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第9話:不協和音を奏でる家宝



 夜の帳が王都を包み込み、路地裏の静寂は一層の深みを増していた。


 店内に灯されたアルコールランプの青白い炎が、ガラスケースの中に並ぶアンティーク時計たちの表面に揺らめく影を落としている。チクタク、チクタクという無数の駆動音は、夜の冷気の中でより一層澄み切り、店全体がひとつの巨大な生き物のように規則正しい呼吸を繰り返しているかのようだった。


 アリアは作業机の前に座り、右目にルーペを嵌め込んだまま、ピンセットを握る右手を微動だにさせずにいた。


 彼女の目の前には、今日の午後にワイズマン子爵家の執事が持ち込んだ、重厚なマホガニー材のオルゴール時計が鎮座している。


 ガラスカバーはすでに外され、心臓部である巨大な真鍮製のシリンダーと、それに噛み合う鋼鉄の櫛歯が、ランプの光を受けて鈍く輝いていた。


「……シリンダーの表面に植えられたピンの数、およそ二千本。一つ一つのピンの傾き、長さに狂いはない。シリンダーの回転軸の摩耗も許容範囲内だ」


 アリアは呪文のように呟きながら、極小の歯車や部品の隙間を舐め回すように観察していく。


 オルゴールの動力源は、時計部分とは独立した巨大な香箱車(ゼンマイを収めた歯車)だ。そこから伝わる力が、シリンダーをゆっくりと回転させる。シリンダーの表面に無数に打ち込まれた微小なピンが、鋼鉄の櫛歯を引っ掛けて弾くことで、音が鳴る。


「……ガバナーの羽の角度も正常。エアブレーキは設計通りに機能している。シリンダーの回転速度が一定でないという可能性は排除していい」


「相変わらず、夜通しで機械と睨めっこか。嬢ちゃん、少しは休まんかい。若い娘が徹夜などすれば、肌荒れの原因になるぞい」


 ストーブの火が落ちて冷え切った店内で、毛布にくるまったシルクが呆れたように声をかけた。


「……肌荒れなど、時計の精度には一切影響しない。それより、この櫛歯の並びを見てみろ」


 アリアはピンセットの先で、ピアノの鍵盤のように並んだ何十本もの鋼鉄の櫛歯を指し示した。


「低音部は重りをつけて振動数を下げ、高音部は削り込んで振動数を上げている。調律の跡は非常に美しい。これを作った職人は、金属の厚みと質量が弾き出す周波数の計算式を、完全に理解していたはずだ」


「ふむ。それほど見事な作りなら、なぜあんな黒板を引っ掻くような酷い音が鳴るんじゃ?」


「……それが問題だ。全体的な劣化や、特定の部品の破損なら説明がつく。だが、このオルゴールは『狂い方』がおかしいんだ」


 アリアはルーペを外し、小さく息を吐き出した。冷たい空気に、白い息が微かに混じる。


 彼女の脳内では、昼間に一度だけ鳴らしたあの不協和音が、まだねっとりとこびりついている。和音を構成する複数の音のうち、特定の音階だけが、まるで意図的に調律を外されたかのように四分の一音だけずれていたのだ。


 アリアが再びルーペを嵌め込もうとした、その時。


 カランコロン、と。


 夜明け前の薄暗い路地裏に、不釣り合いなドアベルの音が響いた。


「……こんな時間に、誰だ。防音の結界は張ってあるはずだが」


 アリアが怪訝そうに視線を向けると、分厚い扉が少しだけ開き、そこから大柄な人影が顔を覗かせた。


「アリア、起きてるか……? って、やっぱりまだ起きてたのか」


 申し訳なさそうに入ってきたのは、私服姿のケリーだった。手にはいつものように、保温の魔法容器を提げている。


「……ケリー。今は早朝の四時だぞ。騎士見習いは夜明け前から徘徊するのが仕事なのか」


「いや、その……昨日の夜からずっと店の明かりが点きっぱなしだったから、気になってさ。また飯も食わずに没頭してるんじゃないかと思って、夜食……というか、早めの朝飯を作ってきたんだ」


 ケリーはカウンターに魔法容器を置き、ふたを開けた。中から立ち上ったのは、トマトと豆をじっくりと煮込んだミネストローネの匂いだった。バジルの爽やかな香りが、埃っぽい店内の空気を一瞬で塗り替える。


