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第10話:狂った調律と、削られた歯車の意図



 夜明けの青白い光が、王都の路地裏に静かに降り注ぎ始めていた。


 すりガラスの窓を通して差し込む朝の光は、まだ冷気をたっぷりと孕んでおり、店内に点されたアルコールランプの人工的な炎の色を少しずつ奪っていく。徹夜の作業が続いた室内には、古い真鍮と機械油の匂いに混じって、先ほどケリーが持参したミネストローネのトマトの香りが微かに漂っていた。


 チクタク、チクタク。


 壁一面に並べられたアンティーク時計たちは、夜が明けたことなど意に介さない。ただ等間隔に、冷徹に、自分たちに与えられたゼンマイの命を削りながら時間を分割し続けている。


 その静寂と規則正しいリズムの海の中で、作業机の上に置かれた重厚なマホガニー材のオルゴール時計だけが、不気味な沈黙を保っていた。


 先ほどアリアが鳴らした、あの耳を覆いたくなるような不協和音の残響は、すでに空気の中に溶けて消えている。だが、醜いノイズの記憶が脳裏に焼き付いてしまったケリーは、いまだに両手で耳を塞いだまま、大きな体を丸めて壁際に寄りかかっていた。


「……死ぬかと思った。親父は、なんであんな呪いみたいな音を……」


 ケリーが苦しげにうめき声を上げると、カウンターの隅で毛を逆立てていた黒猫のシルクも、同調するように深くため息をついた。


「全くなのじゃ。ワシの繊細な耳には拷問以外の何物でもないわい。嬢ちゃん、よくあんな狂った音を真正面から聞いていられるのう。耳がどうかしておるんじゃないか」


「……音の美醜など、時計の構造には関係ない。そこにあるのは、周波数の物理的な衝突と、それを生み出している金属の構造だけだ」


 アリアは一切の疲労を見せることなく、ピンセットの先をランプの火にかざしてアルコールを飛ばした。


 彼女の氷のように青い瞳は、オルゴール内部の複雑なからくり機構を、まるで獲物を解体する外科医のような冷徹さで見据えている。


「ケリー。お前は昨日、実家の人間が『売却を妨害するために親父が呪いをかけた』と言っていたと話したな」


「……ああ。長男の兄貴がこれを売ろうとしていたのは、親父が生きていた頃からの話だったから。ワイズマン家の誇りである家宝を平民の商人に売り渡すくらいなら、いっそ音を狂わせて価値を無くしてしまおうと、親父が考えたとしても不思議じゃない」


「……浅はかな推理だ」


 アリアは身も蓋もなく、冷ややかに切り捨てた。


「……ただ価値を無くすだけなら、シリンダーのピンを数本叩き折れば済む話だ。あるいは、ゼンマイの香箱を叩き割ればいい。だが、お前の父親はそんな乱暴な真似はしなかった。時計本体の機能は完璧に維持したまま、オルゴールの音階だけを、それも特定の和音だけを四分の一音ずらすという、極めて高度な『狂った調律』を施したんだ」


 アリアは右目にルーペを嵌め込み、オルゴールの心臓部である鋼鉄の櫛歯にランプの光を集中させた。


「……ここへ来て見ろ」


 アリアに促され、ケリーは恐る恐る作業机に近づいた。


「オルゴールの音は、このピアノの鍵盤のように並んだ鋼鉄の櫛歯の長さと重さによって決まる。低音を出したければ根元を薄く削り、高音を出したければ短く削る。その調律の精度は、まさに職人の命だ。一削りの重みで、音は劇的に変わる」


 アリアは極小のピンセットの先で、特定の数本の櫛歯を指し示した。


「このオルゴールを作った職人は一流だ。全体的な削りの跡は非常に美しく、経年劣化も少ない。だが……この『ラ』と『ド』の音階を担当する櫛歯の根元だけを見てみろ」


 ケリーは目を凝らしたが、素人の目にはただの金属の板が並んでいるようにしか見えない。


「……よく見えません、と言う前に想像しろ。この数本だけ、根元の金属の地肌がわずかに新しい。古い酸化膜が剥がれ、ヤスリでミクロン単位の金属を削り落とした跡がある」


 アリアの言葉に、ケリーはハッと息を呑んだ。


「削られている……? じゃあ、本当に親父が……」


「……そうだ。ただの劣化じゃない。誰かが意図的に、この特定の櫛歯だけを削り、音を四分の一音だけ低くした。人間の耳が最も不快に感じる、不協和音を生み出すためにな。だが、異常なのは櫛歯の調律だけじゃない。もう一つ、致命的な細工が施されている箇所を発見した」


