〈55〉
数日後、
ドミトス公爵家の厨房から甘い香りが漂っていた。
「熱いから皆少し離れてね」アンジェラはそう言って竈門から鉄板を取り出し、大きな調理台に置いた。
パウンドケーキが2種類焼き上がり、ほかほか湯気を立てている。
「うわぁ!アンジェラ様。とても良い香りがします!」クロエはいつもとは違う無邪気な顔で焼き上がったばかりのケーキを見ている。
「義母上。ケーキとはこういう風に作るものなのですね」とマックスも感心している。
「早く食べたいです!」レオナードも目を輝かせてアンジェラに言っていた。
「ふふ、残念ながらすぐにはお勧めできないわね…」アンジェラはそう言いながらひとつのパウンドケーキにブランデーを入れて作ったシロップを刷毛でたっぷり塗り始めた。
そして油でコーティングされた紙に包んで
「暫く置いてからいただきましょう!」と笑った。
クロエはその工程をメモしている。
「落ち着くまで、お茶でもして待っていましょう。昨日クッキーも焼いたのよ、是非食べて欲しいわ!」
そう言って、ワゴンにティーセットとクッキーを載せた大皿を置いて皆でサロンに向かった。
穏やかな夏の午後だった。
粗熱の取れたパウンドケーキもテーブルに乗った。
「レモンの風味が爽やかですね!」
「こちらはブランデーが染みてしっとりしてます」
それぞれに感想を述べながら、初めての菓子作りの成果を楽しんでいた。
「ふふ、皆でこんな時間を過ごすことができるなんて夢みたいだわ」とアンジェラは綺麗な所作で紅茶を飲みながら微笑む。
クロエ達も笑顔だった。
「マクシミリアン様。お願いがあります」突然アンジェラはマックスに向かって告げた。
「お願い…ですか?」マックスも急に告げられ戸惑うように答えた。
「ええ」
「なんでしょう?」
「私は出家をしたいと思います。どうか許可をいただきたいのです」
「義母上?」マックスは驚いたが、レオナードはさらに驚いた。
「母上!何を言い出すのですか?出家…だなんて」
「急に言い出してごめんなさい。前から考えていたの。本当は両親が拘束された時点で修道院に行こうかと思ったんだけど、あなた達との時間があまりにも楽しくて…」
「では、このまま私達と楽しく暮らせばいいではないですか?やっと、穏やかに暮らせるようになったのに…」
「…ありがとう、嬉しいわ。半分はそうしたい…でも半分はあの人のところに行きたいの…決して自分から命を断とうなんて思ってないわ。ただそばにいたいの…あの人が眠る教会に身を寄せようかと思っているの。既に相談していて、歓迎してくださるそうよ」
暫くの沈黙のあと、母の顔をじっと見ていたレオナードが「母上は父上のそばにいることが幸せにつながるんですか?」とアンジェラに向かって言うと、
アンジェラは「ええ」と微笑んで頷いた。
「…兄上…」とレオナードはマックスの言葉を待つ。
「…わかりました。義母上のなさりたいことを支持します。私も教会に挨拶に行きましょう…しかしここは義母上の家です。いつでも遊びに帰ってきてください」
「ええ、ええ。ありがとう、きっとちょくちょくお菓子を焼きに帰ってくるわ。そしてお父様に焼いたお菓子をお土産に持って帰ることにするわ」
「是非、そうしてください」
「お茶が冷めてしまったわね!淹れ直しましょう!」
そう言って、皆のお茶を温かいものに変えるアンジェラだった。
そんな家族の姿をクロエは見つめていた。
………………………………
「マックス?大丈夫か?」
ドミトス公爵家からの帰途。クロエとマックスはドミトス公爵家の馬車に並んで座っていた。
「ああ、大丈夫だ。びっくりしたけどな…」
「確かにな…アンジェラ様のけじめのつけ方なんだろうな…」
アンジェラから渡された茶葉を鑑定することはなかった。ジェームス・ランドルクの運営するギルドから毒入り茶葉や毒物の薬瓶が押収されたから敢えて鑑定をする必要はなかった。
それにマックスはこれ以上アンジェラを、ひいてはレオナードを追い詰めたくはなかった。
アンジェラには〈鑑定した結果、普通の茶葉でした〉と報告した。
「義母上はきっと俺が嘘をついているってわかっているんだろうな…」
「…どうだろうな…」
そう言いながら、クロエは隣に座るマックスの手を握った。
「私の勝手な憶測だが、アンジェラ様がドミトス公爵家から距離を置くことで、マックスやレオ様をしがらみから守ろうとしてくださっている気がする」
「そうか…そうなのか」マックスは少し俯き加減で呟いた。
少しの沈黙のあと、「マックス…」
「うん?」
「領地に戻ろうと思う」
「え?」
「ムーンベルクとの国境の街道整備を急がなければならない。税関施設建設地の誘致も…」
「…そうか。じゃあ、俺も」
「マックスはマックスのやらなければいけないことがあるだろう?今は、お互いのやるべきことを優先しよう」
「そうか…そうだな」
「あの、約束した湖畔に行きたい」そう言ってクロエはマックスの肩に頭を乗せた。マックスはクロエの肩を抱く。
「ああ、行こう!久しぶりにウイングやボイジャーを遠乗りにも連れて行ってやりたい」
「ふふ、それはいい考えだな」
「クロエ」
「うん?」
「愛しているよ」
「なんだ?急に…変なマックス…ふふ」
「ちゃんと伝えておかないとな」
「私もマックスを愛しているよ、伝わってる?」
「ああ、ちゃんと伝わってる」
そう言いながら見つめ合うふたりの唇は自然と重なり合った。