「ほほう、若いの。こんな時間からご苦労なこっちゃ。嬢ちゃんは案の定、昨日の昼から水を一杯飲んだだけじゃぞ」


 シルクが毛布から這い出し、尻尾を立ててすり寄っていく。


「……余計なお世話だ。私は今、重要な検証作業の最中だ」


 アリアは冷たく言い放ったが、胃袋は正直に小さく鳴った。


 ケリーは苦笑しながら、木製の器にスープを注ぎ分ける。


「ほら、冷めないうちに食え。徹夜明けの胃袋には、このくらい優しい味がいいだろ」


 アリアは無言で器を引き寄せ、スプーンで一口すする。トマトの酸味と豆の甘み、そして絶妙な塩加減が、疲労した脳に染み渡っていく。相変わらず、無駄に美味い。


「……塩加減は完璧だ。だが、トマトの湯剥きが少し甘い。皮の食感が残っている」


「うっ……厳しいな。次は気を付けるよ」


 ケリーは頭を掻きながら、ふとアリアの作業机の上に視線を落とした。


 そして、ランプの光に照らされた重厚なマホガニーの箱を見た瞬間、彼の表情がパッと凍りついた。


「おい……アリア。それ……」


「……ああ。お前の家の時計だ。昨日、ワイズマン家の執事とやらが持ち込んできた」


 アリアはスープを飲みながら、淡々と告げた。


 ケリーの顔から血の気が引いていく。彼は大きな体を縮こまらせるようにして、気まずそうに視線を泳がせた。


「……執事のじいが、来たのか。そうか……親父が大切にしてた、うちの家宝だ。長男の兄貴が、金策のために売り払うって言ってたのは知ってたけど……まさか、アリアのところに修理に出すなんて」


「……お前の実家が没落貴族であろうと、そんなことは私には関係ない。私はただ持ち込まれた時計を直すだけだ」


 アリアの言葉は冷徹だった。他人の家庭の事情など、時計の精度には一ミリも寄与しないノイズだ。


「でも、その時計、酷い音がするんだろ? 俺が家を出る前、数ヶ月前から急におかしくなったんだ。親父が亡くなってすぐの頃から……」


「……聞いた。そして、調べた」


 アリアはスープの器を置き、机の上のオルゴールに向き直った。


「ケリー。お前の家の人間は、この時計に『魔法の呪いがかかっている』と言っていたそうだな」


「あ、ああ。うちの兄貴たちはそう言ってた。親父の無念が乗り移って、売られないように呪いをかけたんだって。他の時計屋や魔法技師に見せても、誰も直せなかったらしいし……」


「……馬鹿馬鹿しい」


 アリアは冷たく吐き捨てた。


「呪いなどという非科学的なオカルトで、物理的な音波が歪むものか。この不協和音には、明確な『物理的根拠』がある」


 アリアは極小のドライバーを手に取り、オルゴールの櫛歯を固定している真鍮のネジの隙間を指し示した。


「……よく聞け。オルゴールの音は、この鋼鉄の櫛歯の長さと重さによって決まる。低音を出したければ根元を薄く削り、先端に鉛の重りをつける。高音を出したければ短く削る。その調律の精度は、まさに職人の命だ」


 アリアはルーペを右目に嵌め込み、ランプの光を櫛歯の先端に集中させた。


「この時計を作った職人は、間違いなく一流だ。だが、今このオルゴールが奏でる和音は、設計図通りではない。なぜだかわかるか?」


 ケリーは息を呑んで首を横に振った。


「……調律が、狂わされているんだ。経年劣化ではない。意図的にだ」


「意図的に……? 誰かが、わざと壊したってことか?」


「……『壊した』わけじゃない。それが一番厄介なところだ」


 アリアはピンセットの先で、特定の数本の櫛歯を軽く叩いた。カン、カンと小さな金属音が鳴る。


「……シリンダーのピンの配置は正常だ。ガバナーの回転速度も一定。だが、この特定の『ラ』と『ド』の音階を担当する櫛歯だけが、四分の一音だけ低くなるように、根元の部分を極薄く、ミクロン単位で削られている。目視ではほとんどわからないレベルだが、削り出された金属の地肌が、他の櫛歯に比べてわずかに新しい」