「もう一つ……?」


「……シリンダーを回転させるための、伝達歯車だ」


 アリアは櫛歯から視線を外し、巨大な真鍮のシリンダーの横にある、いくつもの歯車が連なった動力伝達部へとルーペを向けた。


 オルゴールは、香箱に収められた強力なゼンマイの力を、この歯車群で減速し、シリンダーを一定の速度でゆっくりと回転させる。その速度が一定だからこそ、ピンが櫛歯を弾くタイミングが揃い、正しいリズムの音楽になるのだ。


「……この三番車を見てみろ」


 アリアは一つの小さな真鍮製の歯車をピンセットの先でそっと撫でた。


「全周六十枚ある歯のうち、八枚おきに、歯の先端がコンマ数ミリだけ斜めに『削り落とされている』」


「歯車が……削られてる? そんなことをしたら、時計が止まっちまうじゃないか」


「……時計機能とは動力が独立しているから、時計の針は止まらない。だが、オルゴールのシリンダーの回転には致命的な影響が出る」


 アリアは引き出しから細い金属の棒を取り出し、削られた歯車の模型を描くように空中で動かした。


「……歯の先端が斜めに削られているということは、次の歯車と噛み合う瞬間に、動力が一瞬だけ『滑る』ということだ。つまり、シリンダーの回転速度が一定ではなくなり、特定のタイミングでわずかに『つまずく』。その結果、何が起きると思う?」


 ケリーは眉間を押さえ、必死に思考を巡らせた。


「回転がつまずく……。じゃあ、ピンが櫛歯を弾くタイミングがずれるってことか?」


「……正解だ。しかも、ランダムなズレじゃない。八枚おきに削られた歯車が作り出す、意図的で規則的な『つまずき』だ」


 アリアはピンセットを置き、静かに息を吐いた。


「音階を狂わせた櫛歯と、回転速度を意図的に落とす削られた歯車。この二つが組み合わさることで、あの不協和音は完成する。シリンダーが特定の箇所でつまずくことで、本来のメロディとは全く別の、不規則なリズムの打音が生まれるんだ」


 アリアの青い瞳が、朝の光の中で鋭い知性の光を放った。


「カン、カン、カカン……という、モールス信号のような不規則なリズム。そして、四分の一音ずらされた不快な和音は、その裏側に隠された『真のメッセージ』から、聞く者の耳を逸らさせるためのカモフラージュ……つまり、マスキング効果を狙ったものだ」


 アリアの口から語られた事実は、狂気に満ちた執念の証明だった。


 時計という、正確な時間を刻むことを至上命題とする機械。オルゴールという、美しい音楽を奏でることを目的とした機械。


 その両方のアイデンティティを、時計職人並みの技術を用いて意図的に破壊し、醜いノイズの塊へと作り変える。それは前世の天才時計職人であったアリアからすれば、背筋が凍るほどの冒涜的行為であり、同時に、そこまでして残したかった『何か』への凄まじい執着を感じさせるものだった。


「……ただの嫌がらせで壊すなら、歯車を叩き割ればいい。だが、この犯人は、わざわざオルゴールの構造を完全に理解した上で、本体の時計機能には一切影響を与えず、ただ『特定のメロディの時に不協和音を奏でる』ようにだけ、精密な再調律を施したんだ」


 アリアの声には、静かな怒りと、それ以上の強い好奇心が混じっていた。


「こんな真似ができるのは、私と同等か、それに近い技術と執念を持った人間だけだ。素人の手遊びじゃない。明確な意図を持った、プロの犯行だ」


 店内に静寂が落ちる。


 チクタク、チクタクという時計たちの鼓動だけが、冷たい空気の中を伝わっていく。


「……親父が、そんな手の込んだことを……?」


 ケリーは呆然と呟き、マホガニーの箱を見つめた。


「お前の父親は、機械いじりが趣味だったと言っていたな。だが、これは趣味の領域を超えている。よほどの秘密を抱えていたか、あるいは、何かを強烈に伝えようとしていたかだ」


