「国境勤務は人気がありません」


 ジークが付け加えた。


「魔獣も多いですし」


「なるほど」


 安藤は地面の地図を見下ろした。


 王国。


 同盟国。


 自由都市同盟。


 宗教国家。


 少しずつ世界が広がっている。


「覚えましたか?」


 ロッティが聞く。


「たぶん」


 安藤は即答した。


「覚えてませんね」


「何で分かる」


「顔です」


 ロッティは断言した。


 そして。


「アンディさんまで」


 少しだけ呆れたように言う。


「俺は……いずれ帰るし」


 安藤は何気なく答えた。


「覚えなくてもいいかなって」


 その瞬間。


 ロッティの手が止まった。


 棒の先が地面を軽くなぞる。


「……」


 風が吹いた。


 誰も何も言わない。


「……そうでしたね」


 ロッティは小さく呟いた。


 そして地図を消すように棒を払う。


「続けます」


 いつもの声だった。


 だが少しだけ。


 ほんの少しだけ寂しそうに見えた。


 エリーゼはそんなロッティの横顔を見ていた。


 何かを言おうとして。


 結局何も言わなかった。


 その時だった。


「上だ!」


 見張りの騎士が叫ぶ。


 全員が反射的に空を見上げた。


 青空を横切る六つの影。


「何だあれ……魔獣か?」


 黒田が目を細める。


「いや」


 ジークが立ち上がった。


「グリフォンです」


 空気が一変した。


 ヴォルフラムの怒声が響く。


「散開!」


     ◇


 休憩中だった騎士たちが一斉に動いた。


 馬を下げる。


 荷車を寄せる。


 弓兵が前へ出る。


 槍兵が左右へ展開する。


 誰一人として迷わない。


 何度も訓練された動きだった。


 安藤は思わず息を呑んだ。


「すごいな」


 思わず口から漏れる。


「この国、意外とちゃんと軍隊やってるな」


「意外とは何ですか」


 ジークが言った。


「失礼ですよ」


 そう言いながらも視線は空から離さない。


 すでに杖を構え、詠唱を始めている。


 上空には六体。


 獅子の身体。


 巨大な翼。


 鋭い嘴。


 グリフォンだった。


「馬を狙います」


 ジークが短く言う。


「近付けさせるな!」


 ヴォルフラムの命令が飛ぶ。


「はっ!」


 騎士たちが応じた。


 先頭の一体が急降下する。


 弓兵が矢を放った。


 グリフォンは翼を傾けて回避する。


 だが、その動きこそが狙いだった。


「今です!」


 ジークが杖を向ける。


 火球。


 轟音。


 一体目が炎に包まれた。


 悲鳴を上げながら地面へ墜落する。


 二体目。


 三体目。


 騎士たちが位置を取り。


 逃げ道を塞ぎ。


 ジークが撃ち落とす。


 鮮やかな連携だった。


「三体……」


 黒田が思わず呟く。


「強ぇな」


「王国屈指のエース魔術師ですから」


 ジークは当然のように答えた。


「騎士団との連携も慣れています」


「模擬戦で何度もやっていますので」


     ◇


 残る三体。


 そのうち一体が低空から突っ込んでくる。


「ロッティ!」


 安藤が叫んだ。


「はい!」


 ロッティが杖を構える。


 冷気が集まる。


「氷槍!」


 鋭い氷の槍が放たれた。


 翼を貫かれたグリフォンが悲鳴を上げる。


 飛行姿勢が崩れた。


 巨体が地面へ落下する。


 騎士たちが一斉に駆け寄った。


 槍が突き立てられる。


 動かなくなった。


「やった!」


 ロッティが声を上げる。


「見事です」


 ジークが頷いた。


 ロッティは少し嬉しそうだった。


     ◇


 残る二体。


 そのうち一体が馬車へ向かう。


「アンディ! そっちへ行った。馬車を守れ」


 黒田が叫ぶ。


「分かってる!」


 安藤が杖を地面へ突いた。


 轟音。


 大地が盛り上がる。