 アリアの指摘に、ケリーは目を見開いた。


「……削られてる? でも、どうしてそんなことを……」


「……わからない。ただ嫌がらせで壊すなら、櫛歯を折ればいい。シリンダーのピンを曲げればいい。だが、この犯人は、わざわざオルゴールの構造を完全に理解した上で、本体の時計機能には一切影響を与えず、ただ『特定のメロディの時に不協和音を奏でる』ようにだけ、精密な再調律を施したんだ」


 アリアの声には、静かな怒りと、それ以上の強い好奇心が混じっていた。


「こんな真似ができるのは、私と同等か、それに近い技術を持った時計職人だけだ。素人の手遊びじゃない。明確な意図を持った、プロの犯行だ」


 店内に静寂が落ちる。


 チクタク、チクタクという時計たちの鼓動だけが、冷たい空気の中を伝わっていく。


「……親父が亡くなってすぐの頃から、か」


 アリアはケリーの先ほどの言葉を反芻した。


「ケリー。お前の父親は、このオルゴール時計を誰かに修理に出した記録はないか。あるいは、お前の屋敷に出入りしていた時計職人は」


「いや……親父はこの時計をすごく大切にしてて、他人に触らせることは絶対になかった。手入れも自分でやってたくらいだ。だから、外の職人が手を入れたなんてことは……」


 ケリーの言葉が途切れる。


 その顔に、ハッとしたような、信じられないものに気付いてしまったような表情が浮かんだ。


「……まさか」


「……心当たりがあるようだな」


 アリアはルーペ越しにケリーの顔を覗き込んだ。


「親父だ……。親父は、昔から機械いじりが好きで、この時計の構造も全部把握してた。もしかして、親父自身が……死ぬ直前に、この時計の音を狂わせたのか……?」


「……自分の家宝の音を、わざと不快な不協和音に作り変える。売却を妨害するためか? それとも……」


 アリアは櫛歯の表面を指でなぞった。


 前世で、死の淵にいた自分は、ただ時計に触れていたかった。時間を残したかった。


 もし、ケリーの父親が自らの死期を悟り、最後の力を振り絞ってこの硬い鋼鉄の櫛歯を削ったのだとしたら。そこには、ただの嫌がらせではない、何か血を吐くような執念が込められているはずだ。


「……ただ音を狂わせただけじゃない。四分の一音という絶妙なズレ。これは、不協和音であると同時に、何か別の『音』を隠すためのマスキングかもしれない」


「別の音?」


「……ああ。このオルゴールが本来奏でるべきメロディの裏に、削られた櫛歯によって意図的に浮かび上がる、隠された旋律があるはずだ」


 アリアは立ち上がり、工具箱から特殊な音叉と、共鳴を調べるための小さな金属棒を取り出した。


「……ケリー、シルク。耳を塞いでいろ。もう一度、この悲鳴を鳴らす」


 アリアは冷酷な外科医のように、オルゴール時計の強制演奏レバーに手をかけた。


 カチリ。


 シューというガバナーの風切り音に続き、再びあの身の毛もよだつような不協和音が店内に響き渡る。


 ケリーは顔をしかめて両手で耳を覆い、シルクは毛を逆立てて威嚇のポーズをとる。


 しかし、アリアだけは違った。


 彼女は目を閉じ、一切の表情を消して、その醜いノイズの奥底へと意識を沈み込ませていく。


 狂った和音。四分の一音のズレ。削られた金属の微かな悲鳴。


 天才時計職人の脳内で、不快な音が一つ一つの周波数に分解され、再構築されていく。


「……聞こえる。ノイズの中に隠された、規則的な打音」


 アリアの呟きは、不協和音にかき消されて誰にも届かない。


 だが、彼女の青い瞳は、確かな真実の輪郭を捉え始めていた。


 窓の外が、白み始めている。


 ゴーン、と。


 夜明けを告げる王都の大時計台の鐘が、遠くから重く、くぐもった音色で響いてきた。


 その悲しげな鐘の音と、目の前のオルゴールの狂ったメロディが、奇妙な和音となってアリアの耳の中で交差する。


 失われた貴族の栄華。五男坊の不器用な優しさ。そして、亡き父が削った櫛歯に込められた、狂気にも似た執念。


 すべての歯車が、解決に向けて静かに回り始めていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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次回お楽しみに。

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