第8話:貴族街からの使者と、五男坊の事情
新シリーズです
穏やかな午後の陽光が、すりガラスの窓を通して店内に四角い光の模様を落としている。
空気中を浮遊する微細な埃が、その光の帯の中でキラキラと金色の粉のように舞っていた。外の通りを急ぎ足で通り過ぎる人々の気配や、遠くで荷馬車が立てる車輪の音は、分厚い壁と防音の魔法陣に遮られ、まるで水底から見上げる水面のように遠く感じられる。
アリアの時計修理店を支配しているのは、今日も変わらず、無数の時計たちが刻む「チクタク」という規則正しい呼吸音だけだった。
ふわりと、淹れたてのアールグレイの香りが鼻腔をくすぐる。
アリアは作業机の前に座り、静かに紅茶のカップを傾けた。ベルガモットの爽やかな香りが、長時間ルーペを覗き込み続けて疲労した脳の輪郭を、少しだけ優しく解きほぐしてくれる。
机の上には、先ほどまで彼女が格闘していた修復済みのスケルトンクロック――内部の歯車機構がすべて外から見えるように作られた、精巧な置き時計――が、誇らしげに真鍮の輝きを放ちながら時を刻んでいる。
「……アンクルの振り角、二百七十度。姿勢差による誤差も許容範囲内。完璧だ」
アリアはカップをソーサーに戻し、満足げに小さく呟いた。
「相変わらず、見事な集中力じゃのう。だが、たまには瞬きくらいせんか。目が乾いて干からびた魚のようになるぞい」
カウンターの上で丸くなっていた黒猫のシルクが、長いあくびをしながら片目を開けた。
「……時計の異常は、音だけでなく、歯車のミクロのブレを視覚で捉える必要がある。瞬き一つで、致命的な不具合を見落とすかもしれない」
「やれやれ、息苦しい生き方じゃ。お前さん、前世とやらでもそんな風に機械とばかり睨めっこしておったんじゃろうな」
シルクの呆れたような言葉に、アリアは反論しなかった。事実、その通りだからだ。前世の病室でただ死を待つしかなかった時間に比べれば、こうして心ゆくまで時計の構造と向き合える今の時間は、彼女にとって至福以外の何物でもない。
カランコロン、と。
重厚な真鍮のドアベルが、静寂を破って控えめに鳴らされた。
アリアが視線を入り口に向けると、分厚いオーク材の扉を開けて、一人の初老の男性が入ってくるのが見えた。
仕立ての良い、しかしどこか時代遅れの黒い燕尾服を身に纏い、背筋をピンと伸ばした白髪の紳士だ。手には革製のアタッシュケースよりも一回り大きな、黒いベルベットの布に包まれた箱を大切そうに抱えている。
薄暗く埃っぽい王都の路地裏には、到底似つかわしくない身なりの人物だった。
「……いらっしゃい」
アリアが立ち上がり、いつものように抑揚のない声で迎える。
初老の男性は、店内の壁を埋め尽くすアンティーク時計の数々に一瞬だけ目を奪われたようだったが、すぐに表情を引き締め、アリアの前へと歩み寄った。
「突然の訪問、失礼いたします。こちらは、腕の良い時計職人がいらっしゃると噂に聞いた修理店で間違いありませんかな」
男性の言葉遣いは非常に丁寧だが、その声の底には、貴族に仕える者特有の、微かなプライドと警戒心が滲んでいた。こんなうら若き美少女が、本当に「凄腕の職人」なのかと値踏みしているような視線だ。
「……私がここの時計師だ。アリアと呼べばいい。そちらの用件は」
アリアは相手の疑念など微塵も気に留めることなく、淡々と本題を促した。
男性は小さく咳払いを一つすると、カウンターの上に抱えていた布積みの箱を静かに置いた。
「私は、王都第三区画に屋敷を構える、ワイズマン子爵家に仕える執事でございます。本日は、当家の当主より、ある時計の修理を命じられて参りました」
「……ワイズマン?」
アリアの眉が、わずかにピクリと動いた。
「ほう。ワイズマンと言ったか。それはまた、奇遇な名前じゃのう」
カウンターの端からシルクが歩み寄り、興味深そうに執事の顔を見上げた。喋る黒猫の存在に執事は一瞬ギョッとしたものの、すぐに己の感情を抑え込み、無表情を取り繕った。
「……うちの常連客に、同じ名前の騒がしい大型犬がいる。騎士見習いの、ケリー・ワイズマンという男だ。関係者か」
アリアが真っ直ぐに問うと、執事の顔に、明確な動揺と、そして深い苦悩の色が浮かんだ。
「……ケリー坊っちゃんを、ご存知でしたか」
執事は深くため息をつき、肩を落とした。