 巨大な土壁。


 馬車の前へ出現する。


 グリフォンは避けられなかった。


 激突。


 鈍い音が響く。


 翼が折れる。


 首が曲がる。


 地面へ転がった。


 一同が沈黙した。


「……」


「……」


 グリフォンはまだ痙攣している。


 生きていた。


「まだ生きてるな」


 黒田が槍を拾う。


「まだ生きてるな」


「じゃあ俺の獲物か」


「どうぞ」


 黒田は近付いた。


 槍を突き下ろす。


 グリフォンが動かなくなる。


「討伐!」


 騎士たちが歓声を上げた。


 黒田は死体を見る。


 安藤を見る。


 また死体を見る。


「これ九割お前だろ」


「俺は壁作っただけだ」


「壁が凶悪なんだよ」


 黒田は死体を見下ろす。


「俺ごっつぁんゴールじゃねぇか」


 近くの騎士が吹き出した。


     ◇


 残る一体。


 上空へ逃げようとする。


「右翼前進!」


 ヴォルフラムの命令。


 騎士たちが動く。


「弓兵展開!」


 進路を塞ぐ。


 矢が放たれる。


 グリフォンが翼を傾けた。


 逃げ場を失った巨体が旋回する。


「そこだ」


 ヴォルフラムが槍を投げた。


 槍は一直線に飛ぶ。


 一閃。


 鋼の穂先が喉を貫いた。


 巨体が地面へ落ちる。


「あそこから投げて届くのかよ」


 黒田が呟く。


「団長ですから」


 ジークが当然のように答えた。


 戦闘は終わった。


     ◇


 その日の野営地は安藤が作った。


 土塁。


 排水溝。


 焚き火の区画。


 見張り台。


 馬留め。


 短時間で形になっていく。


 騎士たちはもう驚かない。


 慣れてしまった。


「毎回思うけどおかしいだろ」


 黒田だけが言った。


「そうか?」


「そうだよ」


     ◇


 夜。


 治療の時間だった。


 天幕の中。


 寝具が並んでいる。


 左から。


 グレタ。


 エリーゼ。


 安藤。


 ロッティ。


「俺そこ?」


「治療のためです」


 ロッティが言った。


「治療のためです」


 エリーゼも言う。


「治療ですね」


 グレタも頷いた。


 満場一致だった。


 安藤は諦めた。


 灯りが落ちる。


 外では虫の声が聞こえている。


 少しして。


 エリーゼが口を開いた。


「今日も楽しかったですね」


 誰も否定しない。


 収穫前の景色。


 アウエンハーフェン。


 ベルンハルト。


 葡萄酒。


 グリフォン。


 色々あった一日だった。


「前は」


 エリーゼが静かに言う。


「この時間になると苦しかったんです」


 誰も口を挟まない。


「息が苦しくて」


「眠るのも怖くて」


 ロッティが目を伏せる。


 グレタも黙って聞いていた。


 エリーゼは少し微笑む。


「でも」


 そして皆を見る。


「今日みたいな日が続けばいいなと思います」


 静かな声だった。


 誰もすぐには答えなかった。


 外では虫の声が聞こえている。


 しばらくして。


「続くんじゃないか?」


 安藤が言った。


「治療も順調そうだし」


 エリーゼは嬉しそうに笑った。


「そうですね」


 そこで一度言葉を切る。


「……できれば、長く続いてほしいです」


 ロッティが僅かに顔を上げた。


 エリーゼは何でもないような顔をしている。


 だが、その言葉が誰に向けられたものなのか、ロッティには分かった。


 安藤だけは気付いていない。


「今は皆さんと話せます」


 静かな声だった。


 安藤は答える。


「それは良かった」


「はい」


 エリーゼは嬉しそうに頷いた。


 王女ではない。


 どこにでもいる年頃の少女の笑顔だった。


 少なくとも今夜だけは。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