「……親父は、誰よりも真面目で、ワイズマン家という没落した貴族の看板を、最後まで一人で背負い込もうとしていた人だ」


 ケリーはギュッと拳を握りしめ、過去の記憶を掘り起こすようにぽつりぽつりと語り始めた。


「うちの家は、昔は王城の式典を取り仕切るほどの名家だったらしい。でも、何代か前の当主が事業に失敗して、借金まみれになった。親父の代になった時には、もう屋敷とこのオルゴール時計しか残っていなかったんだ」


 ケリーの琥珀色の瞳が、悲しげに伏せられる。


「親父はいつも、この時計の前に座って、ワイズマン家の誇りであるという伝統の曲を鳴らしていた。でも、その背中はいつも小さくて、苦しそうだった。俺たち兄弟には『貴族としての誇りを忘れるな』と厳しく言っていたけど……俺には、親父自身が、その誇りという名の呪縛に一番苦しめられているように見えた」


 長男は借金を返すために屋敷の物を売り払い、他の兄弟たちも家を見限って散り散りになった。五男であるケリーも、そんな息苦しい家から逃げ出すようにして騎士団に入ったのだ。


「……親父は、死ぬ前の数ヶ月間、ずっと一人で自室にこもって、この時計をいじっていたらしい。俺がたまに手紙を出しても、返事は来なかった。そして、この狂った時計だけを残して、病気で死んだんだ」


 朝の光が、ケリーの大きな背中を物悲しく照らしている。


 お節介で、いつも明るく手作りのスープを持ってくる大型犬のような青年が抱えていた、没落貴族という重い十字架。


「……なるほどな。ワイズマン家の呪縛、か」


 シルクが静かに呟いた。


「誇りを捨てきれぬまま死んでいった哀れな男が、最後に息子たちへ残したのが、この呪いのような不協和音じゃったとはな。長男がこれを売り払おうとするのも無理はないわい」


「……だが、呪いではないと言ったはずだ」


 アリアの冷たく、しかし確かな力を持った声が、感傷的な空気を断ち切った。


「物理法則は嘘をつかない。この時計に施された加工は、ただ価値を落とすための破壊行動としては、あまりにも理路整然としすぎている。お前の父親は、確実に『誰か』に解読されることを前提に、この暗号を仕組んだ」


 アリアは作業机の引き出しを開け、精密なノギスと、真鍮の無垢材を取り出した。


「……アリア? 何をする気だ?」


「……決まっている。検証は終わった。このオルゴールが抱えている病巣の正体は完全に解明した。次は、そのノイズを取り除き、隠された真のメッセージを再生するための準備に入る」


 アリアの青い瞳に、職人としての底知れぬ熱が灯っていた。


「元の状態に戻すのは簡単だ。削られた歯車を交換し、櫛歯を再調律すればいい。だが、それでは父親が意図的に残した『メッセージ』ごと削り落としてしまうことになる。だから、時計本体には一切手を加えない」


 アリアは真鍮の無垢材を作業机の上の万力に固定した。


「狂ったシリンダーの回転とピンの配置だけを正確に拾い上げる、特殊な外部フィルターを私が作ってやる。お前の親父が命を削って仕込んだ不格好な暗号の正体を、物理的に暴き出してやる」


 ケリーは息を呑み、その美しい横顔を見つめていた。


 彼女は無愛想で、他人の感情に無頓着で、機械のことしか頭にない。だが、その目は今、死んだ父親が残した、誰も理解しようとしなかった呪いのような細工に、真っ向から挑もうとしているのだ。


 王都の路地裏が、すっかり朝の光に包まれた頃。


 アリアは極小の金属ヤスリを手に取り、静かに、しかし確かな手つきで真鍮を削り始めた。


 ギィィ、ギィィという金属を削る鋭い音が、店内に新たなリズムを刻んでいく。


 狂った調律の中に隠された、亡き父親の真意。

 それを解き明かすための、天才時計職人の緻密な再構築が始まっていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【★★★★★】をいただけますと幸いです。


次回お楽しみに。

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