「……坊っちゃんは、ワイズマン子爵家の五男坊でございます。とはいえ、当家はすでに過去の栄華を失い、貴族とは名ばかりの没落した家門。領地からの税収も途絶え、屋敷の維持すら事欠く有様でして……」
執事の口から語られたのは、お節介で真っ直ぐなあの騎士見習いの、意外な背景だった。
没落していく家の中で、家督を継ぐこともできない五男という立場。ケリーは家の負担を減らすため、そして自らの腕一本で生きていくために、半ば家出のような形で屋敷を飛び出し、過酷な騎士団の訓練生に志願したのだという。
「……なるほど。あの無駄に良い体格は、騎士としての鍛錬だけでなく、幼い頃からの貴族としての教養や栄養状態の賜物でもあったというわけか」
アリアは、ケリーがよく持参してくる手作りスープの、あの異常なまでの塩加減の絶妙さと根菜の旨味を思い出していた。没落したとはいえ、貴族の舌で育ったからこそ、あのような繊細な味付けができるのだろう。
「ケリー坊っちゃんは、昔から真っ直ぐで、誰に対しても優しいお方でした。家を出てからも、わずかな給金の中から、密かに屋敷に仕送りを続けてくださっているのです」
執事の目尻に、微かな涙が光った。
「やれやれ、あの大男、見かけによらず苦労しておるんじゃな。いつもヘラヘラと笑いながらスープを運んでくるから、てっきりどこかの能天気な平民の倅かと思っておったわい」
シルクが尻尾をパタパタと揺らしながら、少しだけ同情を込めた声で言った。
「……他人の家の事情に興味はない。それで、そのワイズマン家の時計を、なぜ王城の御用達職人ではなく、こんな路地裏の店に持ってきた」
アリアは執事の感傷を冷酷なまでに断ち切り、カウンターの上の黒い布へと視線を向けた。
執事はハッとして居住まいを正すと、ゆっくりと黒いベルベットの布を取り払った。
現れたのは、息を呑むほど美しい、重厚なマホガニー材で作られた木箱だった。
表面には繊細な真鍮の象嵌細工が施され、植物の蔦を模した美しい紋様を描いている。箱の正面にはガラス張りの丸い窓があり、その奥に精緻なエナメルの文字盤と、青焼きの針を持つ時計が収まっていた。
しかし、この箱の真の価値は、時計の部分だけではない。
箱の下半分を占める巨大な空間。そこには、金色の真鍮で作られた巨大な円筒と、それに噛み合うように配置された鋼鉄の櫛歯が収められていた。
「……オルゴール時計か」
アリアの青い瞳が、獲物を見つけた鷹のように鋭く細められた。
オルゴール。地球ではシリンダー・オルゴールとも呼ばれる自動演奏楽器の一種だ。
ゼンマイの動力を利用して、表面に無数の小さなピンが植えられた真鍮のシリンダーを回転させる。そのピンが、長短様々な長さに切り揃えられた鋼鉄の櫛歯を弾くことで、特定の音階を奏でる。時計と連動し、正時になると自動的に美しいメロディを響かせる、極めて複雑で贅沢なからくり機械である。
「はい。ワイズマン家に代々伝わる、家宝のからくり時計でございます」
執事は悲痛な面持ちで、マホガニーの箱を愛おしそうに撫でた。
「現在の当主である長男様は、家計の立て直しのために、屋敷の美術品を次々と売り払っております。そしてついに、この最後の家宝であるオルゴール時計をも、隣国の裕福な商人に売却することを決められました」
「……それで? 売ればいいだろう。金が必要なんだろう?」
「ええ。ですが……数ヶ月前から、この時計の奏でる音楽が、酷く狂ってしまったのです」
執事は躊躇いがちに、時計の側面にある真鍮のレバーに手を伸ばした。
「言葉で説明するよりも、お聞きいただいた方が早いでしょう。強制演奏のレバーを引きます」
カチリ、と。
執事がレバーを引くと、箱の内部から、シュー……という微かな風切り音が聞こえ始めた。シリンダーの回転速度を一定に保つための、ガバナー(調速機)の羽が空気を切る音だ。
直後。
ポロン、と最初の櫛歯が弾かれた。
本来であれば、それは心を癒やすような、澄み切った美しい和音のはずだった。
しかし、続いて弾かれた複数の音は、設計された音階から半音、あるいは四分の一音だけ微妙にずれており、聞く者の神経を逆撫でするような、極めて不快な不協和音となって店内に響き渡った。
ギギッ、ビィン、という、金属が無理に弾かれるようなノイズも混じっている。
まるで、美しい音楽を奏でようとする機械の首を絞め、無理やり悲鳴を上げさせているかのような、おぞましい音色だった。
「……これは、ひどい」
アリアは思わず顔をしかめ、両手で耳を塞ぎそうになるのを堪えた。シルクに至っては、全身の毛を逆立てて「ニャオォウ!」と威嚇の声を上げ、カウンターの隅へと飛び退いている。
「なんじゃこの呪われたような音は! 黒板を爪で引っ掻く音の方がまだマシじゃぞ!」
「……止めろ。鼓膜がおかしくなる」
アリアの冷たい命令に、執事は慌ててレバーを押し戻した。
不協和音の残響が、静かな店内にしばらくの間、ねっとりとこびりつくように残った。
「申し訳ありません……。ご覧の通りです。時計としての機能は正常なのですが、肝心のオルゴールの音が、このように狂ってしまっているのです。これでは、商人も買い取ってくれません」
執事は深く頭を下げた。
「当然だろうな。こんな音楽を聴かされれば、ノイローゼになる」
アリアはそう吐き捨てながらも、右目にルーペを嵌め込み、ガラス越しにオルゴールの内部構造を凝視し始めていた。
オルゴールの音痴化。
その原因は、物理的な構造から推測すればいくつか考えられる。
一つは、櫛歯の調律の狂い。鋼鉄の櫛歯は、根元を削るか、先端に鉛の重りをつけることで音階を調整するが、長年の使用で金属疲労を起こしたり、重りが外れたりすれば、当然音は狂う。
もう一つは、シリンダーのピンの曲がり。櫛歯を弾くタイミングがずれることで、和音のバランスが崩壊するケースだ。
あるいは、シリンダー自体の回転軸のズレや、ガバナーの油切れによる回転速度のムラ。
「……王都の職人には見せたのか」
「はい。高名な魔法技師や、他の時計職人にも見てもらいました。しかし、皆一様に首を振るのです。『魔法の呪いがかかっている』と言う者や、『櫛歯の構造が複雑すぎて、一度分解すれば二度と元の音には戻せない』と言う者ばかりで……」
執事の言葉に、アリアは小さく鼻で笑った。
「……魔法の呪いだと? 馬鹿馬鹿しい。そんな非科学的な理由で機械が狂うものか」
アリアはオルゴール時計を引き寄せ、真鍮の象嵌を指先でなぞった。
複雑な構造。そして、一度分解すれば二度と戻せないという恐怖。この世界の職人たちが手を引いた理由はよくわかる。
オルゴールは、時計以上に「音」という感覚的な要素を極めなければならない、究極の精密機械だ。目に見える歯車の噛み合わせだけでなく、目に見えない周波数の波を完全にコントロールする技術が求められる。
だが、前世の天才時計職人であるアリアにとって、それは決して不可能の領域ではない。
「……引き受けよう」
アリアの言葉に、執事は弾かれたように顔を上げた。
「ほ、本当ですか!?」
「……勘違いするな。ワイズマン家を救うためでも、ケリーのためでもない」
アリアはルーペを外し、氷のように冷たく、しかし静かな熱を帯びた瞳でオルゴールを見据えた。
「これを作った職人の技術の高さは、外装や歯車の配置を見ただけでもわかる。これほど美しい機械が、あんな醜い悲鳴を上げている状態を、時計師として放置しておくわけにはいかない。ただそれだけだ」
「ありがとうございます……! どうか、よろしくお願いいたします」
執事は涙ぐみながら深く頭を下げ、預かり証を受け取ると、逃げるようにして店を後にした。
扉が閉まり、再び静寂が戻った店内。
アリアは無言のまま、カウンターの上の重厚なマホガニーの箱を見つめていた。
「……おい、嬢ちゃん。本当に直せるのか? あの音、どう考えてもただの経年劣化とは思えんかったぞ」
毛を逆立てたままのシルクが、恐る恐る近づいてくる。
「……ああ。あれは単なる部品の摩耗じゃない。誰かが意図的に、このオルゴールに手を加えている」
アリアは極小のドライバーを手に取り、オルゴールのガラスカバーを固定している真鍮のネジに狙いを定めた。
「直すんじゃない。この狂った音色の中に隠された『意図』を、私が暴き出してやる」
ゴーン、と。
遠く王都の中心から、午後三時を知らせる大時計台の鐘が響いた。
その音はやはり分厚い毛布越しに叩いているようにくぐもっており、目の前にあるオルゴールの不協和音と、どこか奇妙にリンクしているように、アリアの耳には聞こえた。
失われた没落貴族の栄華と、狂った家宝のメロディ。
天才時計職人の静かな執刀が、今始まろうとしていた。
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次回お楽しみに。




